天守とはそもそもどんな役割を持った建物なの?
天守の形やデザインの違いについても知りたいな!
今回は天守の疑問に答えていきます。
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「お城」というと天守のことを思い浮かべる人が多いと思います。
お城のシンボルと言われることの多い天守ですが、どんな役割を持っていたのでしょうか?
この記事では「天守とは何か?」「天守の歴史」などを写真・図解などを使って解説していきます。
- そもそも天守とは何?
- 天守の歴史
- 天守の形やデザイン
では解説していきます。
Contents
そもそも天守とはどんな建物?
天守は城主の権威のシンボルを表している建物
天守(天主)とは織田信長の安土城天主で、初めて本丸に建てられた高層建築。
天守はふつうお城の最重要部(本丸)かもっとも高いところに建てられました。
天守をお城の中心に建てることで、お城を見た人に城主(大名)の権威を示すことができるように。
そのため幕府や大きな領地を持つ大名は、権威を示すために大きな天守を建てることを競っていました。
「天守=城、本丸」ではありません。
よく誤解している人が多いのが「天守=お城」「天守=本丸」というもの。
TVや雑誌などで天守の写真・映像と一緒に〇〇城と紹介しているので誤解されても仕方がない所もあるけど、「天守=城、本丸」ではありません。
例えば「大阪城というお城の、本丸という区画(曲輪)の中に建てられた、天守という建物」と表現するのが正確です。
天守というのは城主の権威を示すための道具(建物)であって、お城の必須パーツではありませんでした。
伊達政宗の仙台城は天守を建てる計画すらなかったし、天守を建てるための土台の石垣(天守台)だけを造って天守を建てなかったお城もあります。
このように天守はお城に必要な建物ではなく、「天守=お城、本丸」ではありません。
天守の歴史ー天守を広めたのは織田信長と豊臣秀吉
ここでは天守の歴史を解説します。
天守の始まりは織田信長の安土城から
城主・お城の権威を示すシンボルとしての天守は、織田信長の安土城天主が初めて。
しかし天守という建物がいつから建てられるようになったのかはハッキリしていません。
安土城以前にも信長の岐阜城や明智光秀の坂本城などにも天守が建てられていたとされています。
シンボルとしての天守は信長のあと豊臣秀吉が引き継いで、大坂城・名護屋城・伏見城と発展させていきました。
この過程で全国の大名たちが秀吉のマネをして、自身のお城に天守を築いたことで全国に天守が広まっていきました。
天守に住んでいたのは織田信長だけ!
天守に実際に住んでいたのは織田信長だけ。
信長の安土城天守の内部は書院造り(武士の住宅建築様式)になっていて、襖(ふすま)には絵画を描かせていたといいます。
豊臣秀吉も大坂城天守のなかを装飾していて、訪問した大名に天守を案内していました。
しかし秀吉は天守ではなく御殿に住んでいます。
信長・秀吉以降の天守は質素な作りになっていました。
江戸時代を通して、天守はふつう空き家になっていたり物置・倉庫として使われていて、城主は御殿で日常生活を送っていました。
スポンサーリンク天守の形やデザイン
天守は時代の変化や建築技術の発展によって形が変化してきました。
ここでは天守の外観(形やシャチホコ、破風など)について解説します。
天守の形式と構造
天守の形を分類すると、2つの形式と4つの構造で分けることができます。
天守の型式
- 望楼型天守
- 層塔型天守
天守の構造
- 独立式天守
- 複合式天守
- 連結式天守
- 連立式天守
天守の型式2つ「望楼型」と「層塔型」
望楼型(ぼうろうがた)天守とは入母屋造り(いりもやづくり)の建物の上に、望楼を載せた形式の天守。
望楼型天守は古い形式で、姫路城や彦根城、犬山城の天守が望楼型天守です。
層塔型(そうとうがた)天守とは下の階から上の階へと規則的に小さくなっていく形式の天守。
層塔型天守は関ヶ原の戦い(1600年)ころから建てられるようになった比較的新しい形式で、伊予松山城や宇和島城、弘前城の天守が層塔型天守です。
天守の構造4つ「独立式」「複合式」「連結式」「連立式」
天守はその周囲に小天守や櫓が付属しているかどうかで、構造が4つに分けられています。
「独立式」とは天守に付属している建物はなく、天守のみ独立して建てた構造。
宇和島城、高知城などの天守が独立式天守です。
「複合式」とは天守に付櫓を直結させた構造。
犬山城、彦根城、熊本城などの天守が複合式天守です。
「連結式」とは天守と小天守を渡櫓や橋台で接続した構造。
名古屋城、松本城などの天守が連結式天守です。
「連立式」とは天守と2基以上の小天守を渡櫓で接続した構造。
姫路城や伊予松山城、和歌山城の天守が連立式天守です。
天守の屋根飾り「破風」
「破風(はふ)」とは屋根の端っこにある三角形の壁面のこと。
天守の屋根に破風を付けることで飾ることでき、より個性的な外観にすることができました。
破風には形状によって「入母屋(いりもや)破風」「切妻(きりづま)破風」「千鳥(ちどり)破風」「唐(から)破風」などの種類があります。
これらの破風を組み合わせて天守の屋根に配置していくことで、大名は美意識を表現していました。
また破風の裏側には「破風の間」という屋根裏部屋があって、ここは防御にも活用されています。
狭間(さま)という鉄砲で狙うための穴がつけられていて、破風の間から天守に迫る敵を狙っていました。
天守の黒い壁と白い壁
天守の外壁は大きく分けると「黒い壁の天守」と「白い壁の天守」に分けられます。
黒い壁は「下見板張(したみいたばり)」といって、土壁の上に墨を塗った板を貼っていた壁面。
松本城や松江城天守などが黒い壁の天守です。
白い壁は「塗籠(ぬりごめ)」といって、土壁の上に漆喰を塗った壁面。
姫路城や弘前城の天守などが白い壁の天守です。
天守のお守り「シャチホコ」
天守の一番上の屋根に載せられているのが「シャチホコ(鯱・鯱鉾)」です。
シャチホコは口から水を吐いて火を消すと言われている空想上の動物で、このことから天守の上に載せることで火災から守っていました。
シャチホコはもともと瓦で作られていたけど、のちに木製のシャチホコに銅板を貼ったものや名古屋城天守では金塊で作っています。
お城めぐりで改めて天守に注目してみよう!
今回は「天守」を解説しました。
もう一度内容をまとめておきます。
- 天守の役割は城主(大名)の権威を示すシンボル
- シンボルとしての天守は織田信長の安土城から
- 「天守=城、本丸」ではない
- 城主は天守ではなく御殿に住んでいた
- 天守の形式2つ「望楼型」と「層塔型」
- 天守の構造4つ「独立式」「複合式」「連結式」「連立式」
- 天守はさまざまな破風を組み合わせて個性的な外観にしていた
- 天守の壁は使われている材料で「黒色」や「白色」になった
- シャチホコは天守を火災から守るお守り
お城めぐりをするときは、ぜひこの記事を参考に「天守」に注目してください。
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