お城をめぐる戦い

織田信長と稲葉山城の戦いー美濃攻略戦

織田信長と稲葉山城の戦い

今回は「稲葉山城の戦い」を紹介します。

この記事では、織田信長が戦国大名・斎藤氏と争って美濃(岐阜県南部)を攻略し、稲葉山城の戦いで決着をつけるまでを解説していきます。

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれている織田信長。桶狭間の戦いをへて、尾張(愛知県西部)を統一した信長が次の標的、美濃をどのように攻略していったのでしょうか?

複数の本や雑誌などで調べてまとめてみました。

この記事でどのように信長が美濃を手に入れていったのかわかります。
そして、最後にこの記事に登場するお城をまとめておきます。信長の足跡をお城で辿ってみるのはいかがでしょうか?

Contents

稲葉山城の戦いってどんな合戦?

信長が美濃を支配して、天下統一を目指すキッカケになった合戦

岐阜城(稲葉山城)全景岐阜城(稲葉山城)全景

まずは稲葉山城の戦いとはどんな合戦だったのか紹介します。

稲葉山城はのちの岐阜城になるお城のことで、織田信長が城主になる以前は稲葉山城と呼ばれていました。
斎藤道三から始まる美濃の戦国大名・斎藤氏は代々この稲葉山城を拠点にしてきました。

そして信長が11年におよぶ斎藤氏との争いに決着をつけたのが稲葉山城の戦いでした。
この合戦に勝利した信長は、斎藤氏を追い出して美濃の支配を確実にしています。

信長は稲葉山城を手に入れると「岐阜城」と改名し、有名な「天下布武」の印を使い始めたのもこの頃からでした。
信長が天下統一へと進んでいく第一歩として稲葉山城の戦いー美濃攻略戦がありました。

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織田信長の稲葉山城の戦いー美濃攻略戦

道三が亡くなるまで、織田・斎藤は友好関係だった

信長の父・織田信秀は何度も美濃へ侵攻していて、斎藤道三と争っていました。しかし道三が手強くて信秀は美濃を取ることはできませんでした。

状況が変わって信長と道三の娘・帰蝶(きちょう)が結婚して、織田と斎藤で同盟をむずぶことになります。同盟によって織田信秀は駿河の今川義元に、斎藤道三は美濃国内の安定に専念することができました。

のちに信秀が亡くなって、信長の代になっても同盟は維持されています。むしろ織田と斎藤は仲が良かったほど。
信長が敵のお城を攻める時に手薄になってしまう那古野城の守りを道三に依頼していました。(戦国時代、同盟を結んでいても自分のお城を他人に任せることは珍しいことでした)

しかし信長と仲の良かった道三は、息子の義龍と仲たがいしていました。そのため義龍によって強制的に隠居させられてしまいます。一方で道三はそのまま隠居しているほどお人好しではありませんでした。

道三はもう一度権力を取り戻そうと息子の義龍に挑んでいき、長良川の戦いで敗れて亡くなります。この時、信長は道三救出のために美濃へ出陣したけど、間に合いませんでした。

道三が亡くなったことで織田と斎藤の同盟は解消することになっています。

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義龍の急死を知った信長は混乱に乗じて美濃を侵攻

森部の戦い森部の戦い

織田と斎藤の同盟がなくなったからといって、すぐに争うことにはなりませんでした。

信長は尾張統一や今川氏との戦い(桶狭間の戦い)があり、美濃どころではありませんでした。義龍は美濃国内の混乱を治めて、内政を重視して他国を攻めるのは後回しにしていました。

表面的な争いはなかったけれど、義龍は策略をめぐらせていました。
信長の尾張統一が見えてきた頃、犬山城主で信長のいとこ・織田信清が信長に反抗を始めました。この裏で義龍が信清を操っていたと言います。

しかし義龍が急病で亡くなってしまいます。義龍の息子・龍興はまだ14歳でした。

当主が急死して斎藤氏は混乱していると判断した信長は美濃に侵攻。まだ義龍が亡くなってから2日後のことでした。

信長は木曽川を越えて進んでいき、出てきた斎藤軍と森部(岐阜県安八町)という場所で両軍がぶつかり合戦になりました。斎藤軍は大将クラスを含めて170人あまりが討ち取られ、信長軍の大勝利でした。(森部の戦い)

信長は尾張へは戻らず、そのまま進んでいきました。墨俣の砦を修築し、そのあと十四条と西軽海(岐阜県本巣市)で再び斎藤軍との戦いになっています。この合戦では決着はつかず、信長は尾張へと撤退していきました。

義龍が亡くなった後の斎藤家は、信長が想像していたよりも家臣たちが団結していて、まだまだ手強い相手でした。

豊臣秀吉と竹中半兵衛の活躍

秀吉像と墨俣城模擬天守秀吉像と墨俣城模擬天守

信長が美濃を攻めていた頃、豊臣秀吉(この頃は木下藤吉郎)と、のちに秀吉のもとで活躍する竹中半兵衛が活躍しています。

秀吉は信長の美濃攻めのなかで、敵武将の寝返り工作を担当。敵武将を巧みに誘って寝返らせていました。
また有名な話で、墨俣一夜城があります。この話はずっと後の時代に作られた創作だとされていて、史実だったかはハッキリしていません。

斎藤軍にジャマをされて墨俣に砦を築く工事がうまく進んでいなかったところ、秀吉は信長から砦築城を命じられました。秀吉は築城を成功させるため、川の上流で事前に木材を加工。現地では加工された木材を組み上げる作業だけにすることで作業時間を短縮し、ジャマをされることなく砦を完成させました。

このころ竹中半兵衛は斎藤家の家臣でした。
義龍が亡くなって間もないころ、信長が攻めてきたけど半兵衛の策略によって信長軍に勝利しています。(新加納の戦い)しかし斎藤龍興からは褒美や労いの言葉もなかったと言います。

1564年、半兵衛はわずか16人で稲葉山城を乗っ取るという事件を起こしていました。
龍興がひいきにしている家臣に半兵衛が小便をかけられたことがキッカケの一つとなって、乗っ取りへ発展していったといいます。

半兵衛は半年ほど稲葉山城を乗っ取ったのちに、再び龍興へお城を返しています。
乗っ取り事件の真相は分かりませんが、半兵衛が当主である龍興をいさめるために行ったなどの説があります。
この事件から義龍死後の斎藤家内で、団結力にほころびが見え始めていました。

西美濃から方針転換した信長は中美濃を攻めていく

猿啄城、加治田城などの位置関係猿啄城、加治田城などの位置関係

1563年に信長は居城をそれまでの清洲城から新しく築いた小牧山城へと移しました。
信長はそれまでの西美濃から稲葉山城を攻めていくのを諦めて、東から攻める戦略に切り替えました。そのための小牧山城であり、信長に反抗している犬山城の織田信清へ圧力をかける目的もありました。

信長は家臣の丹羽長秀を使って、信清に従う黒田・小口城を降伏させています。そして小牧山城築城の翌年には、犬山城が落城したと伝わっています。
また犬山城と並行して信長は美濃を攻めていて、兼山城を落としていたり稲葉山城の周囲に付城を築いていました。

次に信長は犬山城を足がかりに中美濃へ侵攻。
犬山から木曽川を渡って対岸の伊木山に着陣し、鵜沼(うぬま)城を攻め落としました。
そこから木曽川をのぼっていって、信長軍は猿啄(さるばみ)城も落城させています。

鵜沼・猿啄城が落城したところで、より北にある加治田城の佐藤忠能(ただよし)が丹羽長秀を通じて信長に寝返りをしてきました。これを信長は喜んで受け入れ、中美濃攻略の前線基地にと考えています。

ここから斎藤氏が反抗にでています。加治田城の南、堂洞に付城を築き(堂洞城)、周囲に兵を置いて加治田城を包囲しようとしました。

信長の味方に自らなってくれた佐藤忠能を見殺しにすると、この後信長に協力してくれる武将が出てこなくなったり、家臣からの信頼が失われてしまいます。
このため、信長は堂洞城を攻略するために小牧を出陣していきました。

信長は軍を2つに分けて堂洞城を攻める部隊と周囲の斎藤軍を警戒する部隊に分けて攻めていきました。

戦いは正午から始まって、信長軍は堂洞城を攻めていきます。信長軍は二の丸に松明を投げ込んで火災を起こしたりして、戦いを有利に進めました。
合戦は夜まで続き、敵味方が見えなくなるまで戦っていたと言います。そしてようやく信長軍がお城の占領に成功しています。

この日は加治田城で一泊した信長は、翌日小牧へと戻っていきました。このとき、信長軍は斎藤軍による追撃にあったものの大事にはいたりませんでした。

連戦連勝ではなかった信長軍

ある時、信長は増水していた木曽川を渡って美濃の河野島(岐阜県岐南町)というところに着陣しました。斎藤龍興もただちに自ら出陣、信長軍への対応にあたっています。(河野島の戦い)

着陣した翌日は風雨がヒドくて、両軍ともに戦いをしかけられる状況ではありませんでした。

次の日になって、突然信長軍が退却を開始。しかし風雨によって増水していた木曽川で大勢が亡くなり、残った者も武器や甲冑を捨てて逃げていたと言います。さらに信長軍に斎藤軍が襲いかかり、さらに多数の被害を出していました。

この戦いは信長の家臣・太田牛一が書いた「信長公記」には簡単にしか書かれていなくて敗北したのか勝利したのか分かりません。反対に斎藤氏が出した書状には上記のような織田軍に勝利を収めた内容が書かれていました。

信長家臣の太田牛一が主人の敗北をわざと書かなかったのではないか、などと指摘されています。
信長の美濃攻めは信長の一方的な攻勢ではなく、敗北した合戦もある一進一退の攻防戦でした。

電光石火の奇襲で決着がついた稲葉山城の戦い

稲葉山城の戦い(岐阜城)稲葉山城の戦い(岐阜城)

斎藤龍興は家臣たちの支えもあって、信長の攻撃に耐えていました。
しかしその家臣の中心人物だった稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の3人が同時に信長に寝返ってきました。
信長は寝返るの確証として3人に人質を要求し、人質を預かるために家臣2人を派遣。

ところが信長は3人からの人質が小牧山城へ到着する前に出陣、稲葉山城から峰つづきになっている瑞龍寺山に布陣しています。

布陣した翌日、稲葉山城の城下町・井ノ口に放火して、お城の周囲に柵などを巡らせて包囲しました。

この信長のスピードに寝返りで混乱する斎藤軍は対処できていませんでした。
当初、龍興は布陣した信長軍を見て、自分を助けに来た味方の兵だと勘違いしていたとも言います。
また信長は最初三河(愛知県東部)方面に出陣すると言って準備をさせていました。こうすることで、たとえスパイがいても相手に警戒されないよう信長は工夫していました。

包囲されて2週間ほどたって、斎藤龍興は守りきれないと判断してお城を脱出。長良川をつたって伊勢長島へと逃れていきました。

ここで斎藤道三からつづく、戦国大名斎藤氏は滅びました。

美濃を手に入れた信長は小牧山城から稲葉山城へ移り、名前を岐阜城とあらためています。
そして岐阜から京都を目指していきます。

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稲葉山城の戦い まとめ

今回は織田信長がどのようにして斎藤氏と争って、美濃を奪取していったのかを見てきました。

信長が美濃を取ることができた理由は2つあります。

1つは、考え方を柔軟に変更したこと。
当初信長は西美濃から攻めていきました。しかし西美濃を守る武将が手強くうまく進みませんでした。そこで、秀吉を使って敵武将の寝返りを促せたり、西美濃から中美濃へと攻める方向を変えています。

このように力攻めだけに頼るだけじゃなく、裏工作や方向を変えてみる柔軟な対応を信長は行うことができていました。

2つ目は、即断即決でスピード重視で行動したこと。
信長は義龍が亡くなった後や敵武将が寝返ってきた時など、他の人が驚くようなスピードで行動していました。信長は相手の出方をみるのではなく、即断即決で行動することで状況を自分に有利なものにしていました。

さらにチャンスが訪れた時にすぐ行動できるよう準備を怠っていませんでした。清洲城から小牧山城へとより美濃へ近い場所へ居城を移していたこともその一つと言えます。

信長は目的のために柔軟に考え方を変えるし、チャンスが来たときのために準備を怠っていませんでした。この信長の思考方法、行動力は現代社会で生活でも参考にできるので、お手本にしていきたいですね。

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今回登場した主なお城へのアクセス

稲葉山城(岐阜城)

岐阜城からの眺望岐阜城からの眺望

 

天下布武をかかげた織田信長が居城とした岐阜城。
信長以前は稲葉山城と呼ばれていて、斎藤道三による国盗りの舞台にもなっていました。
現在の岐阜城は発掘調査が進んでいて、信長時代の岐阜城の姿がわかるようになってきています。また山頂の天守からは360°視界が開けていて、絶景を見ることができます。夜景もオススメです。

  • 岐阜県岐阜市
  • 電車での行き方:JR岐阜駅もしくは名鉄岐阜駅から岐阜バス「N80高富行き」など長良橋方面に乗車で、「岐阜公園・歴史博物館前」バス停で下車
  • クルマでの行き方:東海北陸自動車道岐阜各務原ICから国道21号線を西進、国道156号線を北進、岩戸トンネル出口を左折、鵜飼い大橋手前を左折、金華山トンネルを出た付近に岐阜公園駐車場あり
  • 詳しくはこちら「岐阜城へはどのようにいけばよいですか?/観光コンベンション課/岐阜市公式ホームページ
岐阜城の歴史
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清洲城

清須城模擬天守清須城模擬天守

清洲城跡に建っている模擬天守は資料館になっていて、展示では織田信長の偉業や清洲城の歴史を知ることができます。
また五條川の対岸には清洲公園があり、公園に立つ信長像は桶狭間の戦いへのぞむ信長をイメージしています。なので信長像は桶狭間の方向を向いています。

  • 愛知県清須市
  • 電車での行き方:JR東海道本線「清洲駅」より徒歩15分、名鉄本線「新清洲駅」より徒歩15分
  • クルマでの行き方:名古屋高速16号一宮線「春日出口」より約5分
  • 詳しくはこちら「アクセスー清須市観光協会

小牧山城

小牧市歴史館小牧市歴史館

小牧山城は以前、信長が美濃を攻めるために一時的に築いたお城だと考えられていました。しかしその後の発掘調査などをへて、小牧山城は信長自信が設計した新しい居城だとわかってきました。麓から山腹までまっすぐ伸びる大手道はのちの安土城のモノと類似性が指摘されています。
山頂には資料館があり、小牧山城の発掘成果や小牧・長久手の戦いなどを知ることができます。

  • 愛知県小牧市
  • 電車での行き方:地下鉄名古屋駅から東山線乗車。「栄」駅で名城線に乗り換え。「平安通」駅で上飯田線・名鉄小牧線に乗り換えて「小牧」駅下車
  • クルマでの行き方:名神高速道路「小牧IC」より約5分
  • 詳しくはこちら「史跡小牧山へのアクセス方法/小牧市

猿啄(さるばみ)城

猿啄城からの眺望ー名古屋市方面猿啄城からの眺望ー名古屋市方面

別名「猿飛城」「根尾山城」とも呼ばれていました。
1407年には西村善政のお城だったことが記録に残っています。
山頂の展望台からは中央アルプス、御嶽山から名古屋まで見渡すことができる絶景ポイントです。

加治田城

加治田城ー本丸のようす加治田城ー本丸のようす

美濃と飛騨を結ぶ街道にあり、美濃の中心的な位置にあったため重要なお城とされていました。詳しい築城時期は不明で、佐藤忠能が築城したとも伝わっています。
本丸からの眺望が良く、名古屋市まで見渡すことができます。

  • 岐阜県富加町
  • 電車での行き方;長良川鉄道「富加駅」下車、徒歩60分
  • クルマでの行き方:東海環状自動車道「富加関IC」より約20分
  • 詳しくはこちら「加治田城と堂洞城ー富加町

参考資料+オススメ書籍