今回は「飫肥(おび)城の歴史」を紹介します。
飫肥城の歴史をおおまかに知りたい人
お城に興味を持ち始めた人
飫肥城へ行く前に予習しておきたい人
飫肥城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは飫肥城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも、歴史の概要はつかめます。
- 日向の実力者・土持氏が飫肥城を築城
- 伊東・島津が100年かけて争った飫肥城
- 武家屋敷が「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた飫肥城
お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。
この記事で飫肥城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。
Contents
飫肥城ってどんなお城?
伊東氏と島津氏が100年争った因縁のお城・飫肥城
宮崎県日南市にある飫肥城。
飫肥城は標高51mの南九州の特徴であるシラス台地の上に築かれていて、周囲を流れる山川と酒谷川を利用して防御していました。
飫肥城の特徴として、曲輪の一つひとつの独立性が高いことが挙げられます。
曲輪の一つが敵に奪われても、次の曲輪で戦闘を継続することが可能。
このようなお城は群郭式と呼ばれていて、戦国時代の南九州に多いお城の形です。
現在の飫肥城は、九州で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた武家屋敷があるなど、江戸時代の風景が残るお城です。
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ここからは飫肥城の歴史を戦国時代〜昭和まで順に紹介していきます。
戦国時代の飫肥城
日向の実力者・土持氏が飫肥城を築城
飫肥城が築城されたのは室町時代初期、南北朝時代と言って天皇・朝廷が二つに別れて争っていた時期でした。
飫肥城を築城したのは土持(つちもち)氏とされています。土持氏はもともと宇佐八幡宮(大分県)の神官だったと伝わっていて、のちに平安末期〜戦国時代にかけて日向国(宮崎県)に勢力をほこった一族です。
土持氏とは別に、鎌倉時代に工藤祐時(すけとき)という武士が日向の地頭に任ぜられて移ってきます。工藤祐時は伊豆半島の伊東荘を本拠地にしていたことから、伊東氏を名乗るようになりました。
伊東氏は地元(日向)の実力者だった土持氏に接近。土持氏と婚姻関係を持つことで、伊東氏はどんどん力を蓄えていきました。この後も、伊東氏と土持氏は親密な関係を続けていきます。
しかし親密だった両氏も薩摩島津氏への対応や日向守護の地位をめぐる争いなどから次第に対立。
戦国時代になると、土持氏は薩摩の島津氏の配下になってしまいました。
ここから伊東氏と島津氏の飫肥城をめぐる100年にわたる争いが始まっていきます。
伊東・島津が100年かけて争った飫肥城
1485年、伊東祐国(すけくに)が飫肥へ侵攻。
しかし反撃してきた島津軍との戦闘のなか、祐国は戦死してしまいます。
この後、祐国を失った伊東氏は、断続的に飫肥城を攻めていきます。
島津氏は戦いの原因になった城主(土持氏)を交代させて、直接飫肥城を治めるようになりました。
祐国の孫・伊東義祐(よしすけ)は佐土原城を本拠に、48もの支城を築いて日向を支配。
この頃、伊東氏はライバル島津氏を圧倒していて、義祐はついに飫肥城を奪取することに成功します。そして義祐次男の祐兵(すけただ)を飫肥城主にしました。
しかしその後の木崎原(きざきばる)の戦いで、伊東氏は有利な立場にありながら島津氏に敗北。さらに島津氏に攻められて、わずか9年で再び飫肥城を島津氏に奪われてしまいました。
島津氏に負けて逃げていた伊東義祐・祐兵は、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟を頼り、最終的に天下統一を進めていた豊臣秀吉の配下になっています。
祐兵は秀吉の九州平定戦に参加。秀吉軍の一員として島津軍と戦っていきました。そして秀吉が島津氏を倒すと、祐兵は秀吉より飫肥城を与えらています。
ここから幕末まで伊東氏が飫肥を治めていきます。
祐兵のころ、旧本丸の石垣と城下町の整備がされたと考えられています。
秀吉の死後、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いでは祐兵は家康の東軍に味方。戦後、祐兵は家康より飫肥城と5万1000石の領地を家康より保証されています。
伊東氏は単独では強敵・島津氏に対抗できないまでも、秀吉・家康の力を利用することで飫肥城を奪い返していました。
江戸時代の飫肥城
大地震で壊れた飫肥城、修理されて近世城郭に生まれ変わる
江戸時代の飫肥城は一貫して伊東氏が藩主として治めていきます。
江戸時代前半に飫肥城を数回にわたって地震が襲いました。
飫肥城は火山灰のシラス台地の上に築かれていたため、もろく崩れやすかった。そのため、飫肥城は地震で大きな被害をこうむっています。
伊東氏は飫肥城修理のために幕府へ修理許可を願い出て、お城の修理を開始。
修理といってもお城の形を大きく変える工事で、中の丸などを平坦にして新本丸にしました。そのほかに、石垣や櫓も備えられて、近世城郭として整備されました。
この修理工事は8年がかりで行われました。
明治の飫肥城
廃城令のあと、城内の建物がすべて取り壊された飫肥城
明治になると、旧藩主・伊東祐帰(すけより)は父・祐相(すけとも)と一緒に、城外の豫章館へ移り住んでいます。
豫章館はもともと重臣の屋敷だったもので、屋敷内にあった大樟にちなんで祐相が「豫章館(よしょうかん)」と名付けました。
廃藩置県のあと、本丸に飫肥県庁が置かれていました。
飫肥県はのちに都城県となり、その頃には城内の建物はすべて民間へ払い下げられていて取り壊されていました。
1884年には本丸跡に飫肥学校(現・飫肥小学校)が移転。
1890年に城跡は旧藩主・伊東家へ払い下げられています。
昭和の飫肥城
城下にのこる武家屋敷群が「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれる
昭和になると飫肥城の建物が再建されていきます。
1976年、幕末に作られた藩校・振徳堂(しんとくどう)が修理復元。
この藩校は1831年に創設され、明治の外交官・小村寿太郎もここで学んでいました。
翌77年には横馬場通、後町通、前鶴通を中心とした武家屋敷群が九州で初めての「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれています。
さらに78年には、明治になって取り壊されていた大手門が、樹齢100年を超える飫肥杉を使用して復元されました。同時に大手門周辺の木橋や土塀も一緒に復元されています。
つづく79年には、江戸時代の藩主の屋敷を再現した松尾の丸(御殿)が建てられました。
飫肥城にはどのような御殿が建てられていたのかは分かっていませんでしたが、二条城の御殿などを参考に松尾の丸が建てられています。
1983年、城跡は旧藩主・伊東家から日南市に譲渡されて、現在に至ります。
スポンサーリンク飫肥城の歴史年表
1346〜70 | 土持氏が飫肥城を築城したとされる |
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1458 | 島津氏が土持氏を配下にして、志布志城主だった新納忠続を飫肥城主に |
1485 | 土持氏が飫肥城主だったときに、伊東氏が侵攻 この戦いで伊東祐国が戦死、島津氏は飫肥城主を交代させる |
1568 | 伊東義祐が飫肥城を奪取 義祐の子・祐兵が飫肥城主になる |
1572 | 木崎原の戦いで、伊東氏は島津氏に敗北する |
1577 | 島津氏に攻撃されて、飫肥城は落城 伊東義祐・祐兵は豊後国へ逃げる |
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1578 | 耳川の戦いで、島津氏は大友氏に勝利して、日向を支配する |
1582 | 伊東義祐・祐兵は播磨(兵庫県)へ渡って、豊臣秀吉の配下になる |
1587 | 豊臣秀吉の九州平定戦の結果、伊東祐兵は再び飫肥城主に |
1600 | 関ヶ原の戦いで、祐兵の子・祐慶(すけのり)は東軍に味方して、領地を保証される |
1662 | 地震で飫肥城の石垣や建物が被害を受ける |
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1684 | 再び地震で石垣や建物に大きな被害を受ける |
1693 | 8年がかりの大工事の末、飫肥城の修理が完了する |
1831 | 藩校・振徳堂が建てられる |
1869 | 最後の藩主・伊東祐帰が城外の豫章館へ移る |
1873 | 廃城になって、城内のすべての建物が取り壊される |
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1976 | 藩校・振徳堂が修理復元される |
1977 | 城下の武家屋敷群が「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれる |
1978 | 大手門と木橋、土塀が復元される |
1979 | 松尾の丸に御殿が建てられる |
1983 | 城跡が伊東家から日南市に譲渡される |
飫肥城の歴史 まとめ
今回は「飫肥城の歴史」を紹介しました。
戦国時代、伊東氏と島津氏が飫肥城をめぐって争っていました。
戦国大名が一つのお城を長期間にわたって奪いあったという珍しいお城と言えるでしょう。
現在の飫肥城は復元された大手門などのほか、石垣や空堀が残されています。
また江戸時代の風景を残す武家屋敷通りが飫肥城の特徴・見どころの一つです。
戦国末期に整備された町割り、江戸時代の武家屋敷と一緒に飫肥城を見学してみてはいかがでしょうか?
最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 日向の実力者・土持氏が飫肥城を築城
- 伊東・島津が100年かけて争った飫肥城
- 武家屋敷が「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた飫肥城
飫肥城へのアクセス
- 宮崎県日南市飫肥
- 電車での行き方:JR飫肥駅から徒歩15分
- 宮崎自動車道「田野IC」より約50分
詳しくはこちら「飫肥城歴史資料館|観光にちなんの旅 日南市観光協会」