お城用語をわかりやすく解説

お城用語をわかりやすく解説 曲輪(くるわ)編

お城用語をわかりやすく解説 曲輪編

今回はお城用語をわかりやすく解説曲輪(くるわ)編」です。

まず最初に、曲輪は”くるわ”と読みますが、曲輪以外にも「郭」や「廓」も”くるわ”と読み、意味は一緒です。
煩雑になるのでこの記事では「曲輪」で統一していきます。

では、曲輪とはなんでしょうか?

簡単に言うと、曲輪とは堀や石垣、土塁で区切られた区画のことです。

お城の強くするためにはこの曲輪をどう配置していくかというのが重要になってきます。

曲輪の配置のことを「縄張(なわばり)」といいます。

お城の縄張
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この記事では曲輪について解説していきます
  • 中世山城の曲輪と近世城郭の曲輪の違い
  • いろいろな曲輪の名前

では曲輪について解説していきます。

Contents

中世山城と近世城郭の曲輪

曲輪は地面を削って平らにしたお城の一区画のことです。

山はもちろん、平地でも平らで広い場所というのはそうはないので、堀を掘って出てきた土を使って曲輪となる場所を平らにしていました。

中世山城の曲輪とは?

中世山城(おもに織田信長の安土城以前の山城)の場合、築城にかける人員や石垣などの技術がなかったので曲輪は山の地形(尾根や谷)の影響をうけてイビツな形をしていました。

さらに山の斜面に曲輪を作っているため、それほど大きな曲輪を作ることはできませんでした。(大きくて100坪くらい・駐車場でクルマ25台分くらいと言われている)

大きな曲輪を作りにくい代わりに、毛利元就の吉田郡山城(広島県)や豊臣秀吉が攻めた小谷城(滋賀県)など大きな山城になると無数の曲輪を作り、数は100を超える山城もあったそう。

小谷城小谷城(滋賀県)の曲輪
佐賀県東松浦郡玄海町の棚田山城の曲輪イメージ(佐賀県東松浦郡玄海町の棚田)Wikipeida「棚田」より

近世城郭の曲輪とは?

近世城郭(おもに安土城以降のお城)になると、近畿地方を中心に石垣の技術などが発達するとともに築城にかかわる人数や時間・資金などを大規模化に投入することができるようになってきました。

そして曲輪は大型化した大名の大軍を収容できるよう広い面積を求められるようになりました。

そのため、お城は山城から広い曲輪を確保できる平山城・平城へと変わっていきました。

曲輪の一つ一つが大きくなった反面、曲輪の数は山城よりグッと減り、曲輪が数個しかないお城も築かれるようになりました。

名古屋城(愛知県)の場合、本丸・二の丸・西の丸・御深井(おふけ)丸・三の丸の5つの曲輪で構成されています。

名古屋城の縄張名古屋城の曲輪

さらに徳川家康が築いた二条城(京都府)の曲輪は2つしかありませんでした。

二条城の縄張二条城の曲輪

とくに名古屋城三の丸は大きく、現在では愛知県庁・名古屋市役所・病院やそのほかオフィスビルが建てられています。

大坂冬の陣で徳川家康が大砲(当時は大筒(おおづつ)などと呼ばれていた)を用いたように、名古屋城が築かれた頃には大砲が兵器としての性能が上がってきていました。

そのため、名古屋城では三の丸を大きくすることで、大砲を本丸から遠ざけ、本丸や天守まで大砲の弾が飛んでこないようにしていました。

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いろいろな名前の曲輪

ふつうよく耳にする曲輪の名前は本丸だったり二の丸・西の丸ですよね。

では他にはどんな名前の曲輪があるのか、そしてどんな役割を持っているのか見ていきましょう。

「本丸」

お城の最重要拠点・中心部。
城主の御殿や政庁が置かれる。
天守が建てられるのも本丸。

「天守曲輪」

天守が建っている曲輪が小さい時、本丸とは呼ばずに天守曲輪と呼ぶ。
姫路城では大天守と3つの小天守で1つの曲輪として機能していて、大天守と小天守で囲われているところを天守曲輪と呼んでいます。

「二の丸・三の丸」

本丸を中心にして、外側へ向かっていくほど二の丸・三の丸となる。四の丸というのは聞いたことがない。
二の丸・三の丸の役割は本丸の補完的な立場で、本丸を守るためにある。
本丸が小さい場合、二の丸に御殿が建てられる場合もある。

「詰めの丸」

本来なら本丸が最終決戦の場所になるが、本丸の背後により高く守りやすい場所があるときなどは詰めの丸をおく場合がある。
中世山城に多く、近世城郭ではあまり見かけない。

萩城の縄張萩城の詰めの丸

「西の丸など」

本丸との位置関係で、方角ごとに東西南北の名前がつけられる。
東西南北のなかでも一番多い例が西の丸。
江戸城西の丸や岡山城西の丸には隠居した将軍や大名の屋敷が建てられていた。

「出丸」

お城本体(本丸・二の丸など)から突き出た場所や少し離れた場所に配置された曲輪。
お城の前線基地としての役割を持ち、物見櫓が置かれることもあった。
一番有名なのは真田信繁(幸村)の「真田丸」。

「腰曲輪・帯曲輪」

本丸など主要な曲輪の周りで一段低い場所にある曲輪。このうち細長いものを帯曲輪と呼ぶ。

「水の手曲輪」

名前の通り、井戸などの水源がある曲輪。重要な曲輪。
お城によっては「井戸曲輪」「清水曲輪」と呼ばれる。

「山里曲輪」

本丸の背後などにおかれる曲輪で、庭園や茶室などをもうけていた。
大阪城の本丸の北側に山里曲輪がある。
大坂夏の陣では豊臣秀吉の子・秀頼と母・茶々は山里曲輪で自害したといわれている。

大阪城の縄張大阪城の曲輪

そのほかの変わった名前の曲輪

「太鼓丸」
・太鼓櫓(太鼓で時間を知らせるための櫓)がおかれた曲輪。

「勘助曲輪」
高遠城(長野県)にある曲輪。山本勘助が高遠城の縄張を設計したことから呼ばれている。

「厩(うまや)曲輪」
・馬屋がおかれていた曲輪。

「御深井(おふけ)丸」
名古屋城にある曲輪。沼地(ふけ)を埋め立てて作られたことからそう呼ばれている。

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