高知城の天守にはどんな特徴があるの?
高知城天守の歴史や見どころ・ポイントを知りたいな!
今回は「高知城の天守」の疑問に答えていきます。
- 本ブログで100記事以上を執筆
- お城の面白さをみんなともっと共有したい思いからブログ・YouTube・Twitterでお城の情報・知識を発信しています。
この記事では「高知城の天守」を3つのポイントにまとめて解説していきます。
- 藩祖一豊の創建天守を目指して再建された高知城天守
- 本丸御殿とつながっている珍しい出入口を持つ高知城天守
- 天守台を持たず地面に直に建てられた高知城天守
それでは高知城の天守を解説していきます。
Contents
高知城とはどんなお城?
高知城は高知県の県庁所在地・高知市にあるお城。
標高44mの大高坂(おおたかさ)山に築かれた平山城。
関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に味方していた山内一豊が土佐24万石を与えられて、戦国以前にあった大高坂城の跡地に1601年から築城開始しています。
その後幕末まで高知城は土佐藩の中心でした。
高知城は天守や本丸御殿をはじめ、本丸内の建物がほぼ完全に残る唯一のお城で、他にも一豊の創建時から残る追手門などがあります。
ポイント1:藩祖一豊の創建天守を目指して再建された高知城天守
現在に残っている天守は江戸中期に再建された天守で、その姿は藩祖一豊が建てた創建天守を目指していたと言われています。
関ヶ原の戦いのあと、土佐一国を与えられた山内一豊は1601年から高知城を築城開始。
1603年には本丸と二の丸の石垣、本丸主要部分が完成しているので、この頃に一豊の天守も完成しています。
築城から126年後の1727年高知城は大火事にあい、天守をはじめ城内ほとんどの建物が焼失。
土佐藩は建物再建の許可を幕府からもらって、1729年から24年という歳月をかけて再建を進めていきます。
現存している天守はこの頃1749年に再建されたモノです。
天守の姿は望楼型天守という形をしています。
望楼型天守は戦国末〜江戸初期に多く建てられた天守の形で、江戸中期に再建された高知城天守が望楼型天守の形をしているのは、一豊の創建天守を目指していたからと言われています。
浪人から秀吉・家康に仕えて土佐一国の領主に上りつめた藩祖一豊を土佐藩が尊敬していたからでした。
また幕府は再建の時に「旧来通りの再建」を求めていました。
これは正確な再建という意味ではなく「同じ規模なら外観は問題なし」という意味で、
土佐藩が天守の外観まで元通りにしようとしたのには、外様大名なので幕府に目をつけられないよう配慮して、新しい層塔型天守ではなく古い望楼型天守を選んだのでは?とも言われています。
高知城天守の外観
高知城天守は高さ約19m、大きな入母屋破風を持つ望楼型天守。
二重目の屋根には東西面に入母屋破風があり、南北面には千鳥破風がつけられています。
三重目の屋根には二重目の屋根とぶつからないように、丸く持ち上げた軒唐破風をつけていました。
最上階は外に出られてる廻縁(ベランダ)と高欄(手すり)を設けて、黒漆で仕上げることでさらに格式を高めています。
天守1階の外壁には「忍返(しのびかえし)」という鉄串がささっていて、これは実戦で役に立ったのかは分からないけど、敵を威嚇する効果はありました。
ポイント2;本丸御殿とつながっている珍しい出入口を持つ高知城天守
高知城天守の珍しい特徴の一つとして、天守内部へは御殿から入る構造だという事。
御殿から天守への出入口は厳重な二重扉になっていて、外扉は漆喰で塗り固められていて、内扉は木製の引き戸になっています。
御殿から天守へ入るとすぐに2階への階段があることから、江戸中期の平和な時代の再建だと示しているようです。
また天守内の階段は現存天守の中でもゆるやかな勾配で、ここにも平和な時代の再建と分かります。
天守内部は敷居がないので畳を敷いて居室として使用することは考えていませんでした。
天守最上階の6階は御殿にも使われる格式の高い格天井(角材を格子状に組んだ天井)を使用し、黒漆で仕上げられた廻縁と高欄も設けられています。
6階は格式を高めた部屋になっていることから、天守は身分の高い人が登ることを想定していたと考えられています。
天守は普段使いの建物ではないけれど、時折城主が訪れてリラックスするなどの場所として使用していたのではないでしょうか。
ポイント3:天守台を持たず地面に直に建てられた高知城天守
高知城天守は天守台石垣を持っていません。
そのため天守は御殿などと同じように、地面に直接建てられています。
現存天守やそのほかの多くの天守では天守台石垣を持っていて、本丸内でも一段高いところに天守が建てられていました。
高知城では本丸の外から天守を望むと天守台に建っているように見えるけど、これは本丸を囲む石垣で、天守は本丸の隅に建てられているので天守台の上に建っているように見えるのです。
高知城ではなぜ天守台を造らなかったのでしょうか?
高知城は本丸の面積が少ないために、敷地面積を有効利用するため天守台を作らなかったのではと言われています。
高知城では天守単独ではなく、本丸全体を最終拠点にすることで実戦向きにしていました。
高知城天守を見学しに行こう!
今回は「高知城の天守」を解説しました。
もう一度内容をおさらいしておきます。
- 一豊の創建天守は1727年の火事で焼失
- 現存する天守は一豊の創建天守を目指して再建されたとも
- 幕府への配慮で古い望楼型天守で再建されたとも
- 現存する天守は高さ約19mで、大きな入母屋破風をもつ望楼型天守
- 天守内へは御殿から出入りする構造
- 天守に入るとすぐに階段があるので、平和な時代の再建ということを示している
- 天守最上階は格天井や廻縁などで格式を高め、身分の高い人が天守を登ることを想定していた
- 天守は本丸内の面積を節約するために、天守台を持たず地面に直接建てられた
高知城を見学するときは、この記事を参考に天守に注目してください。
この記事がわかりやすかったら、シェアしてくれるとうれしいです。