お城用語をわかりやすく解説

お城用語をわかりやすく解説 御殿(ごてん)編

お城用語をわかりやすく解説 御殿(ごてん)編

今回は御殿(ごてん)について解説していきます。

御殿とは大名の執務室でもあり、住居でもありました。いうなれば、県知事公邸と県庁舎を合わせたものといえるでしょう。

御殿は大名の住居兼政庁なので、徳川将軍の江戸城の御殿ともなると巨大な御殿になりました。江戸城の御殿は建坪(建物だけの面積)で1万1300坪にも及びました。現在の一般住宅の建坪が35〜40坪とされているのと比べるとどれだけ巨大だったのかが想像できます。(一般住宅・約370軒分)
一般的な大名の御殿は1000坪を超えていたそうで、有力大名で3000坪だとされています。

ではそれほどに大きな建物だった御殿とはどういったものだったのでしょうか??

今回は御殿について解説していきます
  • 御殿はいつごろから建てられるようになった? 御殿の成り立ちと歴史
  • 御殿は2つに分けることができた。 表御殿と奥御殿とは?
  • 現存している御殿と復元された名古屋城本丸御殿

では御殿について見ていきましょう。

御殿はいつごろ建てられるようになった? 御殿の成り立ちと歴史

世界遺産でもある二条城二の丸御殿や復元された名古屋城本丸御殿などのように御殿がお城のなかに建てられるようになったのは織田信長の安土城からでした。

室町時代までは、平地の館と緊急時に逃げ込む山城とで使い分けていました。平地の館が住居兼政庁でのちの御殿の役割をはたしていました。

一乗谷城一乗谷城・越前国(福井県)を本拠としていた朝倉氏は平地の館と山城を使い分けていた

戦国時代になると山城が発展し、大名の住居・政庁・軍事施設という3つの役割を持つようになりました。室町時代までの山城が山の山頂や尾根の一部分に堀や土塁をつくりお城としていたのに対して、戦国時代の山城は一つの山そのものをお城としてしまうほど大きくなっていきました。(毛利元就の「吉田郡山城(広島県)」、上杉謙信の「春日山城(新潟県)」など)

吉田郡山城の変遷吉田郡山城・戦国大名として成長していくにつれて山城も大きくなっていった

戦国大名が山城へ住居・政治・軍事の3つの機能を集約させていったのに対して、織田信長は違っていました。

織田信長は岐阜城(岐阜県)で、山(金華山)の山頂付近の御殿と麓の御殿と2つの御殿を築き、それぞれを使い分けていました。
山頂の御殿は信長とその家族、そして身の回りの世話をする家来(小姓)だけしか入ることが許された完全なプライベートな空間にしました。
そして麓の御殿は政庁とし、家臣や他の戦国大名からの使者との応接などに使用していました。

織田信長の岐阜城岐阜城・織田信長は山頂の御殿と麓の御殿、2つの御殿を使い分けていた

その後、織田信長は安土城(滋賀県)を築きました。

安土城で信長は、岐阜城では2つに分裂していた御殿を1つにまとめました。
本丸・詰めの丸・天主内に御殿を建て、このなかで信長の住居と政庁を使い分けていました。

安土城が住居兼政庁としての御殿が建てられた初めてのお城です。

そして、この形式が豊臣秀吉の大坂城や徳川家康の江戸城などに受け継がれていき、江戸時代の大名の御殿のお手本となっていきました。

御殿は大きく2つに分けられた 表御殿と奥御殿とは??

江戸時代に入り、多くのお城の中に御殿が建てられるようになりました。

御殿は殿舎と呼ばれる建物をナナメに建てて廊下でつなげたものです。

二条城二の丸御殿二条城二の丸御殿

そして、御殿は役割で大きく2つに分けることができます。「表御殿」と「奥御殿」です。

表御殿と奥御殿をそれぞれ詳しく見ていきましょう。

表御殿とは公の場所

表御殿は公の場所。大名と家臣や使者との対面、大名の執務室、役所からなります。

二条城の二の丸御殿には奥御殿はなく、すべて表御殿の殿舎で構成されています。

表御殿は玄関、広間、書院の3つで構成されていて、表御殿は城内で一番きらびやかで豪華な場所でした。表御殿は18畳〜30畳の部屋をつられねていて、襖や壁には豪華な障壁画(虎や松の絵)が描かれていました。

二条城 二の丸 御殿二条城 二の丸御殿

玄関は古い名前を「遠侍」と呼ばれていました。玄関内の部屋は広く、ふつう襖や壁には虎の絵が描かれていました。部屋で待っている家臣を虎の絵で威嚇するためとも言われています。

名古屋城 本丸御殿 玄関名古屋城 本丸御殿 玄関

玄関のとなりには広間の殿舎が建ち、お城によっては「大広間」「大書院」ともよばれました。
広間の一番奥の部屋は他の部屋より床が一段高くなっています。この部屋を「上段の間」とよびます。上段の間が大名の座る部屋でした。上段の間には床(床の間)、棚、付書院、帳台構(ちょうだいがまえ)がしつらえられていました。広間では大勢の家臣との対面に使用されていました。

名古屋城本丸御殿の障壁画名古屋城本丸御殿の障壁画

つづいて書院は広間の奥に建てられていました。二条城の書院には「黒書院」・「白書院」の2つがありました。
書院は広間を小さくしたもので、部屋のつくりは一緒で上段の間もありました。書院は広間とは違い、身分の高い家臣との対面のために使用されていました。

表御殿は玄関から広間→書院へと奥へ行くに従って格式が高くなっていき、それぞれの部屋を対面する家臣の身分によって使い分けていました。

奥御殿は大名のプライベートな場所

大名の日常生活の場は、表御殿の後方に建てられた「中奥(なかおく)」とよばれた殿舎でした。

中奥の中心は「居間」と「寝間」で、そのまわりに風呂・茶室・能舞台などの娯楽施設が付属していました。

居間は「御座(ござ)の間」「御座所(ござしょ)」ともよばれ、大名の日々の公務は居間で行われていました。
居間のまわりには重臣がひかえる「次の間」や大名を護衛する家臣の待機部屋がありました。

寝間は居間とは棟続きに建てられていました。寝間とはそのまま大名が寝る場所です。

中奥は表御殿とは違い、落ち着いたつくりになっていました。表御殿では襖や壁に金箔で虎の絵が描かれていましたが、中奥では水墨画が好まれていました。

そして、中奥の後方に「奥」とよばれる殿舎が建てられていました。「奥」では女性が主役でした。

奥では多くの女性が大名やその正室・側室のために働いていました。奥御殿のもっとも奥には働いている女性のための住居が建てられていて、「長局(ながつぼね)」とよばれていました。

現存している御殿と復元された御殿

現存している御殿は少なく、世界遺産である二条城二の丸御殿をはじめ、高知城本丸御殿(高知県)、掛川城二の丸御殿(静岡県)、川越城本丸御殿(埼玉県)などがあります。

掛川城二の丸御殿の広間掛川城二の丸御殿の広間

現存している御殿は少ないですが、復元されたものもあるので大名の暮らしを感じ取ることができるかもしれません。

復元された御殿の例として、名古屋城本丸御殿をはじめ、熊本城本丸御殿(熊本県)(2018年12月現在、震災の復旧工事のためけんがくできません)、篠山城大書院(兵庫県)、佐賀城本丸御殿(佐賀県)、佐土原城御殿(宮崎県)が復元されています。

一度見学されてみてはいかがでしょうか。

参考資料