お城の御殿にはどんな役割があったの?
各部屋のそれぞれの使い方や江戸時代の御殿が残っているのか知りたいな。
今回は「お城の御殿」まつわる疑問に答えていきます。
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御殿の役割をカンタンに言うと、「大名の住居」と「政庁」です。政庁とは都庁や県庁みたいに知事や役人が集まって政治をする場所。
しかし御殿にはさまざまな部屋があって、それぞれに違う役割を持っていました。
この記事では写真や図を使いながら御殿を解説していきます。
- 御殿発展の歴史
- 御殿の役割
- それぞれの部屋の使い方
- 現存している御殿
- 復元された御殿
今回紹介する御殿の特徴を覚えておいて、つぎに御殿を見学する際にこの記事を参考して御殿に注目してみてください。
この記事を読み終えると、御殿に詳しくなってより楽しめるようになりますよ。
では解説していきます。
Contents
御殿とは政治の中心であり城主の住居
織田信長の安土城から始まった江戸時代の御殿の形
国宝でもある二条城二の丸御殿にみられるような江戸時代の御殿の形は織田信長の安土城から始まりました。
室町時代までは平地の館と緊急時の山城を別々の場所に作って、使い分けていました。(これを根古屋式といいます)
戦国時代になると平地にあった館を山城のなかに作るようになって、山城に機能を集約させています。山城が住居・政庁・軍事の3つの役割を持ちました。
信長の岐阜城などでは山の上の御殿と麓の御殿と2つの御殿を使い分けています。
山上の御殿を自分と家族のためのプライベート御殿にして、麓の御殿で政治や接待などの仕事をしていました。
山の上と麓で2つあった御殿は、信長が安土城で1つにまとめています。
信長は安土城の本丸や天主に御殿を作って、その中で住居部分と政庁部分を使い分けていました。
1つの御殿のなかで、住居部分と政庁部分を使い分ける形式が、秀吉や家康に引き継がれていき江戸時代のスタンダードになっていきます。
多くの建物からなる御殿
御殿は大小さまざまな建物(殿舎)をつなげることで構成。
中小大名の御殿でも10〜数10棟の殿舎、大大名や徳川将軍の御殿では100棟以上の殿舎からなっていました。
殿舎それぞれは直接つながっていたり、廊下でつながれていました。
最も大きな御殿は徳川幕府の中心でもある江戸城本丸御殿。
江戸城本丸御殿は1万1300坪の面積を誇っていました。
国会議事堂の建物面積が約4040坪(13356平方メートル)と比較すると、その大きさが分かります。
1つのお城に複数建てられることが珍しくなかった御殿
御殿は天守とは違い1つのお城に複数建てられることは珍しくありません。
江戸時代は武家諸法度という法律の中で、お城を新しく作ることや天守や櫓・石垣などの修理や増改築には厳しい制限がありました。
しかし御殿はお城の防御に関わる建物とは考えられていなくて、武家諸法度では制限されていません。
なので1つのお城のなかに複数の御殿を建てて使い分けている大名もいました。
たとえば江戸城は本丸御殿に将軍がいて、西の丸の御殿に隠居した前将軍が住んでいます。
また名古屋城では本丸御殿は江戸から京都へ向かう途中の将軍専用の宿所で、城主である尾張藩の大名は二の丸御殿に住んでいました。
スポンサーリンク御殿を大きく分けると2つ「表御殿」と「奥御殿」
【表御殿】と各部屋の役割
表御殿は大名と家臣が主従関係を確認し合う場所!
表御殿とは、城主が家臣と対面したり、来客の接待、年中行事を行うための場所です。
「玄関」「広間」「対面所」がおもな建物。
城内の建物の中でも表御殿が最も豪華に造られていました。
玄関、広間、対面所を使って大名は家臣と会い、主従関係を確認し合っていました。表御殿の豪華なつくりも主従関係、身分の差を示しています。
来客が待機していた【玄関(遠侍)】
玄関は古くは遠侍(とおざむらい)、小広間と呼ばれていました。
玄関は御殿にやってきた来客がまず入って、待機する部屋。
玄関内の部屋の壁やふすまにはふつう虎が描かれていて、そのため虎の間と呼ばれています。
虎を描くことで御殿にやってきた者を威嚇していたとも。
御殿の中でも最も豪華な造りの【広間】
広間は表御殿で最も豪華な部屋で大広間、大書院とも呼ばれていました。
最も奥の床が一段高くなった部屋が「上段の間」で、ここに城主(大名)が座ります。
上段の間に座る大名のうしろには、立派な床(床の間)、棚、付書院、帳台構えといった座敷飾を設けていました。
上段の間に続いて二の間、三の間、四の間があり、家臣や来客の身分によって座る部屋が決まっています。(身分が高いほど城主に近い)
身分の高い家臣が大名と対面する【対面所】
対面所は広間の奥にあって、広間を少し小型にしたような建物です。
対面所でも上段の間があって、城主が座る場所でした。
広間と対面所という似た建物が2つある理由は、身分によって大名と面会できる部屋が変わるためです。
一般家臣は広間でしか大名と面会することが許されず、側近とも言える重臣は対面所で大名と面会することができます。
城主が日常生活をする【中奥】
中奥とは城主が日常生活をする場所で、「居間」と「寝間」の2つの部屋からなります。
あとで解説する「奥御殿」にも居間と寝間があり、奥御殿と区別して中奥のものは「表居間」「表寝間」と呼んでいました。
居間は城主が日中に政務をとる執務室。居間は「御座の間」「御座所」とも呼ばれました。
居間には上段の間と2〜3室の「次の間」があり、警備の家臣が待機する部屋があります。
居間は大名が集中して仕事をする場所なので、表御殿より落ち着いた装飾にしていました。
寝間とは大名のベッドルームで、8〜12畳のベッドルームと警備の家臣が待機する部屋からなっています。
小規模な御殿では居間と寝間を1棟にまとめることもありました。
【奥御殿】政務から完全に切り離された大名のプライベート空間
奥御殿は大名が仕事から離れて休むための私的な空間で、とくに江戸城の奥御殿は「大奥」と呼ばれていました。
奥御殿も中奥と同様に「居間」と「寝間」からなります。
中奥のものと区別して「奥居間」「奥寝間」と呼ばれていました。
表御殿・中奥と奥御殿は明確に区切られていて、奥御殿への表の役人の出入りは原則禁止です。
そのため奥御殿では女中が警備やその他の職務を担当。
奥御殿の一番奥に「長局(ながつぼね)」があり、女中たちはここで暮らしていました。
御殿に作られたさまざまな施設
御殿には大名が疲れを癒やしたりリラックスするため、来客をおもてなしするためにさまざまな施設が作られていました。
「湯殿(ゆどの)」とはお風呂のこと。
現代のお風呂とは違い、お湯を沸かした蒸気を風呂屋形の中に引き込んだ蒸気サウナでした。
武士の嗜みとして、「茶室」や「能舞台」もあります。
茶室は「数寄屋(すきや)」「小座敷」とも呼ばれていました。
能舞台の現存する例は少なく、彦根城(滋賀県)と高島城(長野県)に残るのみです。
「台所」は御殿の中でも最大の建物の1つで、表御殿で出される料理や合戦時に兵士へのまかない料理をつくりました。
大名のための料理は専用の台所で作られ、その台所は「上台所」「上御膳所」と呼ばれています。
スポンサーリンク現存天守より少ない現存している御殿
現存する御殿が少ない理由
現存している御殿
- 二条城二の丸御殿
- 掛川城二の丸御殿
- 高知城本丸御殿
- 川越城本丸御殿
現存天守は12棟あって現存する御殿は4つなので、現存する御殿は天守より少なく貴重な建物です。
現存する御殿が少ない理由は2つ。「曲輪の大部分を御殿が占めていたこと」と「明治以降に県庁として使用されたこと」です。
明治時代になって「廃城令」が出され、お城を軍の施設として使うために多くの建物は取り壊されていきました。
御殿は大きく本丸や二の丸などの曲輪の広い部分を占めていました。そのため兵士の訓練や新しい建物を建てるためには邪魔になるため御殿は壊されることがほとんどでした。
「廃藩置県」を学校で習ったのを覚えていますか?
藩に代わって県を置いたので、御殿を県庁として使う県がありました。
県庁は多くの人が出入りをして使うため、どうしても火事などにあいやすかった。
この2つの理由から現存する御殿は少ないです。
国宝・世界遺産になっている【二条城二の丸御殿】(京都府)
二条城は徳川幕府の京都での拠点。
二条城は3代将軍・徳川家光の時代に、後水尾天皇の二条城訪問を機会に拡張されて現在の形になりました。
二の丸御殿は「玄関(遠侍)」「式台」「大広間」「蘇鉄の間」「黒書院」「白書院」からなっています。
メインとなる部屋は大広間で、この部屋で将軍が大名たちと面会していました。
1867年10月12日将軍・徳川慶喜が老中や大名を集めて「大政奉還」の決意を告げたのが、二の丸御殿の大広間です。
大地震のあと幕末に再建された【掛川城二の丸御殿】(静岡県)
掛川城の御殿は大地震で2回倒壊していて、現在残っている御殿は1854年の安政の大地震のあとに城主・太田資功(すけかつ)によって再建されたもの。
御書院上の間、次の間が表御殿の広間、小書院が大名の執務室で中奥、長囲炉裏の間が私室で奥御殿の役割をしていました。
この御殿は明治時代以降、学校の校舎、役場、農協、消防署としても使用。
1960年に静岡県指定の文化財になったことで、保存修理工事が行われました。そのあと1980年に国の重要文化財に指定されています。
天守とともに現存する唯一の御殿【高知城本丸御殿】(高知県)
天守とともに御殿が現存しているお城は全国で高知城のみ。
高知城の御殿は本丸と二の丸に分かれていて、本丸御殿では特別な儀式を、二の丸御殿では普段の政務が行われていました。
高知城は1727年に大火(大火事)を経験していて、この時ほとんどの建物を失っています。
現在まで残る御殿と天守などの建物はこの火事のあと、焼失前とほぼ同じ姿に再建されたもの。
明治時代以降、多くの建物が取り壊されたけど、本丸の建物は残され戦災も免れ現在まで残っています。
幕末に再建された【川越城本丸御殿】(埼玉県)
もともとの川越城本丸御殿は将軍の訪問に備えた「御成御殿」で、そのため城主は二の丸御殿に住んでいました。
しかし1846年に二の丸御殿が火事で焼失。この時の藩主・松平斉典(なりつね)は本丸に新たな御殿を建設します。
この時再建されたものが、現在まで残っている本丸御殿です。
明治時代に多くの部分を取り壊されてしまったため、現在は玄関、大広間、家老詰所などが残されていて、本来1025坪あったうちの165坪になっています。
埼玉県の指定文化財になっていて、2008年から保存修理工事も行われました。
スポンサーリンク復元された御殿 3選
ここでは復元された御殿を3つ紹介します。
- 名古屋城本丸御殿
- 熊本城本丸御殿
- 篠山城大書院
最高の格式を誇った【名古屋城本丸御殿】(愛知県)
太平洋戦争で焼失するまで本丸御殿は旧国宝になっていて、二条城二の丸御殿とともに御殿建築の最高峰と言われていました。
この本丸御殿は将軍が江戸と京都を行き来する際の宿泊所として利用。
しかし3代家光を最後に幕末まで200年以上にわたって将軍が京都へ行くことがなかったので空き家となっていました。
本丸御殿のあまりの豪華さに家光は不機嫌になったとも言われています。
2018年に復元工事が完了しているので、家光が不機嫌になるほどの御殿をぜひ見学してみてください。
復元された日本三名城の御殿【熊本城本丸御殿】(熊本県)
もともとの御殿は1610年ころに加藤清正によって築かれ、明治時代まで残っていました。
その後の西南戦争の際の火事で天守などとともに御殿も焼失しています。
2008年になって本丸御殿は復元されました。
もともとの御殿の半分ほどの建物を復元。
本丸御殿への玄関は現在の見学用の入り口とは違って、大広間の床下、石垣の間の通路から上がるという他に例のないものでした。
震災のあと、熊本城は復興をとげつつあります。熊本城を訪れる際は公式HPを確認してください。
天下普請で築かれたお城【篠山城大書院】(兵庫県)
1609年からの篠山城築城当時、二の丸に大書院、小書院、城主居館、奥御殿が造られていました。
明治時代になって多くの建物は取り壊されたけど、大書院は残されています。しかし1944年の失火によって焼失。
2000年になって発掘調査や明治時代の古写真をもとにして復元されました。
1944年焼失時の大書院の屋根は瓦だったけど、復元された大書院は創建当時の柿葺き(こけらぶき)にされています。
お城の御殿 まとめ
今回は「お城の御殿」を解説しました。
今回の内容をもう一度おさらいしておきます。
- 室町時代まで御殿とお城(山城)は別々に建てられていた
- 織田信長の安土城から江戸時代の御殿の形が始まった
- 表御殿とは城主が家臣と対面したり、来客の接待などを行う場所
- 中奥とは城主が日常を過ごす場所で政務をとる執務室
- 奥御殿とは城主が政務から切り離されたプライベートルーム
・現存している御殿は4つ
- 二条城二の丸御殿
- 掛川城二の丸御殿
- 高知城本丸御殿
- 川越城本丸御殿
お城の御殿に行ったことがある人もまだ行ったことがない人も、この記事を参考にして御殿をじっくり見学してください。御殿も楽しいですよ。
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