今回は「高知城の歴史」を紹介します。
- 高知城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 高知城へ行く前に予習しておきたい人
- 高知城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは高知城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントのところの記事を読んでもらうだけでも、おおまかな歴史はつかめます。
- 関ヶ原の戦いのあと、土佐を得た山内一豊が高知城を築く
- 火災によって高知城のほとんどの建物を失う
- 戦災を免れて天守などの建物が無事だった高知城
高知城の歴史に詳しくなって観光も歴史番組も楽しんでいきましょう!
Contents
高知城とはどんなお城?
まずは高知城とはどんなお城なのかを紹介します。
本丸の建物がすべて現存している唯一のお城
高知城には江戸時代に建てられた天守が現存していて、全国で現存している12の天守のうちの1つです。
高知城では天守だけでなく、本丸御殿や櫓、門、塀など本丸内のすべての建物が現存している唯一のお城。
なので本丸は江戸時代の姿がそのまま残されています。
本丸内でそれぞれの建物がどんな役割を持っていたのかを知る上でも、貴重なお城です。
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ここからは戦国時代〜昭和・平成の高知城の歴史を紹介していきます。
戦国時代の高知城
もともとは大高坂山城というお城があった
山内一豊が高知城を築いたのは江戸時代初期。これ以前にこの場所には大高坂山(おおたかさやま)城というお城が建てられていました。
一豊よりおよそ260年前鎌倉幕府が滅亡して間もない頃、大高坂氏が高知市周辺で力を持っていました。
天皇と朝廷が二つに別れて争っていた南北朝の争いの中で、大高坂氏は敗北。その後、大高坂山城は廃城になっていました。
戦国時代になると土佐の戦国大名・長宗我部元親は大高坂山城を再利用しようとしていました。しかし水軍や交易に力を入れるために、より海岸に近い浦戸城を築いていました。
江戸時代の高知城
関ヶ原の戦いで土佐を得た山内一豊が高知城を築城する
高知城のある土佐は戦国時代をとおして長宗我部氏が支配してきました。関ヶ原の戦いが起きると、長宗我部盛親は西軍の味方になって東軍と徳川家康に対抗していました。しかし西軍が敗北が敗北してしまっために、盛親は土佐を没収されてしまいます。
長宗我部氏のあとに土佐を得たのが高知城を築いた山内一豊です。
一豊は関ヶ原の戦いで東軍についていて、戦功を挙げたため土佐を与えられました。
まず一豊は長宗我部氏の居城だった浦戸城に入りました。しかし浦戸城は城下町を発展させるためには狭かった。そこで一豊は新しいお城を築くことを決定。それが高知城です。
一豊は廃城となっていた大高坂山城に目をつけ、この場所に高知城を築いていきました。
築城は10年がかりの大工事だった高知城
高知平野は海抜0m地帯が多く、昔から水害の多い地域でした。そのため高知城の築城工事は難航し、10年がかりの大工事になりました。
築城開始から2年後には本丸と二の丸が完成。この時に一豊は浦戸城から高知城へと移ってきました。以降高知城を本拠地としていきます。
一豊が高知城を築城していた頃は「河中山(こうちやま)城」と呼ばれていました。一豊の跡を継いだ2代目忠義は何度も水害にあい悩まされていたので河中山という字を嫌い、「高智山城」へと変更します。そして最終的に「高知」と書かれるようになっていきました。
築城開始から4年後、一豊は高知城の完成を見ることなく亡くなります。忠義が三の丸までの工事を完了させ、お城を完成させています。
火災によってほとんどの建物を失った高知城
高知城は江戸時代になってから完成したお城なので合戦を経験していません。しかし江戸時代中頃には火災によって、天守をはじめお城の建物のほとんどが焼失してしまう事件がありました。
城下町から出た火がみるみる延焼していき、高知城まで燃えてしまいます。この時の火災で、一豊が建てた天守など追手門を除くほとんどの建物が焼失してしまいました。
8代目山内豊敷(とよのぶ)は土佐藩の財政が厳しい中、幕府からも借金をするなどしてお城の再建を実施。
火災から26年後にようやく再建を完了させました。
明治時代の高知城
明治になると公園として一般公開された高知城
幕末、土佐藩は坂本龍馬を輩出するなど重要な働きをしていました。そんな中、高知城は戦火に見舞われることなく明治維新を迎えています。
廃藩置県によって土佐藩から高知県になると、城外にあった旧藩校「致道館」に高知県庁がおかれました。
廃城令によって本丸と追手門以外の建物は払い下げられ、取り壊されていきました。
他のお城では県庁舎だったり、陸軍の部隊が置かれることが多かったです。けれど高知城では本丸の建物は取り壊されず残されることになり、城跡は土佐公園として一般公開されることになりました。
昭和・平成の高知城
戦災を免れて天守などの建物は無事だった
本丸の建物と追手門は江戸時代の姿のまま保存されていました。昭和初期には天守など15件が旧国宝に指定されています。
太平洋戦争末期に日本全国がアメリカ軍の空襲によって被害を受けていました。高知市も例外ではなかった。
高知市は7回も空襲を受けて市内が焼け野原になり坂本龍馬の生家などが失われる中で、高知城本丸の建物と追手門は被害を受けていませんでした。
奇跡的に被害を受けなかったので、現在まで天守などの建物が残っています。
10年かけて行われた高知城の昭和の大修理
戦後になると新たに施行された文化財保護法によって、旧国宝だった建物などはすべて重要文化財になりました。
終戦後まもなくの1948年から、高知城で昭和の大修理が行われました。
昭和の大修理では天守などの建物や石垣の解体修理が行われ、10年以上の歳月をかけて59年に修理が完了しています、
平成になってからも、追手門矢狭間塀、本丸南側や三の丸の石垣の修復が行われていました。
継続的な修復作業のおかげで、本丸の建物がすべて残る唯一のお城を楽しむことができます。
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1601 | 関ヶ原の戦いで土佐を得た山内一豊が浦戸城に入る 一豊は大高坂山で築城を開始する |
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1603 | 本丸・二の丸が完成し、一豊が浦戸城から移ってくる 地名を「河中山(こうちやま)」に変更する |
1610 | 河中山から「高智山」へ改める |
1611 | 三の丸の工事が完了し、高知城が完成する |
1664 | 追手門を再建する |
1727 | 城下町で火災発生。追手門を残して天守などほとんどの建物が焼失する |
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1729 | 高知城の再建を始める |
1746 | 本丸の再建を開始する |
1749 | 天守の再建が完了する |
1753 | 三の丸が完成する |
1801 | 追手門の修理が行われる |
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1846 | 天守の修復が行われる |
1873 | 本丸周辺と追手門を残して、建物が取り壊される |
1874 | 城跡が公園として一般公開される |
1934 | 天守や御殿などが旧国宝に指定される |
1945 | 高知大空襲のなか、天守などは被害を受けず無事だった |
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1948 | 天守などの修復工事が始められる |
1950 | 旧国宝が国の重要文化財に指定される |
1959 | 修復工事が完了し、城跡が国の史跡に指定される |
1990 | 追手門矢狭間塀などの修復工事が完了する |
2004 | 本丸南側の石垣修復工事が完了する |
2010 | 三の丸の石垣修復工事が完了する |
高知城の歴史 まとめ
今回は高知城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
高知城は天守や御殿、櫓、門など本丸にある建物がすべて現存している貴重なお城です。このことを覚えておいて高知城を見学するのと、知らずに見学するのとでは見方も変わってきますし。より楽しめます。
高知城に限らず、いろいろなお城の歴史を知ってお城見学や歴史ドラマを楽しんでいきましょう!
最後にもう一度、ポイントをまとめておきます。
- 関ヶ原の戦いのあと、土佐を得た山内一豊が高知城を築く
- 火災によって高知城のほとんどの建物を失う
- 戦災を免れて天守などの建物が無事だった高知城