豊臣秀吉が朝鮮半島に築かせた「倭城」とはどんなお城なの?
日本国内のお城との違いや特徴が知りたいな!
今回は「倭城(わじょう)」の疑問について答えていきます。
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この記事では倭城について下記のポイントで解説していきます。
- 倭城の歴史
- 倭城築城の目的
- 倭城の分類・役割
- 朝鮮・中国から見た倭城
- 倭城の天守
- 倭城の石垣
- 倭城の堀
- 倭城が日本のお城に与えた影響
- 倭城3選
それでは倭城について解説していきます。
倭城へはまだ行ったことなくて、写真・画像が少ないです。
Contents
倭城とはどんなお城なの?
倭城の歴史「文禄・慶長の役で朝鮮半島に築かれた豊臣軍の拠点」
倭城(わじょう)とは簡単に説明すると、「文禄・慶長の役で朝鮮半島南部に築かれた豊臣軍の拠点となったお城」です。
1590年に北条氏を滅ぼして天下統一を果たした豊臣秀吉は、1592年と1597年の2回にわたって、のべ30万人を超える海外派兵を実施。
92年を「文禄の役」97年を「慶長の役」といい、両方合わせて「文禄・慶長の役」や「朝鮮出兵」とも言います。
韓国側では干支から取って「壬辰倭乱」「丁酉倭乱」と呼ばれています。
文禄・慶長の役は当時の中国(明)の征服を目的に始められ、休戦をはさみながら約7年におよぶ戦争でした。
この7年間の間、豊臣軍が朝鮮半島南部に築いたお城のことを「倭城(わじょう)」といいます。
文禄の役で18城、慶長の役で8城、時期不明の数城を合わせて約30城が築かれました。
(まだ未発見の倭城もあると予想されていて、これから増えるかもしれません)
倭城の目的
何のために豊臣軍は朝鮮半島にお城を築いたのでしょうか?
もちろん半島の北部まで攻め込むためには食料や物資が必要になってくるので、補給基地としての倭城が必要になりました。
外国で戦争するためには食料・物資の補給が重要、なので倭城は九州や対馬に近い半島南部の沿岸や大きな川(洛東江)に築かれました。
また朝鮮水軍が日本(対馬)と朝鮮半島との間で自由に行動してしまうと、十分な補給ができなくなってしまいます。
そのため朝鮮水軍の行動を妨げる目的からも倭城が必要でした。
倭城の分類・役割
倭城はその規模や役割から4種類に分類することができます。ここでは4種類それぞれの役割を見ていきます。
1つ目:釜山浦城
釜山浦城はすべての倭城の中心。
文禄・慶長の役の全ての期間を通して日本から朝鮮半島への足がかりになり、兵士・物資が集まるお城でした。
その規模は倭城の中で最大を誇っていました。
2つ目:御仕置きの城
港湾を確保して、各地域の拠点になる倭城が「御仕置きの城」。
山頂部に総石垣のお城を作り、登り石垣などを備えた大規模な倭城です。
蔚山城、西生浦城、林浪浦城、亀浦城、安骨浦城、熊川城、泗川城、順天城などがこれに当たります。
3つ目:監視のための小規模な倭城
港湾を監視する目的のために築かれた小規模な倭城。
山頂に石垣のお城を築き登り石垣も持っているけれど、2つ目の御仕置きの城よりは小規模な倭城。
大軍で駐屯することはできず、少数の兵で海の監視がメインでした。
巨済島の登浦城、松真浦城、長門浦城がこれに当たります。
4つ目:釜山浦城、御仕置きの城に付属する支城
4つ目は釜山浦城や御仕置きの城に付属する支城(端城)です。
釜山浦城には椎木嶋城・追門口城、金海竹島城には馬沙城・農所城があることが知られています。
馬沙城・農所城は単郭(曲輪が1つ)で、石垣は出入口や櫓台少しあるだけの倭城でした。
朝鮮・中国から見た倭城
朝鮮の儒学者・姜沆(カン・ハン)が著した「看羊録」には倭城の特徴が記されていました。
「倭の城は独立した山の頂を平にして周囲を削り取り猿ですら登れないようにしている。その理由は俯瞰することができるとともに敵に圧力を加えることができるからである」
また文禄・慶長の役が終わった後、朝鮮国内では日本式のお城(倭城)について議論されていました。
郭再祐は加藤清正が築いた蔚山城を「築必守之城、城之堅固、固無比也」と評価していて、倭城の防御力は朝鮮側からも評価されていました。
そして倭城を再利用して兵を駐屯させたり、朝鮮のお城に倭城の特徴を取り入れることが議論されていたようですが、結局は実行されることはなかったようです。
スポンサーリンク倭城の特徴
ここでは倭城の特徴を「天守」「石垣」「堀」の3つで見ていきます。
倭城の天守
倭城の天守を「位置」「数」「外観」の3つのポイントで紹介します。
天守の位置
倭城の天守の特徴としてまず挙げられるのが「天守の位置」です。
倭城の天守は主郭(本丸)の隅に建てられていることがほとんど。これは国内のお城と共通する点です。
しかし倭城では主郭がお城の外部と接しているため、天守が城外に接して建てられていました。
天守が城外に接していることで、敵が攻めてくる方向によっては天守が最前線になることも考えれます。
熊川城や長門浦城では、敵を最前線で食い止める役割があった登り石垣や竪堀の始まりが天守になっていました。
二の丸や三の丸に囲まれた本丸の奥に建てられ、外部と接することが少ない日本国内の天守とは違います。
天守が外部に接しているという点で、倭城と国内のお城では異なっていました。
天守の数
次に天守の数が倭城と国内のお城では異なっています。
ふつう国内のお城では1つのお城に1つの天守が基本。
倭城では1つのお城に複数の天守が建てられるケースがありました。
安骨浦城では3つの曲輪がそれぞれ天守台を持っています。
なぜ1つの倭城に複数の天守台(天守)があるのかというと、倭城では1つのお城を複数の大名が協力して守っていました。
倭城とは豊臣秀吉(豊臣政権)のお城であって、各大名は秀吉に倭城の守備を任されているだけでした。そのために1つの倭城を複数の大名で守っている状況が生まれることになります。
なので大名それぞれのライバル意識などもあって、1つのお城に複数の天守を建てていました。
天守の外観
天守の外観は国内のお城とは大きな違いはありませんでした。
「奥関介入道休如覚書」には泗川城の天守の様子が記されていて、「南門と北との角に三階の天守上り申候。天守の塀も板にて黒塗に出申候」とあります。
この記述から泗川城の天守は南門と北との角に2つあり、3階建てで黒色の板張りだったことがわかります。
また陳景文という人の「曳橋進兵日録」では順天城について「作五層望楼、塗以白土、蓋以瓦、状如飛翼傍列」とありました。
この記述からは順天城の天守が白い漆喰の壁で作られていて、屋根には瓦が葺かれていたことがわかります。
例えば現存最古級の天守である犬山城天守は、1階の外壁には下見板が使われており、2・3・4階の外壁は白い漆喰が塗られています。
このように倭城の天守と国内のお城の天守の外観には大きな違いはありませんでした。
倭城の石垣
倭城の石垣で最も重要なポイントが「約6年間という短い期間に築かれたことが分かっている点」。
石垣が築かれた時期が判明しているので、国内のお城と比較してこの時期の石垣がどういう積み方だったのか、どのように石垣が発展していったのかを検証するための指標になるからです。
倭城の石垣は大きく見れば「打ち込み接ぎ」という積み方で、国内の同時期の石垣と差はありません。
また倭城の石垣の石材には矢穴は少ないです。
国内の石垣では矢穴を使って石材の大きさの規格化が進んでいたけど、倭城では矢穴はマレでした。
理由として石垣に適した石材を調達しやすかった、戦争中の短期間の使用を想定した築城だったからなどと考えられています。
倭城の石垣の高さは10mを超えるものから2mほどの高さのものまで様々。
10mの高石垣は天守台や曲輪の隅(角)、敵が攻めてくると予想された方向の石垣に多く用いられていました。
また高石垣が多かったのが地域の拠点となった倭城で、釜山浦城、西生浦城、蔚山城、熊川城、順天城などです。
天守台を除くと低い石垣ばかりだったという倭城も多かったのが特徴です。
斜面を登るように築かれた「登り石垣」
登り石垣とは斜面に対して垂直に、登るように築かれた石垣のことです。
登り石垣は高低差のある曲輪同士をつないだり、斜面を区切るように伸ばされました。
西生浦城では港とお城を一体化させるために、山頂部のお城から港に向かって2本の登り石垣を伸ばして抱え込むようにしています。
登り石垣は国内のお城にも取り入れられていて、伊予松山城や洲本城に登り石垣があります。
曲輪内を区画するために作られた「仕切り石垣」
倭城以前の国内のお城では曲輪の外に防御設備(土塁や堀など)を作って、曲輪に侵入されないように守っていました。しかし一度突破されると曲輪内に敵が一気に侵入してきてしまいます。
倭城では曲輪の中に仕切りのための石垣を作って、区画していました。
仕切り石垣があることで味方の移動も不便になるけれど、それよりも防御を優先していたことがわかります。
それほど異国の地での明・朝鮮との戦いが激しかったことを示唆してくれています。
倭城の堀
倭城の堀の特徴は竪堀や横堀が石垣とともに取り入れられていること。
国内の秀吉・信長系の山城では石垣が発達したことにより堀は使われなくなります。(竹田城など)
一方倭城では登り石垣と一緒に竪堀を、山頂部では曲輪(石垣)の周りに横堀を用いています。
また倭城は総石垣のお城だけど堀は土づくりの空堀で、堀より上の部分が石垣で、堀の中は土のままになっていました。
この理由として石垣と土の部分を組み合わせることで、築城の時間短縮を図ったものと考えられています。
スポンサーリンク倭城が日本の城に与えた影響
ここでは豊臣軍が朝鮮半島で築いた倭城がその後の国内のお城にどういう影響を与えたのかを見ていきます。
まず大きな影響を与えた点は「全国の大名に築城技術が伝わっていった事」です。
これはどういうことかというと、文禄・慶長の役では豊臣秀吉の命令で全国の大名が名護屋(佐賀県)に集結していました。
そして名護屋城や倭城の築城を大名たちが協力しながら行っていきます。
それまで築城技術に乏しかった大名にも、秀吉の築城(天守や石垣など)を学ぶ機会が生まれました。
また倭城では築城する大名とと守備する大名が異なる場合があり、ある大名が築いた倭城を別の大名が守備する状況でした。そのために他の大名の築城技術を学ぶ機会にもなっています。
こうして戦争を通して、全国の大名に築城技術が拡散していきました。
その結果、関ヶ原の戦いのあとの築城ラッシュでは、全国各地に天守や石垣など信長・秀吉のお城の特徴を持ったお城が数多く誕生することになります。
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西生浦城(せっかい・ソセンポ)
西生浦城(ソセンポ城)は朝鮮半島南東部、日本海に面した丘陵上に築かれた倭城。
1593年、朝鮮・明と停戦交渉の時期に、ソウルから撤退してきた加藤清正によって築かれました。
現在のお城は麓は住宅地となっていますが、山頂部の総石垣のお城部分などの遺構はよく残っています。
西生浦城は南北400m、東西700mと少し東西に細長い形をしています。
また西生浦城の見どころの一つは、麓の港を抱き込むように作られた登り石垣で、現在も保存状態よく残っています。
加藤清正が築城した中では最も規模が大きく、遺構もよく残っている倭城です。
熊川城(こもかい・ウンチョン)
三方向を海に囲まれた海抜184mの「南山」に築かれた倭城。
西生浦城に次ぐ規模の倭城で、周辺の倭城より群を抜いて大きいことから、この地域の中心的な倭城だったと考えられています。
熊川城を訪れた朝鮮の使者(接伴使)・李時発は「城は海をふさぐようにして造られ、船着場は星のようにたくさん並んでいる」と表していました。
熊川城の築城は交代で行われ、小早川隆景・上杉景勝・小西行長が担当しています。
熊川城の大きな特徴は天守台から伸びる2本の登り石垣で、南側へは100m、北側へは600mにも及び、それぞれ海にまで伸びていました。
登り石垣で唯一地続きになっていた西側と城内とを分断しています。
順天城(スンチョン)
朝鮮半島南岸にあり倭城の中では最西端にある順天城。
光陽湾に突き出た半島先端の丘陵上にあり、西側以外の三方向が海に囲まれていました。
停戦交渉が決裂し慶長の役が始まると半島南部の確保を最優先としたため、慶長2年(1597年)11月より順天城が築城開始されています。
築城工事は急ピッチで行われていて、小西行長・宇喜多秀家・藤堂高虎が担当し、わずか2ヶ月で完成させていました。
なぜ築城を急いでいたのかというと、蔚山城で加藤清正・浅野長政が明・朝鮮軍を相手に厳しい籠城戦をしていたからでした。
蔚山城の次に順天城がターゲットになると予想していたので順天城の完成を急がせたと言われています。
そして1598年9月になると明・朝鮮軍がやってきて、小西行長・松浦鎮信・有馬晴信などが守備していた順天城に襲いかかりました。
朝鮮水軍を率いる李舜臣は海から砲撃するも、日本は鉄砲(火縄銃)を駆使して明・朝鮮軍を苦しめていました。
順天城の範囲は南北700m、東西800mと広大で、これは明・朝鮮の大軍に対抗するために、多くの兵士が駐屯可能な大規模なお城にする必要があったためでした。
現在のお城は史跡公園として整備されていて、石垣や堀跡などを見学することができます。
倭城を知って日本のお城と比較してみよう!
今回は「倭城」について解説しました。
最後にもう一度ポイントをおさらいしておきます。
- 倭城とは豊臣軍が朝鮮半島に築いたお城
- 文禄・慶長の役で半島南部を確保する目的で築かれた
- 天守は外側に建てられることもあり、戦闘の最前線になることもあった
- 1つのお城に天守の数は1つではなく、複数建てられることもある
- 天守の外観は国内のお城と差はない
- 築城時期が限定されているので、国内の石垣と比較する指標になる
- 石垣は高さ10mを超えるものから2mほどのものまでさまざま
- 登り石垣が高低差のある曲輪をつないだり、斜面を区切るように伸ばされた石垣
- 倭城では竪堀や横堀が石垣とともに取り入れられた
- 倭城は規模・役割から4種類に分けることができる
- すべての倭城の中心は釜山浦城
倭城は韓国にあるので訪れることが難しいお城です。
しかし日本のお城をより知るためにも倭城は欠かせない存在。
なので一度は訪れたいお城の1つです。