グスクとは何なのか?オススメなグスクも知りたいな!
今回は「沖縄のグスク」を紹介していきます。
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この記事では下記のポイントでグスクを紹介していきます。
- グスクは沖縄戦乱の時代・グスク時代に多く築かれたお城
- 複雑な曲線を描く石垣
- 石造りのアーチ門
- 城内にある御嶽(聖域)
それではグスクを紹介していきます。
Contents
沖縄のお城「グスク」とその歴史
沖縄のお城「グスク」とはどんなお城?
グスクとは沖縄県・鹿児島県の南西諸島・奄美地方で築かれてきたお城のこと。
南西諸島・奄美地方は本州・四国・九州とは異なる歴史を刻んできました。その独自の歴史の中で作られたモノの1つにグスクがあります。
南西諸島・奄美地方に作られたグスクの総数は300以上あるとも。
また2000年にユネスコの世界文化遺産に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として「首里城・今帰仁城・中城城・座喜味城・勝連城」が登録されました。
織田信長や豊臣秀吉の安土城・大坂城のような天守はなく、沖縄で採れる琉球石灰岩を用いた曲線的な石垣や中国大陸の影響を受けた正殿などの建物がグスクの特徴の一部です。
グスクが持つ3つの性格
グスクは3つの異なる性格があります。
・聖域としてのグスク
・集落としてのグスク
・お城としてのグスク
「聖域としてのグスク」とは、グスクの中の一画に御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があることからきています。
首里城などの世界遺産になっているグスクにも御嶽はあり、琉球王国が成立してグスクが要塞として使われなくなった後も、城内の御嶽は周辺住民の信仰の対象でありつづけました。
3つの性格を巡ってかつて「グスク論争」があり、グスクとは何なのかが議論されました。
その結果現在は、」最初は聖域としてのグスクやこれを含んだ集落があったとされ、戦乱の時代になると集落や聖域を城壁で囲んでお城化された領主の居城に発展していった」と考えられています。
グスクの歴史その1ーグスクが多く築かれたグスク時代
グスクの多くは11世紀末〜15世紀にかけての「グスク時代」に多く築かれ発展してきました。(本州などでは平安時代末期から室町時代にかけて)
狩猟採集を中心とした貝塚時代が終わり、水稲農業が行われるようになった11世紀末にグスク時代は始まります。
グスク時代になると農業や集落の守りに適した場所に移り、集落に聖域を作って、稲や麦、牛を育てる農耕を営んでいました。
農業を始めることで人口が増え、海外(中国、日本)や島同士の交易が活発化していきます。
この中で力をつけて富と権力を手にしたのが按司(あじ)とよばれる領主でした。
按司は各地にグスクを築いて、周辺地域を支配。武力で支配領域を拡大していき、小国家を形成していきました。
沖縄にはない鉄器や陶磁器などを手に入れることが他の按司より優位に立つことにつながったことから、海外との交易を活発にしていきます。
なので港に適した地域だった浦添城、中城城、勝連城、佐敷城、今帰仁城などに有力な味が誕生。
14世紀になると有力按司をまとめる「世の主」と称する強大な按司が出現し、今帰仁城の「北山」、浦添城の「中山」、大里城(南山グスクとも)の「南山」にわかれて三山時代と呼ばれる戦乱の時代になっていきました。
この戦乱の時代「グスク時代(三山時代)」に多くのグスクが築かれました。
グスクの歴史その2ー尚巴志による琉球統一
沖縄本島を3つの勢力が支配していた三山時代を終わららせ、琉球を統一したのが「尚巴志(しょうはし)」。
尚氏はもともと佐敷城の按司で、馬天・与那原といった良港を持っていたので力を蓄えていきました。
尚巴志はまず1406年に浦添城の中山王・武寧を撃破し、父・思紹(ししょう)を王位につけ首里城へ移ります。
つづく1416年には今帰仁城の北山を、1429年には南山を併合し、尚巴志は琉球統一を達成。
統一を達成した尚巴志は首里城を拡充し、琉球王国の王府・宮殿にふさわしい規模にしました。
しかしながら琉球を統一した直後の第一尚氏時代はまだ安定しておらず、反乱が起きてしまいます。
有力按司同士の争い「護佐丸・阿麻和利の乱」が起き、この争いの中で護佐丸は中城城や座喜味城を、阿麻和利は勝連城を改修していて、現在に残る形にしました。
本州で関ヶ原の戦いが起き、江戸幕府が成立すると、幕府(徳川家康)の許可をもらった薩摩・島津軍が琉球王国を侵略。
この時の戦いで今帰仁城や浦添城が島津軍によって焼き討ちにあうなどしています。
このあと、明治政府によって琉球が日本に併合されるまで、首里城を中心に琉球王国は栄えていきます。
スポンサーリンクグスクの3つの特徴
ここではグスクが持つ3つの特徴「石垣」「アーチ門」「御嶽(うたき)」について解説していきます。
複雑な曲線を持つ石垣
グスクの特徴の一つに石垣で作られていることが挙げられます。(一部には土造りのグスクもある)
石垣はどれも緩やかな曲線を描き、垂直に近い勾配で立ち上がっています。首里城などの大規模なグスクの石垣は高さ6〜7mで、最高10mにも。
本州などのお城(大阪城や熊本城など)の石垣は直線的で勾配や反りを持っているので、この点がグスクの石垣との違いです。
石垣が曲線的なのは横矢(側面攻撃)をかけるため。
大阪城などでは直線的なジグザグな石垣にすることで横矢をかける工夫をしていますが、グスクでは地形に沿って曲線にしていました。
石材はサンゴ礁の働きで作られた琉球石灰岩が使われていて、加工がしやすいことが特徴です。
また今帰仁城など沖縄本島北部のグスクでは古期石灰岩が使われていて、古生期石灰岩は硬く加工しづらいです。なので今帰仁城の石垣では加工されていない石材が用いられています。
石造りのアーチ門
グスクでは出入口の上部がアーチ状になった石造りの門(拱門きょうもん)を採用。
ほとんどのグスクで城壁(石垣)の一部を開口させた造りになっています。
現在のグスクに建物が残っていなものがほとんどですが、アーチ門の上に建物を載せて櫓門とし防御力を強化していました。
また門を守るために周囲の石垣が張り出していて、門の前面に横矢(側面攻撃)をしかけれるようになっています。
城内に作られた聖域「御嶽」
グスクには城内に広い祈りのスペース(聖域、神域)が存在しています。
このスペースのことを「御嶽(うたき)」と言います。
本州などのお城でも城内にお堂などを建てる場合もあるけれど、曲輪全体が宗教目的で確保されているのがグスクの特徴の一つ。
なぜ戦いのためのお城に御嶽があるのかというと、集落や御嶽が先にあって、戦乱の中で御嶽を取り込むようにグスクが発展したと考えられています。
そのため御嶽はグスクの中枢や古い区画に位置しています。
戦乱の時代が終わっても、周辺の人々は御嶽を信仰の対象として祈りを捧げていました。
また琉球神話の中で、創世神・アマミキヨが沖縄本島に初めて創ったとされる7つの御嶽のうち、4つはグスクの中にあります。
- 金比屋武(今帰仁城)
- 首里森・真玉森御嶽(首里城)
- 玉城アマツヅ(玉城城)
- 知念森(知念城)
世界遺産のグスク5つ
ここでは世界遺産に登録されているグスクを紹介していきます。
琉球王国の王府「首里城」
標高130mの丘陵上に築かれた琉球王国の宮殿が首里城。
築城時期や築城者は不明ながら、14世紀にはグスクが存在していたと考えられています。
首里城が歴史の表舞台に出てきたのは1406年。のちに琉球を統一する尚巴志が中山王・武寧を滅ぼした後、首里城に拠点を移したことに始まります。
1429年の琉球統一から1879年の沖縄県設置(琉球王国の併合)まで、約450年間に渡って王国の中心でした。
2019年10月31日の火災による正殿の焼失は記憶に新しいですが、首里城は何度も火災にあったり、太平洋戦争での沖縄戦で被害を受けています。
その度に再建されてきて現在に至ります。
石垣や石門が残っていて、守礼門や城内へ入る第1の門・歓会門などが復元されています。
ペリー提督も絶賛した「中城城」
沖縄本島中部にあり、太平洋と東シナ海を望む丘陵上に築かれてたのが中城城(なかぐすくじょう)。
中城城が築かれたのは14世紀中頃で、先中城按司が築城したと伝えられています。
1440年に王の命令で、沖縄の築城名人と言われる「護佐丸」が現在の形に改修しました。
沖縄戦でもほとんど被害を受けなかったことから、良好な状態で遺構が残されています。
魅力の一つは石垣で、1853年に中城城を訪れているアメリカのペリー提督も石垣の見事さを賞賛していました。
三山時代を争った北山王の居城「今帰仁城」
沖縄本島北部の標高100mの丘陵上に築かれたのが今帰仁城(なきじんグスク)
今帰仁城は13世紀ころに築かれたけど、築城者は不明。
三山時代に沖縄本島で争った3つの勢力の1つ、北山王が居城としたのが今帰仁城。
中国大陸と交易するなどして14世紀前半に最も栄えたものの、1416年には尚巴志によって滅亡しました。
今帰仁城の石垣は中部・南部のグスクとは違い、古生期石灰岩で作られています。
古生期石灰岩は加工が難しいため、今帰仁城では加工されていない石材が積まれています。
外郭や大隅(うーしみ)の石垣が見事な曲線を描いているところが、今帰仁城の魅力の一つです。
琉球王国に反抗した阿麻和利の居城「勝連城」
沖縄本島中部の太平洋に面した丘陵上に築かれた勝連城(かつれんグスク)
地形をうまく利用していて、一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と階段状に作られています。
15世紀に有力按司・阿麻和利の居城で、中城城の護佐丸を滅した後、首里の王府に攻められて滅亡しました。
これまでの発掘調査によって、中国製陶磁器やタイ・ベトナム・朝鮮・日本の遺物も多数出土していて、交易が盛んに行われていたことがわかっています。
また一の曲輪からは、沖縄本島北部の山々や南は知念半島や中城湾を一望でき、景勝地になっています。
沖縄の築城名人護佐丸によって築かれた「座喜味城」
15世紀に護佐丸が尚巴志の命令で築城したグスクが座喜味城(ざきみぐすく)
座喜味城からは眺望が良く、南は首里城のある丘陵や、北に伊江島や本部半島が見渡せます。
この眺望を活かして、座喜味城から首里城へ狼煙(のろし)で合図を送っていたと伝わっています。
座喜味城は他のグスクとは違って柔らかい粘土質の地盤の上に築かれていて、石垣をカーブさせて築くことで崩れにくく工夫していました。
また座喜味城のアーチ門は沖縄最古のモノとされています。
スポンサーリンクオススメなグスク3選
ここでは先程の世界遺産のグスクほど有名ではないけど、チェックしておいて欲しいグスクを3つ紹介していきます。
創世神アマミキヨが創った御嶽のある玉城城
沖縄本島南部の南城市にあるグスクが玉城城(たまぐすくじょう)
沖縄の神話で創世神アマミキヨが最初に作ったとされる7つの御嶽(聖域)のうちの1つが玉城城です。
戦後にアメリカ軍の建設用資材のために破壊されたので、二の郭と三の郭の保存状態は良くありません。
しかしながら一の郭の東側に自然の岩盤をくり抜いたアーチ門があり、門のとなり(南北方向)に高さ3mほどの石垣が残されています。
またアーチ門は夏至の日に真っ直ぐ朝日が差し込む方角に向けられています。
このことは太陽信仰との関連が指摘されていて、中城城など他のグスクでも夏至の日の出に合わせたアーチ門があります。
グスクの発展を知る上で重要な知念城
沖縄本島南部の知念半島にある知念城(ちねんぐすく)
玉城城と一緒で、創世神アマミキヨが創った7つの御嶽のうちの1つで、今も多くの参拝者が訪れています。
城は古城(くーぐすく)と新城(みーぐすく)からなる構造をしています。
古城には礼拝所があり高さ2m前後の石垣で囲っただけなので、お城というよりは聖域としての性格が強い。
また新城は古城を取り込むように西側へ拡張して造られました。
古城の後に新城が築かれたと考えられていて、聖地としてのグスクからお城(要塞)としてのグスクへの発展を知る上で重要なグスクです。
復元が進むかつての王都・浦添城
沖縄本島中部の標高140mの丘陵上に築かれた浦添城(うらぞえぐすく)
尚巴志が琉球を統一する前、沖縄本島中部を支配した中山王の居城と伝わっていて、かつての王都だったグスクです。
尚巴志によって武寧王が滅ぼされると、尚氏が首里城へ移り浦添城は廃城になりました。
沖縄戦での砲撃や戦後の採石によって遺構は破壊されていました。
しかし1945年のアメリカ軍の写真やのちに行われた発掘調査によって浦添城をうかがい知ることができます。
また発掘調査に基づいて、石垣や浦添ー首里間をつないでいた街道などが復元され、かつての姿を取り戻しつつあります。
沖縄のお城・グスクを見学しに行こう!
今回は沖縄のお城・グスクを紹介しました。
もう一度ポイントをおさらいしておきます。
- グスクとは南西諸島・奄美地方に築かれたお城のこと
- グスクは300以上築かれたとも
- 「集落」「御嶽(聖域」「要塞」の3つの性格をもつ
- 首里城など5つのグスクが世界遺産に
- 11〜15世紀にグスク時代に多く築かれ、発展してきた
- 複雑で美しい曲線の石垣、アーチ門、御嶽の特徴を持つ
グスクは本州などのお城とは違った歴史を歩んできて、違う発展の仕方をしてきました。
グスクを見学する際は、他の地域のお城と何が違うのか、何が共通しているのかなど比較してみてください。