お城の歴史

豊臣秀吉も攻めあぐねた【鳥取城の歴史】をまるっと解説

鳥取城の歴史

今回は「鳥取城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 鳥取城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 鳥取城へ行く前に予習しておきたい人
  • 鳥取城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

最初に鳥取城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントだけでも覚えておくと、要点は掴めます。

  • 秀吉の三大城攻め・鳥取城の兵糧攻め
  • 池田光政が鳥取城を改修し、大城郭に
  • 30年かけて復元計画が進む鳥取城

鳥取城の歴史に詳しくなって、お城巡りも歴史ドラマももっと楽しんでいきましょう。

Contents

鳥取城ってどんなお城?

「日本にかくれなき名山」に築かれた鳥取城

鳥取城の場所鳥取城の場所

鳥取県鳥取市にある鳥取城。

鳥取平野を見渡す位置にある久松山。鳥取城はこの久松山に築かれたお城です。

戦国時代、久松山は優れた眺望や防御性から「日本にかくれなき名山」と評されていました。鳥取城で一番有名なのは豊臣秀吉による「兵糧攻め」。築城当初の鳥取城は山上部分をお城にした山城でした。

さすがの秀吉もかくれなき名山に築かれた鳥取城を、力攻めで攻め落とすことは不利だと判断したのでしょう。

では鳥取城の歴史を見ていきましょう。

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鳥取城の歴史

ここからは鳥取城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の鳥取城

山名氏が一族争いの中で鳥取城を築城

鳥取城は山上と山麓の二つの部分からなるお城鳥取城は山上と山麓の二つの部分からなるお城

鳥取城の始まりは戦国時代。約500年前、1500年代の中ごろに築城されました。

鳥取城のある伯耆国は山名氏によって支配されていました。室町時代、山名氏は一族でいろんな国の守護大名を務めていた実力者でした。鳥取城の築城者は不明で、山名氏の一族争いの中で築城されたと伝わります。

鳥取城は最初ただの軍事拠点でしたが、山名豊国によって本拠地になると伯耆国の政治・経済の中心地になっていきます。

のちに山名豊国は中国地方で一番大きな戦国大名・毛利氏の配下になり、鳥取城は毛利氏の前線拠点になりました。

秀吉の三大城攻め・鳥取城の兵糧攻め

鳥取城の戦い鳥取城の戦い

鳥取城は毛利氏配下のお城になっていました。そこへ毛利氏と織田信長の関係悪化が影響してきます。

大坂で信長に抵抗する本願寺を支援している毛利氏を攻撃するため、信長は豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)を総大将にした軍隊を中国地方へ派遣しました。その中で鳥取城へ秀吉率いる織田軍が押し寄せてきます。

秀吉は事前に鳥取城周辺のお米を高値で買い占めておくなど入念に準備。その上で秀吉は鳥取城へ攻めていき、力攻めをするのではなく、お城を包囲することで兵糧攻めにしました。(相手の補給を遮ることで、食糧不足を狙う戦法)

この戦いで鳥取城では多数の餓死者を出す結果に。鳥取城を任されていた武将・吉川経家が切腹することで、鳥取城は秀吉へ明け渡されました。

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鳥取城が織田家のお城になると、秀吉配下の武将・宮部継潤に鳥取城を任せました。そして、継潤は鳥取城を改修して、山頂や山麓に石垣や櫓を築いていました。

江戸時代の鳥取城

池田光政が鳥取城を改修し大城郭に

鳥取城の石垣鳥取城の石垣

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、実質的な日本の支配者になりました。しかし西日本には豊臣秀吉に恩を感じている大名が多数いて、家康にとって気がかりな存在でした。

関ヶ原の後の領地配分で、家康は鳥取城の城主に池田長吉を指名。長吉は姫路城主の池田輝政の弟で、家康は長吉の鳥取城と輝政の姫路城で西日本の秀吉はの大名たちに備えていました。

のちに大阪の陣で豊臣氏が滅びると、姫路城では別の大名が城主になりました。鳥取城では輝政の孫にあたる池田光政が城主になって、引き続き池田家が鳥取城を治めていきます。

光政が鳥取城主になると、それまでの6万石から32万石へと大きな領地が与えられました。なので光政は鳥取城を32万石の大名にふさわしいお城へするために大改修。山麓のお城を拡張して、御殿などを建てていきました。そして山陰地方で初の三重櫓も建てています。

徳川家の葵紋を使うことが許されていた鳥取城

鳥取城の西坂下御門鳥取城の西坂下御門

3代将軍・徳川家光の時代になると、池田光仲が鳥取城主になっていました。

この光仲は家康のひ孫にあたる人物。そのため池田家は外様大名でありながら家康の血を引いていることから、徳川家の家紋「葵紋」を使うことが許されていました。鳥取城から葵紋の瓦が発見されています。

鳥取城の天守は1573年に山名豊国によって、天神山城から移築されたのがはじまりと伝わっています。しかし、織田信長の安土城が1576年に築城開始したことを考えると、それより早い73年に天守があるとは思えないので、あやしい言い伝えだと思います。

1602年に池田長吉によって、山上に建てられていた天守が三重から二重へと改造されています。これは大雪などで傷みやすいなどを理由で、天守を小さくしたといいます。しかしこの天守は1692年の落雷によって焼失してしまいました。

落雷の後は、山麓の二の丸に建てられていた三階櫓が天守代用とされました。またしてもこの三階櫓は火事によって焼失。

三階櫓は火事の後再建されて、明治時代まで残っていました。

明治時代の鳥取城

明治になると大半の建物が取り壊された鳥取城

大正天皇が宿泊した仁風閣大正天皇が宿泊した仁風閣

明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城は引き続き使用していくお城(存城処分)と、壊してしまうお城(廃城処分)に分けられていきました。

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鳥取城は存城処分となって残されることになりました。そして陸軍の管轄になり、部隊の駐留基地として利用されていました。

その後、西郷隆盛が起こした西南戦争が終わると国内の治安は安定したので、鳥取城に陸軍がいる意味が薄れてきました。そのため鳥取城から陸軍の撤退が決定。しかし西坂下御門と扇御殿化粧の間を残して、他の建物は不要とされたために壊されてしまいました。

この時、天守の代わりとして鳥取城のシンボルの一つだった三重櫓も取り壊されています。

陸軍が撤退した後の鳥取城は、旧城主の池田家へ払い下げられました。大正時代になると城跡は「久松遊園地」として整備され、一般に開放されています。

また当時皇太子だった大正天皇が1907年に鳥取を訪れていて、大正天皇の宿泊施設として池田家によって「仁風閣」が建てられました。仁風閣はフレンチルネッサンス様式の洋館で、1973年には重要文化財にも指定されています。

昭和・平成の鳥取城

鳥取大地震で石垣が崩落、60年かけて復興する

鳥取城の桜と石垣鳥取城の桜と石垣

昭和になると鳥取城を自然災害が襲いました。

太平洋戦争中の1943年9月、鳥取市を震源とするM7.2の鳥取大地震が発生。鳥取市では震度6の揺れだったそうです。

この地震で鳥取城では天守台石垣、三階櫓石垣、太鼓御門石垣など複数箇所の石垣が崩落。震災後は戦時中だったこともあり、鳥取城の復興は後回しにされていました。

震災の翌年に、池田仲博が「城跡の保存」を条件に鳥取城跡を鳥取市へ寄贈しています。

戦後、鳥取城が国の史跡に登録されると、これがキッカケとなり石垣復興が動き出しました。1959年から石垣復興を開始し、以降60年ちかくかけて鳥取城の石垣は以前の姿を取り戻していきました。

30年かけて復元計画が進む鳥取城

鳥取城ー巻石垣鳥取城ー巻石垣

鳥取市は2005年に鳥取城整備基本計画を策定。この計画は三階櫓の再建も含まれていて、2006年から30年かけて鳥取城を幕末の姿へ復元を目指しています。

江戸時代後半に、石垣がハラみ出して崩落することを防ぐために巻石垣という球面の石垣が築かれていました。2011年には江戸時代中の石垣修理の方法を示しているとして天球丸石垣(巻石垣)を復元。

2018年には、池田光政によって架けられていた「擬宝珠橋」を復元しています。この橋の長さは37mで、国の史跡で復元された橋としては日本最長を誇ります。

鳥取城の復元計画は進んでいて、中ノ御門、太鼓御門の復元が予定されています。

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鳥取城の歴史年表

1532〜55 久松山に因幡山名氏か、但馬山名氏のどちらかが鳥取城を築城
1562 武田高信が久松山を拠点に、山名氏へ反抗
1573 高信を倒した山名豊国が布施天神山城から鳥取城へ守護所を移転
1580 山名豊国は豊臣秀吉に降伏して鳥取城を明け渡すが、のちに毛利氏によって奪われる
1581 鳥取城の戦い
秀吉による兵糧攻めによって餓死者を出しながら落城
宮部継潤が鳥取城を改修
1600 関ヶ原の戦いの後、池田長吉が鳥取城主に
1617 池田光政が鳥取藩主になる
1619 この頃から鳥取城の大改修が始まる
1632 池田光仲が鳥取藩主になる
1692 落雷によって天守が焼失する
1720 城下からの火事で鳥取城へも燃えうつる
1721 火事の後、鳥取城の再建開始
1807 天球丸の石垣に崩落の危険性があったので、巻石垣で補強される
1825 幕府より屋根瓦に葵紋の使用が許される
1863 扇御殿、宝隆院庭園(現存)が築かれる
1870 廃城令で存城処分となり、陸軍の管轄に
1879 鳥取城の建物が取り壊される
1907 大正天皇が鳥取を訪れ、仁風閣が建てられる
1943 鳥取大地震によって石垣が崩落する被害を受ける
1957 鳥取城跡が国の史跡に指定される
2011 天球丸の巻石垣が復元される
2018 擬宝珠橋が復元される
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鳥取城の歴史 まとめ

今回は「鳥取城の歴史」を紹介しました。

鳥取城は戦国時代には織田と毛利との間で奪い合い、江戸時代は池田氏の居城として明治維新まで支えてきました。

鳥取城がどんな歴史をたどってきたのか知っているのと知らないのとでは、お城めぐりや歴史ドラマ・小説も満足度が変わってきます。ぜひ鳥取城を訪れる際にはこの記事を参考にしてください。

最後にもう一度ポイントをおさらいしておきましょう。

  • 秀吉の三大城攻め・鳥取城の兵糧攻め
  • 池田光政が鳥取城を改修し、大城郭に
  • 30年かけて復元計画が進む鳥取城

鳥取城へのアクセス

    • 鳥取県鳥取市
    • 電車・バスでの行き方:JR山陰本線鳥取駅から
    • 路線バス「砂丘」または「湖山」方面行きで「西町」下車
    • 鳥取市100円バス「くる梨 緑コース」で「仁風閣・県立博物館」または「市立武道館」下車
    • 休日および夏季運行の観光バス「ループ麒麟獅子」で「鳥取城跡」下車
    • クルマでの行き方:鳥取ICから約10分
    • 詳しくはこちら「国指定史跡・日本百名城 鳥取城跡の冊子(無料)について|鳥取市






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