今回は「丸亀城の歴史」を紹介します。
- 丸亀城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 丸亀城へ行く前に予習しておきたい人
- 丸亀城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは丸亀城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントのところだけ読んでも、おおまかな歴史は理解できます。
- 秀吉家臣の生駒親正が亀山に築城
- 生駒氏のあと、山崎、京極氏が丸亀城を改修
- 大雨によって石垣が崩壊、修復作業が見学できるのは今だけ
丸亀城の歴史に詳しくなって、お城巡りや歴史ドラマ、小説も楽しんでいきましょう。
Contents
丸亀城ってどんなお城?
まずは丸亀城がどんなお城なのか紹介します。
海からの見え方が考えぬいた石垣の名城
四国の香川県丸亀市にある丸亀城。丸亀平野にある標高約66mの亀山に築かれていて、この丘全体を石垣で囲んだ平山城です。
丸亀城の1番の特徴は石垣。一二三段と呼ばれる石垣は麓から石垣を3段、4段と重ねて築かれていて、高さは60mを超えています。
現存天守は高さ約14mと大きくはありません。しかし、高さ60mの石垣の上に建てられていることで、建物の大きさ以上に存在感を放っています。
あとで紹介していきますが、丸亀城は瀬戸内海を行き来する船からの見映えも重視していました。丸亀城は石垣の名城と言っても良いでしょう。
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ここからは丸亀城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで紹介していきます。
戦国時代の丸亀城
豊臣秀吉家臣の生駒親正が丸亀城を築城
丸亀城の場所に最初にお城が築かれたのは室町時代。応仁・文明の乱のころ、1467〜69年頃。
室町幕府の管領・細川氏に仕えていた「奈良太郎左衛門元安」という人が宇多津正通寺山(香川県宇多津町)にお城を築き、丸亀城のある亀山に支城として砦を築いたことが始まりとされています。
丸亀城の歴史がハッキリ分かるのは戦国時代末期から。四国を統一した豊臣秀吉から讃岐国をもらった生駒親正が、本拠地・高松城(香川県高松市)の支城として丸亀城を築城。
秀吉の死後、全国の大名が東軍・西軍に分かれて戦った関ヶ原の戦いでは、生駒親正は石田三成の西軍に味方し、親正の息子・一正は徳川家康の東軍に味方していました。結果、関ヶ原の戦いは徳川家康の東軍の勝利で終わり、親正は西軍に味方していたけれど、息子の一正が東軍に属していたので親正は罪に問われることはありませんでした。それだけでなく、一正の功績で領地の加増も受けています。
戦いのあと、親正の跡を継いだ一正は高松城へ移り、丸亀城へはお城の管理を任せた城代を置いていました。
江戸時代の丸亀城
江戸幕府の一国一城令で丸亀城は廃城に
徳川家康によって大坂の陣で豊臣氏が滅びました。その後、江戸幕府によって大名への規制が厳しくなり、武家諸法度・一国一城令が出されました。
生駒氏は高松城と丸亀城を所有していたので、どちらか一つを捨てなくてはいけません。生駒氏はもともと本拠地としていた高松城を残して、丸亀城を廃城に。このとき、当時の藩主・生駒正俊は樹木でお城を覆い隠して城を壊さずに守った、とも言われています。
生駒家はこのあと長くは続きませんでした。
正俊のあとを継いだ高俊は、政務を放棄して遊んでばかりいました。そんな中家臣たちの権力争い「生駒騒動」が勃発。藩主・高俊は幕府から騒動の責任を問われて、領地とお城を取り上げられ流罪になってしまいます。
生駒氏のあと、山崎、京極氏によって丸亀城は石垣の名城に
生駒氏が流罪になったあと讃岐は東西に分けられ、東の高松城、西の丸亀城と別々に治められることになります。このときに丸亀藩を立ち上げたのが築城の名手と言われた山崎家治です。
さっそく山崎家治は廃城になっていた丸亀城の改修に着手。しかし家治は改修工事中に亡くなってしまい、家治の息子と孫も幼くして死んでしまいます。そのため跡継ぎのいない山崎家は取り潰しになってしまいました。
山崎家のあとに丸亀藩に入ったのが京極高和。高和は山崎氏から続けられていたお城の改修も引き継いでいます。現存している天守も京極高和のときに建てられました。
高和の子・高豊の代でお城の改修が終わりました。山崎家治から数えて約30年におよぶ改修工事でした。高豊のときに、お城の大手門(正門)をそれまでの南側から、現在の北側へ変更しています。高豊は、丸亀城が最も美しく映える北側を正面にすることで、お城の見え方にも気を配っていました。
明治・大正の丸亀城
丸亀城は整備され、亀山公園に
明治時代になると明治政府から廃城令が出され、全国のお城は、軍隊の施設として利用する存城処分のお城と、それ以外の廃城処分のお城に分けられました。
丸亀城は存城処分になって陸軍の部隊が置かれることになりした。部隊がやってきたので、城内の武家屋敷地に住んでいた元藩士たちは立ち退き料をもらって立ち退いたと言います。
また明治になってすぐの、1869年に失火によって御殿が焼失。幸いにも御殿表門、長屋、番所は焼失を免れ、現在も残っています。
1877年から、陸軍の施設として利用できないもの、邪魔になる櫓や塀、門などが順次解体されていきました。しかし天守と大手門だけは壊さずに残して欲しいと、旧藩士からの懇願によって取り壊しを免れています。
大正になると、丸亀市が本丸や二の丸、三の丸の一部を借りて、亀山公園として整備して一般に開放しました。
昭和・平成の丸亀城
現存する天守や城門が重要文化財に
戦後、丸亀城は内堀以内は公園として整備される一方で、外堀は埋められ市街地となっていきました。
文化財保護法が制定されると、1950年に丸亀城の天守は重要文化財に指定され、1953年には城跡が国の史跡に登録されました。
その後も城内の遺構の修理が続けられ、1957年には大手門一の門・二の門が重要文化財に登録され、63年に修復作業が完了しました。
1990年から史跡丸亀城保存修理事業として、本丸に建てられていた隅櫓、渡櫓の復元を目指して古写真を収集していて、古写真の提供者へは総額1000万円の懸賞金が掛けられています。(募集は平成32年・令和2年3月31日まで)
懸賞金についてはこちらを参照してください「復元事業|石垣の名城 丸亀城」
大雨によって石垣が崩壊、修復作業が見学できるのは今だけ
2018年、台風による大雨によって丸亀城の南西部の帯曲輪と三の丸石垣が崩落してしまいました。
崩落した場所は台風以前の大雨の影響で立ち入り禁止にしていたので、幸い崩落に巻き込まれる人はいませんでした。丸亀市は復旧作業を5年間で終えることを目標にしています。
2019年12月には石垣修復の情報発信拠点として、PR館を丸亀城内に解説。
PR館では丸亀城の歴史をはじめ、石垣崩落の経緯、工事の概要の展示や石工の道具、出土品の紹介も行われています。またPR館屋上は石垣の復旧現場を見渡せる展望デッキになっていて、実際に石垣を積み上げている現場を見学できる貴重なお城になっています。
スポンサーリンク丸亀城の歴史年表
1587 | 生駒親正が讃岐国を与えられる |
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1597 | 親正が丸亀城の築城を開始 |
1602 | 丸亀城が完成。生駒一正が高松城へ移り、丸亀城に城代をおく |
1615 | 一国一城令によって丸亀城は廃城に |
1640 | 生駒騒動によって生駒氏は領地・お城を没収される |
1641 | 山崎家治が丸亀藩を立ち上げ、お城の改修に着手 |
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1657 | 山崎治頼が8歳で亡くなり、山崎家は取り潰しに |
1658 | 京極高和が丸亀城城主に。 |
1660 | 現在まで残る天守が完成 |
1673 | 約30年にわたる丸亀城の改修が完了 |
1869 | 失火により御殿が焼失 |
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1948 | 外堀が埋め立てられる |
1950 | 天守の修理が完了し、重要文化財に登録される |
1953 | 丸亀城跡が国の指定史跡に |
1957 | 大手門一の門、二の門が重要文化財に |
1963 | 大手門の修理が完了 |
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1990 | 史跡丸亀城跡保存整備事業が始まる |
1997 | 築城400年祭を開催 |
2019 | 大雨によって石垣が崩落 |
丸亀城の歴史 まとめ
今回は「丸亀城の歴史」を紹介しました。いかがでしたか?
丸亀城の最大の特徴は石垣で、1段ずつの高さはそれほどでも、3段4段と重ねることで60mあまりの高さに仕上げています。そして石垣は小ぶりな天守を際立たせるとともに、瀬戸内海を航行する船から美しく見せるためのものでもありました。
丸亀城を見学する際には、遠くから丸亀城の石垣や天守を眺めることもオススメです。
では最後にポイントをおさらいしておきましょう!
- 秀吉家臣の生駒親正が亀山に築城
- 生駒氏のあと、山崎、京極氏が丸亀城を改修
- 大雨によって石垣が崩壊、修復作業が見学できるのは今だけ