お城の歴史

一記事でわかる戊辰戦争激戦地【宇都宮城の歴史】を総まとめ

宇都宮城の歴史

今回は「宇都宮城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 宇都宮城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 宇都宮城へ行く前に予習しておきたい人
  • 宇都宮城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは宇都宮城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントだけ押さえておくだけでも歴史の要点はつかめます。

  • 平安時代から始まった宇都宮城
  • 家康の側近・本多正純が起こした釣天井事件
  • 戊辰戦争激戦の一つ、土方歳三も戦った宇都宮城の戦い

この記事で宇都宮城の歴史に詳しくなって、お城めぐりや歴史ドラマももっと楽しんでいきましょう。

Contents

宇都宮城ってどんなお城?

四重の水堀に守られた将軍日光社参の宿城

宇都宮御城内外絵図宇都宮御城内外絵図

栃木県の県庁所在地・宇都宮市にある宇都宮城。

宇都宮城は平安時代に作られ、明治時代に至るまで約900年という長い間にわたって使われてきたお城です。

平安時代から戦国時代までは宇都宮氏が治めていて、江戸時代ではいくつもの大名家が城主になっていました。

江戸時代の宇都宮城は四重の水堀に厳重に守られたお城でした。宇都宮城は江戸から東北へ向かう奥州街道と、日光へ向かう日光街道の分岐点にあります。そのため、徳川家康が祀られている日光東照宮へ徳川将軍がお参りするときは、宇都宮城が宿所として利用されていました。

将軍が立ち寄るお城であり東北から関東地方への入り口を守る役割があったので、宇都宮城は水堀で屈強に守られていました。

ではそんな宇都宮城の歴史を見ていきましょう。

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宇都宮城の歴史

ここからは宇都宮城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の宇都宮城

平安時代から始まった宇都宮城

宇都宮城の場所宇都宮城の場所

宇都宮城は平安時代から始まります。

平安時代に藤原秀郷もしくは藤原宗円という人物によって館が築かれたことが始まりです。この宗円は源頼義(鎌倉幕府を作った源頼朝のじいちゃんのひいじいちゃん)に連れられて宇都宮を訪れて、二荒山神社の社務と宇都宮周辺の統治を任されていました。

宗円の後、3代目藤原朝綱のときから宇都宮姓をのなるようになりました。ここから戦国時代末期まで500年以上宇都宮氏が治めていきます。

戦国時代になると、17代当主宇都宮成綱の時に宇都宮氏は最盛期を迎えます。成綱は幼くして家を継いでいたけど、周囲の大名との婚姻政策や「竹林の戦い(1514年)」などの合戦を通じて北関東での勢力を確かなものにしていきました。

一時は家臣によって占拠された戦国時代の宇都宮城

宇都宮成綱の後、18代当主忠綱の代で家臣団支配を強化するも、家臣たちはこれに反発。宇都宮家で内乱へと発展していきます。

結果、宇都宮氏の力は弱まっていきました。そして19代、20代当主は家臣たちの傀儡大名になってしまいます。

21代当主・宇都宮広綱のときには、家臣の壬生綱房・綱雄父子によって宇都宮城が占拠されてしまう事態に。しかしながら広綱は「北条氏康」や「佐竹義昭」ら周辺の戦国大名の助けもあり、宇都宮城を取り返すことができました。

その後の広綱は上杉謙信や佐竹義重らと共に、関東地方で勢力を伸ばしてきていた北条氏に対峙していきます。その中で、広綱は宇都宮城の防御力に不安を感じていました。そして広綱は宇都宮城を家臣に任せて、新たに山城「多気山城」を改修して本拠を移しています。

大閤検地をゴマかした?秀吉によって追放された宇都宮氏

宇都宮城宇都宮城

豊臣秀吉が本能寺の変で織田信長が死んだ後、西日本で勢力を拡大していき天下統一を目指していきます。宇都宮氏はこの頃から秀吉と交流を持っていて、親しい関係にありました。のちに秀吉の名字でもある羽柴姓を贈られています。

小田原城の北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げた後、秀吉は宇都宮城に一時滞在していました。秀吉は北条氏がいなくなった後の関東地方での領地配分を宇都宮城で行っていたためです。この宇都宮城へは徳川家康や伊達政宗も訪れていて、秀吉より領地をもらったり、それまでの領地を保障されたりしていました。
(ちなみに徳川家康はこの領地配分でそれまでの三河や遠江などから関東へ領地替えされています)

秀吉より羽柴姓をもらうほど親しい関係だった宇都宮氏だったけど、秀吉は突然宇都宮氏を追放。追放にあたって家臣を一人も連れて行くことは許されないほど厳しいものだったと言います。理由は下記の3つが挙げられています。

  • 宇都宮氏の跡継ぎ問題でゴタゴタがあったから
  • 大閤検地をゴマかしてイカサマをしていたから
  • 秀吉は難癖をつけて、古い大名家を追い出したかったから

その後の宇都宮城は蒲生秀行が城主になっています。

石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いは、会津に領地を持つ上杉景勝がキッカケで始まりました。家康は要請を無視して京都へ出てこない上杉景勝を討つために出陣。会津へ向かう途中、家康は宇都宮城の南・小山という所で石田三成が近畿地方で挙兵したという知らせを受けました。

家康や小山に集まっていた軍は石田三成を討伐するために西へと引き返していきました。家康の息子・秀忠は宇都宮城で上杉軍の様子を見ていて、後から家康を追いかけて近畿地方へ向かっています。(秀忠が関ヶ原での合戦に間に合わなかったのは有名な話ですね)

江戸時代の宇都宮城

家康の側近・本多正純が起こした宇都宮城釣天井事件とは?

宇都宮城宇都宮城

関ヶ原の戦いの翌年には、家康の孫にあたる奥平家昌が宇都宮城主になっています。しかし家昌が亡くなると、子供の忠昌はまだ年少だったために他所のお城へと移されました。

代わって城主になったのが家康の側近だった本多正純。正純が宇都宮城主になる前に徳川家康は亡くなっていました。そして2代将軍徳川秀忠によって日光東照宮が作られて、家康が祀られることに。

本多正純が城主になると、お城の大改修を始めます。正純はお城の改修と一緒に、城下町や街道の整備も行っていきました。お城を拡張し、水堀を四重に巡らせたり土塁を高くしたりしていました。さらに日光へのお参りの際に利用される将軍宿泊所として、本丸御殿を整備しています。

しかし正純は失脚し、流罪になってしまいました。その背景に「宇都宮城釣天井事件」がありました。

釣天井事件とは、将軍の宿泊所に正純が釣天井を仕掛けて、将軍秀忠の頭上へ天井を落として暗殺しようとしたという噂です。

実際に宇都宮城には釣天井という仕掛けなどはなく、事実無根だったと言います。正純のあまりの宇都宮城大改修が秀忠の疑いを招き、正純謀反の噂が流れたのではないかとされています。

将軍の日光お参りの宿になった宇都宮城

本多正純が失脚した後は、成長した奥平忠政が戻ってきます。忠政は46年間宇都宮城主を務めました。

しかし忠昌が亡くなると、家臣の一人が後を追って殉死してしまいます。江戸幕府は殉死を禁止していたので、これを問題視。忠昌の跡継ぎ・奥平昌能の責任が問われました。さらに忠昌の法要の場で、家臣同士の傷害事件が起きてしまいます。これらのことから奥平昌能は別の領地へと飛ばされてしまいました。

奥平昌能の後は城主が頻繁に交代していきます。松平氏、本多氏、阿部氏、戸田氏、奥平氏が代わる代わる城主を務めていきました。戸田氏が城主の時に明治時代を迎えます。

宇都宮城と同じように将軍の宿泊所とされていた名古屋城本丸御殿は、3代将軍家光以降は使われることはありませんでした。けれども、将軍たちは日光へのお参りは欠かさず行っていました。2代将軍秀忠が日光東照宮を建ててから、3代・家光、4代・家綱、8代・吉宗、10代・家治、12代・家慶が日光へとお参りしています。

明治時代の宇都宮城

戊辰戦争激戦の一つ、土方歳三も戦った宇都宮城の戦い

宇都宮城宇都宮城

幕末になると江戸幕府を武力で倒そうとする薩摩・長州藩と江戸幕府との間で対立が激化していきます。そして徳川慶喜の大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いで実際の戦争へと発展していきました。

江戸城無血開城で江戸を占拠することができた明治新政府(薩摩と長州など)だったけど、東北などではまだ抵抗する旧幕府や藩がいました。この流れの中で宇都宮城も戦場になります。

徳川家康が祀られている日光を目指していた旧幕府軍(新撰組もいました)と新政府軍が宇都宮城を巡って激突。この戦いで、二の丸御殿や櫓などの建物が焼失。城下町や二荒山神社も大きな被害を受けました。

この戦いは宇都宮城を守る新政府軍と攻める旧幕府軍というカタチで行われ、一時は宇都宮城を守りきれないと見た新政府軍は宇都宮城から脱出するほど激しい戦いでした。その後、新政府軍は宇都宮城を取り返して、会津若松城を攻めるための拠点にされています。

昭和・平成の宇都宮城

アメリカ軍の空襲に耐えた宇都宮城三の丸にあったイチョウの木

宇都宮城三の丸に立っていたイチョウの木宇都宮城三の丸に立っていたイチョウの木

日露戦争後に陸軍の司令部が宇都宮市に置かれていました。そのために太平洋戦争中、宇都宮市はアメリカ軍の攻撃目標にされています。

1945年7月〜8月にかけて、5回の空襲を宇都宮市は受けました。

この中で宇都宮城三の丸に立っていたイチョウの木が空襲によって黒こげになってしまいます。それにもかかわらず、翌年には立派な緑の葉をつけていました。

このことから、このイチョウの木は宇都宮氏の戦後復興のシンボルとして扱われました。

平成になり本丸の櫓、土塁、水堀が復元された宇都宮城

一部復元された宇都宮城本丸一部復元された宇都宮城本丸

戦後の宇都宮城は都市計画によって、残っていた遺構も壊されて市街地になっていき、本丸跡は「御本丸公園」として整備されました。

平成になると市は本丸周辺の発掘調査と文献調査を実施。2003年から本丸の一部を復元する工事を開始しました。

復元工事は2007年に完了し、本丸の土塁、清明櫓、富士見櫓、土塀、水堀が復元されています。なお土塁の内部に「宇都宮城ものしり館/まちあるき情報館」が開館。

完成式典には、宇都宮城の旧城主だった宇都宮氏、本多氏、戸田氏の子孫の方が参加していました。

さらに宇都宮市は本丸御殿や城門の復元を目指しています。

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宇都宮城の歴史年表

940 藤原秀郷が宇都宮へ入り、居館を建造か
1053 藤原宗円が宇都宮へ入る、宇都宮城築城
1477 宇都宮成綱が17代当主になる
1557 宇都宮広綱が家臣に占拠されていた宇都宮城へ戻る
1590 豊臣秀吉が宇都宮城で滞在し、領地配分を行う
1597 宇都宮国綱が秀吉によって領地を奪われる
浅野長政が城代として宇都宮城へ入る
1598 蒲生秀行が宇都宮城主に。
1600 関ヶ原の戦い
徳川秀忠は宇都宮城で上杉軍の様子を見ていた
1601 奥平家昌が宇都宮城主に
1616 徳川家康が死去
日光東照宮が作られる
1617 徳川秀忠が日光社参で宇都宮城で宿泊
1619 奥平忠昌が領地替えに
本多正純が城主になって、お城や城下町の整備を始める
1622 宇都宮城釣天井事件で本多正純が失脚
奥平忠昌が再び城主に
1623 徳川家光が日光社参
1649 徳川家綱が日光社参
1668 奥平忠昌が死去
家臣の殉死や傷害事件の責任で奥平昌能は領地替えに
1728 徳川吉宗が日光社参
1776 徳川家治が日光社参
1843 徳川家慶が日光社参、これが徳川将軍最後の日光お参り
1668 戊辰戦争、宇都宮城の戦いでお城、城下町の大半が焼失
1890 宇都宮城跡が旧城主戸田氏などに払い下げられる
2003〜2007 本丸の土塁、櫓、土塀、水堀が復元される
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宇都宮城の歴史 まとめ

今回は「宇都宮城の歴史」紹介しました。いかがでしたか?

宇都宮城は平安時代から続く歴史の長いお城でした。長い間城主を務めていた宇都宮氏は戦国時代も生き延びていましたが秀吉によって追放されてしまいました。

江戸時代では将軍が日光へお参りする際の宿泊所として利用されています。戊辰戦争激戦地の一つになったためにお城の大半が焼失。

現在の宇都宮城は本丸の一部が復元されるのみでほかのお城と比べるとちょっと物足りないかもしれません。しかし歴史いっぱいあるので、歴史を知って宇都宮城に興味を持ってくれたら幸いです。

最後にもう一度歴史のポイントを整理しておきましょう。

  • 平安時代から始まった宇都宮城
  • 家康の側近・本多正純が起こした釣天井事件
  • 戊辰戦争激戦の一つ、土方歳三も戦った宇都宮城の戦い

宇都宮城へのアクセス

  • 栃木県宇都宮市
  • 電車での行き方:東武宇都宮線東武宇都宮駅から徒歩10分、JR宇都宮駅から市内バス「きぶな」約20分、宇都宮城址公園入口下車、徒歩約1分
  • クルマでの行き方:東北自動車道鹿沼ICから約20分、宇都宮ICから約25分
  • 詳しくはこちら「宇都宮城址公園|観光情報検索|とちぎ旅ネット






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