お城の歴史

復元された御殿と現存する櫓門のある【佐賀城の歴史】を総ざらい

佐賀城の歴史

今回は「佐賀城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 佐賀城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 佐賀城へ行く前に予習しておきたい人
  • 佐賀城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは佐賀城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントの段落だけ読んでもらっても、歴史の大筋はわかります。

  • 鍋島直茂が五重天守を含めて佐賀城を完成させる
  • 佐賀の乱で佐賀城が戦場になり、ほとんどの建物が焼失する
  • 佐賀城本丸御殿は日本で初めて木造復元された御殿

お城に限らず背景の歴史を知っていると、お城めぐりや歴史ドラマ・小説などもより楽しむことができます。この記事で佐賀城の歴史に詳しくなってお城めぐりを楽しんできましょう。

Contents

佐賀城ってどんなお城?

日本で初めて木造復元された御殿がある佐賀城

佐賀城の場所佐賀城の場所

佐賀県の県庁所在地・佐賀市にある佐賀城。

佐賀城は戦国時代までは「村中城」と呼ばれていました。そして龍造寺氏の本拠地として、龍造寺氏の発展を支えてきたお城でもあります。

佐賀城は平野に築かれた平城で、広い水堀に囲まれているのが特徴の一つ(場所によっては幅が約70mにも)。佐賀平野は戦国時代には米作りが盛んになっていて、クリークと呼ばれる水路が発達していました。佐賀城はこのクリークを巧みに用いて広い水堀を作り、お城の防御へ役立てていました。

佐賀城の見どころの一つとして本丸御殿があります。この本丸御殿は初めて木造復元された御殿で、江戸時代後期に建てられた御殿を復元しました。320畳の大広間も復元されていて、江戸時代の御殿建築を見学することができます。

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佐賀城の歴史

ここからは戦国時代〜昭和・平成までの歴史を順に紹介していきます。

戦国時代の佐賀城

平安時代末期に始まった佐賀城

佐賀城の水堀佐賀城の水堀

佐賀城の始まりは平安時代末期。藤原季喜という人物が龍造寺村の領主となり、佐賀城の前身となる村中城を築城したことに始まります。そして季喜の子孫が龍造寺氏を名乗っていきます。

室町時代には龍造寺氏は守護大名・少弐氏の家臣という立場でした。しかし同僚家臣の馬場氏によって謀反の疑いをかけられたために、一時は村中城を追い出されることもありました。

そして龍造寺隆信の代になると、家臣の鍋島直茂とともに村中畳を拠点に龍造寺家を大きくしていきます。

龍造寺氏の領地が大きくなっていくと、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟との領地と接するように。そうすると、両者の間で利害関係がぶつかるようになっていきます。

龍造寺隆信は佐賀城を拠点に成長し九州三強の一角に

佐賀城の石垣佐賀城の石垣

先に仕掛けたのは大友宗麟。6万人とも8万人とも言われる大軍で村中城へと攻め寄せました。(村中城の戦い、今山合戦)この時の龍造寺側の兵は5000人ほどと言われています。しかしこの戦いは普通の籠城戦とは違い、兵力の劣る籠城側がお城を飛び出して大軍を追い返した戦いでした。

大友軍は当初5ヶ月間にわたって村中城を包囲していました。なかなか落城しない村中城にイライラしていた大友宗麟は自身の弟・親貞(甥っ子とも)大将にして兵を与えて、総攻撃を命じます。

一方の村中城の龍造寺軍では軍議が開かれていて、そこへ大友軍の総攻撃と、大将・親貞の陣で前祝いの酒宴が行われている情報を、鍋島直茂が忍者からキャッチ。龍造寺隆信はその情報をもとに直茂に夜襲を行わせました。

直茂の部隊は酔い潰れていた親貞の陣を襲撃。敵が混乱する中で大将・親貞を討ち取る戦果を挙げました。その他の大友軍は大将が討ち取られたこともあって、総崩れになって撤退していきました。

少数の部隊が敵の大将へ奇襲(夜襲)を仕掛けて討ち取るところは、桶狭間の戦いに似ていますね。「九州の桶狭間」と呼んでもいい合戦だと思います。

のちに大友氏の勢力が衰退していくと、隆信は領地を広げていき「五州二島の太守」と呼ばれるほどに成長していきました。しかし同じく勢力を伸ばしていた島津氏とぶつかり、「沖田畷の戦い」で隆信は討ち取られてしまいます。こののち龍造寺氏は名目上の当主となり、鍋島直茂が実権を握っていきます。

江戸時代の佐賀城

鍋島直茂が天守を含めて佐賀城を完成させる

佐賀城の天守台石垣佐賀城の天守台石垣

島津氏に隆信が討ち取られた後は、鍋島直茂を中心にして島津氏や豊臣秀吉に従いながら領地を守っていきました。

関ヶ原の戦いの時も最初は西軍に味方していたけど、関ヶ原で石田三成が敗れたことをしるとうまく立ち回って領地の保障を勝ち取っています。

鍋島直茂は名目上の当主とはいえ龍造寺氏を立てていました。その後、龍造寺隆信の跡を継いでいた政家と高房が相次いで亡くなります。そこで直茂は自分の息子・勝茂に龍造寺氏を継がせることで、名実ともに鍋島氏が当主になります。

勝茂が当主になった後、直茂は本格的に村中城を改修し、現在まで残る佐賀城を築城します。

江戸時代中に何度も火災にあった佐賀城

佐賀城の石垣佐賀城の石垣

現在の佐賀城には天守はなく、天守を載せていた石垣(天守台)のみ残されています。

この天守台石垣の大きさは高さ5mで、タテヨコは29.5m✖️26.6m。この大きさを別の天守と比較すると、現存天守で一番大きな姫路城大天守の一階はタテヨコ24m✖️18mに。天守一階だけの大きさ(広さ)で言うと、佐賀城天守は姫路城大天守より大きかったことになります。

平成になって行われてた発掘調査で天守台から甲冑や槍の部品が出土しているので、天守が武器庫として使われていたことがわかりました。

また佐賀城は江戸時代中に何度も火災にあっていました。1726年に起きた火災では、本丸・天守・二の丸・三の丸が全焼したと言います。直茂が建てた天守はこの時に焼失していて、現在まで再建されることはありませんでした。

100年後の1835年にも火災にあっていて、藩主の御殿などが焼失していました。この時の10代藩主鍋島直正は本丸御殿を新築しています。現在の復元された御殿はこの時の直正による御殿を基に復元しました。

佐賀城の現存している建物である「鯱の門」も1835年の火災のあとに再建されていて、本丸への入り口を守る門として再建されていました。

明治時代の佐賀城

佐賀の乱で佐賀城が戦場になり、ほとんどの建物が焼失する

佐賀城に現存する鯱の門佐賀城に現存する鯱の門

明治時代になると武士は士族になりました。これに納得できない士族が各地で反乱を起こすようになっていきます。

岩村高俊という人物は大久保利通によって佐賀県権令(県知事に次ぐ役職)に任じられて、佐賀県へ派遣されてきました。高俊は軍隊をともなって赴任し、不満を持つ士族たちを力で抑えようとしたために「佐賀の乱」へと発展していきました。

この乱を主導していた「征韓党」に「征韓論」を巡る論争に敗れて政府の役職を辞めていた江藤新平が迎えられています。

岩村高俊は県庁のある佐賀城で守りを固めていました。そこを江藤新平らが攻めて、戦闘になりました。この時の戦いで佐賀城のほとんどの建物が焼失。鯱の門や大書院、御居の間だけが残りました。また鯱の門には今もこの時の銃弾のあとが残っています。

佐賀城を守りきれないと判断した岩村高俊は一時脱出。そこへ軍隊を連れてきた大久保利通が佐賀へやってきて、佐賀城を江藤新平らから奪い返しました。

その後、江藤新平は鹿児島にいた西郷隆盛に協力を要請するも断られてしまいます。そして四国を逃亡中に捕まり、佐賀の乱を主導した者たちは処刑されました。

昭和・平成の佐賀城

御殿で初めて木造復元された佐賀城本丸御殿

佐賀城本丸御殿佐賀城本丸御殿

平成になると佐賀県は「幕末・維新期の佐賀」を検証し、歴史をわかりやすく伝え、新しい郷土の発展の源泉となる施設として「佐賀城本丸御殿」の復元を計画します。

1993〜2001年にかけて本丸での発掘調査を実施。この発掘調査と江戸時代の文献や絵図、古写真などを基に復元していき、2004年に完成しました。

復元されたのは「御玄関」「御式台」「外御書院」「御屯之間」「御小書院」「御料理之間」で、これらはもともとの御殿の約3分の1にあたります。

「外御書院」は一之間〜四之間からなっていて、合わせると320畳の大広間となります。1838年に再建された時には家臣1000人がこの大広間に集まって、御殿完成を祝ったと伝わっています。

2007年には「佐賀城下再生百年構想」が策定され、これに基づく整備が現在も続けられています。

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佐賀城の歴史年表

1154 藤原季喜が龍造寺村の領主になって村中城を築城
1186 季喜の養子・季家が鎌倉幕府の御家人になって龍造寺氏を名乗る
1545 馬場頼周の策謀で龍造寺家兼の2人の息子と4人の孫が殺害される
1546 家兼は柳川城主・蒲池氏の支援を受けて頼周を討ち、龍造寺家を再興
1569 大友氏が佐賀へ侵攻する。龍造寺隆信は大友氏と和睦
1570 村中城の戦い(今山合戦)、鍋島直茂が夜襲をかけて大将・大友親貞を討ち取る
1584 沖田畷の戦い、島津軍に敗れて隆信は討ち死
直茂が龍造寺家の実験を握っていく
1600 関ヶ原の戦いのあと、直茂は徳川家康に従う意思を示し領地を保障される
1607 龍造寺政家、高房が相次いで亡くなり、龍造寺氏は途絶える
鍋島氏が佐賀藩主になり、佐賀城を本格的に改修開始
1611 佐賀城が完成し、鍋島勝茂が入る
1726 火事によって本丸、天守、二の丸、三の丸が焼失する
1728 二の丸が復興し、二の丸で藩政が行われるようになる
1835 火災によって二の丸が焼失
10代藩主鍋島直正が本丸御殿の建築を開始する
1871 佐賀城に佐賀県庁が置かれる
1874 佐賀の乱で佐賀城の建物のほとんどが焼失する
1957 鯱の門と続櫓が国の重要文化財に指定される
1958 御座間を水ヶ江大木公園に南水会館として移転
1993〜2003 本丸の発掘調査が行われる
2004 本丸御殿を木造復元した佐賀城本丸歴史館が完成
2010 城内で村中城の遺構が発見される
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佐賀城の歴史 まとめ

今回は「佐賀城の歴史」を紹介しました。

佐賀城は戦国時代までは村中城と呼ばれていて、龍造寺氏の発展を支えています。 この村中城を家臣だった鍋島直茂が引き継ぎ、天守や石垣、広い水堀を持った九州でも指折りのお城へと改修しました。

本丸御殿と鯱の門は佐賀城の見どころの一つです。本丸御殿は江戸時代の御殿建築を味わうことができ、佐賀の侍がどんな場所で仕事していたのか体感することができます。そして鯱の門は佐賀の乱の銃弾の痕が残されていて、戦闘があったことを感じさせてくれます。

では最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 鍋島直茂が五重天守を含めて佐賀城を完成させる
  • 佐賀の乱で佐賀城が戦場になり、ほとんどの建物が焼失する
  • 佐賀城本丸御殿は日本で初めて木造復元された御殿

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