お城の歴史

姫路城の歴史|世界遺産・国宝と日本が世界に誇る名城

姫路城の歴史

今回は姫路城の歴史について解説していきます。

姫路城は法隆寺(奈良県)とともに日本で最初に世界遺産に登録され、大天守は現存天守の中で一番大きく、その他にも多くの建物が残っています。
姫路城は最も有名なお城の一つではないでしょうか。

ではなぜ姫路城は姫路にあるのでしょうか?

というのも、姫路城のような大きなお城がなぜ姫路に築かれたのか?気になりませんか?

姫路城の歴史を知ると、なぜ姫路城は大きなお城になったのかが見えてきます。

  • もとは秀吉の軍師黒田官兵衛のお城だった
  • 西日本の大名を監視するためのお城
  • 廃城令、戦争を乗り越え多くの建物が現存するお城

では姫路城の歴史を見ていきましょう。

姫路城 天守群姫路城 天守群

もともと姫路城は秀吉の軍師・黒田官兵衛のお城だった

姫路城の歴史は南北朝時代まで遡ります。

姫路城が築かれた時期には2つの説があり、南北朝時代に築かれたとする説と戦国時代に築かれたとする説です。

1333年、後醍醐天皇を中心とした勢力によって鎌倉幕府を倒した元弘の乱が起きていた時。

鎌倉幕府を倒そうとする護良親王に賛同して決起した赤松則村が、現在の姫路城が立っている丘「姫山」の上にあった称名寺というお寺を仮の砦としたことが姫路城の始まりとされています。

1346年には則村の次男・貞範が称名寺を移転させて、跡地にお城を築きました。このころの姫路城は、館の周りに堀と塀をめぐらせただけのカンタンな造りをしていました。

赤松氏はその後一度断絶。のちに戦功を挙げて、このお城を取り戻しています。

これが南北朝時代に築かれたとする説です。

姫路城の場所姫路城の場所

つづいて戦国時代に築かれたとする説では、
秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛、その官兵衛のおじいさん黒田重隆とおとうさん黒田職隆が築いたとされています。

官兵衛の重隆と職隆は、主君である小寺則職が御着城(兵庫県)へと移ったため、姫路城を任されるようになりました。

1555年から1561年の間に、重隆と職隆が御着城の支城として姫路城を大改修。
この改修によって本格的な姫路城のはじまりとされています。

そして1567年からは官兵衛が城代となり、姫路城を任されます。

その後、京都へと上洛を果たした織田信長に近づき、官兵衛は秀吉との仲が良くなっていきます。

豊臣秀吉と黒田官兵衛豊臣秀吉と黒田官兵衛

1576年、信長の命令で中国(毛利)攻めを任された秀吉が姫路城のある播磨国(兵庫県)へ進軍してきます。このときの播磨は信長派と毛利派に二分されている状態でした。

早くから秀吉と親交があった黒田官兵衛はもちろん信長派。そして秀吉の配下となり行動を共にしていきます。

1580年になると、官兵衛は姫路城を秀吉に献上。官兵衛が秀吉に「姫路城を毛利攻めの本拠地としてはどうか?」と提案したと言われています。
そして秀吉は姫路城を譲り受け、大改修しました。この時の改修で姫路城は石垣や天守を持つ近世城郭へと変わりました。

姫路城は西日本の大名を監視するためのお城だった

秀吉や官兵衛が姫路城を本拠地としていた時代から下ること約20年。

秀吉の死後、1600年に関ヶ原の戦いが起こります。

関ヶ原の戦いでは毛利輝元(てるもと)石田三成を中心とする西軍と、徳川家康を中心とする東軍が関ヶ原(岐阜県)で戦いました。
この戦いの結果は、東軍の勝利。負けた西軍に味方していた大名は領地を取り上げられてしまいました。

このときの家康は秀吉の子・秀頼を補佐する立場にあり、大名たちの領地配分を決める権限を持っていました。そこで家康は考えました。

「これからは徳川の天下にするために、やっかいな大名たちを本拠地・江戸から遠くの西日本に追いやってしまおう」と。

ここでやっかいな大名たちとは秀吉のおかげで大名になることができたりした、秀吉に恩を感じている大名のことです。有名なところでは加藤清正や福島正則です。

関ヶ原後の大名の領地再配分の結果、加藤清正は肥後(熊本県)を領地とし、福島正則は安芸(広島県)を領地としました。

しかしやっかいなことがありました。この加藤清正も福島正則も関ヶ原では東軍として戦い徳川家康に味方していたのでそれまで持っていた領地よりさらに大きな領地を与えなければいけなかったのです。

加藤清正は肥後半国25万石から肥後一国51.5万石へ、福島正則は尾張清洲20万石から安芸49.8万石へと領地を倍増させています。
領地が大きいということはそれだけ多くの人を養うことができるので、より多くの兵士を集めることができます。

家康にとってやっかいな大名たちに多くの領地を与えなくてはいけなかった。このことが家康にとって徳川の天下実現の障害になると考えたのです。

大きな領地の代わりに中国・四国・九州へとやっかいな大名たちを江戸から遠ざけることに成功した家康。
次に家康が考えたのは「この大名たちをどうやって抑え込む」か、そして「この大名たちが手を組み集団で徳川に反抗してきたときにどうやって対応する」かでした。

この二つの目的を達成するために家康が目をつけたお城が姫路城だったわけです。

そして家康の娘婿にあたる池田輝政(てるまさ)を姫路城城主としました。

池田輝政池田輝政

輝政は9年の歳月をかけて姫路城を大改修。この改修によって現在の姫路城の大部分が完成しました。

西日本へと追いやった家康にとってやっかいな大名たちが集団で徳川へと反抗してきた時、その最前線となるのがこの姫路城だったのです。

姫路城で西日本の大名軍を食い止めて時間を稼ぐことで、東海、関東からの徳川軍の援軍を待っていました。姫路で食い止めることで、大坂の豊臣秀頼と合流させず、京都へも入らせないためでした。

このように姫路城とは、西日本の大名たちから徳川を守るために築かれた最前線のお城だったのです。そのために大きな天守も必要だったのです。

姫路城の役割姫路城の役割

江戸時代の姫路城はたびたび城主が交代していた

西日本の大名を監視するという姫路城のミッションは江戸時代をとおして続いていきます。

そのことが一番現れているのが城主がたびたび交代している点。

江戸時代の姫路城の城主は計32人。江戸時代には約150もの藩があり、最小人数では九州高鍋藩の10人。平均すると各藩の城主は16人になります。代替わりや転封などで交代した城主の人数です。

なぜ姫路城は平均の倍の32人もの城主がいたのか。

西日本の大名を監視するというミッションが関わってきます。

西日本の大名を監視する姫路城・姫路藩の城主を務めるためには軍事指揮ができる人物でなければいけません。

そのため城主が早死にすることでその子供がまだ幼少だった場合、すぐさまに代わりの人物を姫路城城主としていました。幼少という理由で転封した城主は8人いました。

姫路城だけには「幼少の城主は置かない」という不文律がありました。

そのために32人と平均の倍の城主がいたお城になったのです。

また同一人物が2度も姫路城城主をつとめることもありました。

多くの大名家が姫路城の城主をつとめたため、姫路城には多く大名家の家紋が入った瓦が残っています。そのため「家紋の展示場」とも言われています。
さまざまな家紋を探して姫路城を散策するのも面白そうです。

姫路城に残されている家紋の入った瓦姫路城に残されている家紋の入った瓦

姫路城は廃城令、戦争を乗り越えて現存する建物が多く残る

明治維新後、政府は廃城令を出しました。

廃城令によってお城は2種類に分けられました。

  • 陸軍によって軍用地として利用されるお城
  • 陸軍が使用せず大蔵省へ引き渡され売却用財産とされるお城

姫路城では陸軍の軍用地とされたために、廃城を免れました。

しかし建物は競売にかけられ、天守は「23円50銭」で落札されました。当時の1円が現在の3800円くらいらしいので、姫路城天守は「89300円」になります。安い。

そして、陸軍の軍用地として使用するために三の丸の御殿は壊され、訓練場、兵舎が建てられました。

天守をはじめ多くの建物が競売にかけられましたが、解体費用がかさむため放置されていました。放置されていたために、多くの建物は傾き、石垣も崩れていました。

姫路城がヒドイ状況にあることを心配していた陸軍大佐・中村重遠(しげとお)は、「建築学的、芸術的に価値のある姫路城を何とか保存できないか」と考えました。そして、陸軍のトップだった山縣有朋に建白書を提出。有朋は中村重遠の訴えを受け入れ、お城の保存を決定。1879年、陸軍の費用で姫路城名古屋城が応急的な修理がされました。

そして姫路城では、1910年に陸軍省によって「明治の大修理」が行われました。この修理後、姫路市が陸軍が使用していない本丸、二の丸と三の丸の一部を借りて、姫山公園として整備。1912年から一般公開されました。

1936年の姫路城1936年の姫路城

昭和に入ると姫路城は史跡に、天守は国宝に指定されました。

1934年と翌35年、大雨により西の丸の石垣が崩落。このことから国の直轄事業として西の丸全域を修理することになりました。この修復工事ではすべての建物を一度解体して再度組み立て直す方法がとられました。

途中戦争が激しくなってきたために、修復工事は中断されました。

戦争中、姫路市はアメリカ軍の空襲を2度にわたって受けています。市街地が炎上するなか姫路城だけは残っていました。そして、天守には焼夷弾(オイルをまくことで周囲を炎上させる爆弾)が直撃していました。幸いなことに不発弾だったために天守は炎上せずに無事だったのです。

戦後も修復工事は進められ、第1次6カ年計画として1950〜55年までと、第2次8カ年計画として1956〜64年まで「昭和の大修理」が行われました。

第1次6カ年計画で修復された菱の門第1次6カ年計画で修復された菱の門

平成に入り、1993年に法隆寺とともに日本初の世界遺産に登録。

2009年からは姫路城第天守保存修理として「平成の大修理」が2015年まで行われていました。

昭和の大修理から45年もの年月がたっていたために、漆喰壁(しっくいかべ)や天守上層部の軒(のき)や庇(ひさし)の汚れや傷みが激しくなっていました。

平成の大修理では解体修理ではなく、漆喰の塗り直し、屋根瓦のふき直しや耐震補強工事が行われました。

平成の大修理 前と後の大天守平成の大修理 前と後の大天守

姫路城の歴史 まとめ

姫路城の歴史においておさえておきたいポイントは次の3つ。

  • もともと秀吉の軍師・黒田官兵衛のお城だった。
  • 西日本の大名を監視し徳川を守るためのお城だった。
  • 明治以降、多くの修理や戦時中の奇跡によって現在の美しいお城を見ることができる。

以上の3つの点をふまえて姫路城を見学するのはいかがでしょうか?

参考資料