今回は「彦根城の歴史」について解説していきます。
彦根城といえばひこにゃん。そして国宝の天守や重要文化財の櫓(やぐら)などがあり、彦根城という場所も国の特別史跡として登録されています。
特別史跡とは、「国が定めた歴史上重要な「史跡」のうち、学術上の価値が特に高く日本の文化を象徴するものを指す。国宝に相当する。」
彦根城の歴史、築かれた経緯を知ることで、徳川家康が関ヶ原合戦後に恐れていたこと、天下人はみな彦根を重要視していたことなどがわかってきます。
この記事は、彦根城を観光する前の予習として、また観光後にもっと彦根城について知りたいという方にオススメです。
では、「彦根城の歴史」を見ていきましょう。
Contents
天下人はみな彦根を重要視していた
彦根城は近江国、現在の滋賀県にあります。近江国は彦根城が建てられるずっと前から、琵琶湖を利用した水運が発達していて京都にも近いことから栄えていました。
彦根城以前、彦根の拠点とされてきたのは佐和山城。
近江守護だった佐々木氏が1190〜99年(鎌倉時代)に佐和山へ砦を築き、その後佐和山城へと整備されていきました。
そして戦国時代になると、佐々木氏の子孫にあたる六角氏、信長の妹・お市をお嫁さんにしていた浅井長政、織田信長、豊臣秀吉へとこの地域の支配者は変わっていきます。
天下人織田信長と豊臣秀吉は、佐和山城を信頼できる家臣に任せていたことからこの地域がいかに重要だったのかがわかります。
信長は丹羽長秀に、秀吉は石田三成に佐和山城を任せていました。
丹羽長秀は信長に安土城築城工事の総責任者を任されるほど信頼されていたし、五奉行の一人として秀吉政権の中枢にいました。
なぜ佐和山城とこの地域が重要だったのか?
それは「街道と琵琶湖」でした。
佐和山城や彦根城がある地域(現在の彦根市周辺)は西は琵琶湖に、東は山に囲まれた土地でした。
そしてこの地域を2つの街道が通っていました。東へつながる中山道(東山道)と北へつながる北国街道です。また琵琶湖を利用した水運もありました。水陸の物流を共に抑えることができるこの地域は交通の要衝として重要でした。
交通の要衝だったこと、そして京都へ近いことから信長、秀吉という天下人2人はこの地域を信頼できる家臣に任せていました。
- 彦根市周辺は古くから交通の要衝で、京都にも近く栄えていた。
- 信長・秀吉という天下人は信頼できる家臣にこの地域を任せていた。
徳川を守る防波堤として築かれた彦根城
1600年に起きた大事件といえば「関ヶ原の戦い」。
この戦いで西軍の主導的な立場にいた石田三成は処刑されてしまいます。三成の居城だった佐和山城は関ヶ原の戦いの3日後、徳川家康率いる東軍によって攻撃され、落城していました。
関ヶ原の戦いの後、佐和山城を獲得した徳川家康は信長・秀吉と同様にこのお城を信頼のある家臣に任せます。徳川四天王筆頭といわれる井伊直政。
佐和山城主となった井伊直政は佐和山城を廃止し、新たにお城を作ることを決定します。
直政は新しいお城をより琵琶湖に近い「磯山」に築くことをにしました。
直政は山城の不便さと佐和山城=三成というイメージを嫌ったため、新しいお城を築くことにしたとも言われています。
しかし直政は関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで亡くなってしまい、磯山への新城築城は中断されることに。
直政の死後、井伊家を継いだ直政の子・直勝はまだ幼かった。そこで家臣の木俣守勝と家康が相談の上で新城をどこへ築くのかを決めていきました。
木俣守勝と家康が決めた場所は直政とは違い、磯山から南にある「彦根山」へと築くことにしました。
直政が選んだ「磯山」は琵琶湖に面していて、湖上交通が便利な場所でした。しかし湿地帯に囲まれていて城下町の発展が見込めなかったこと、周りに防御に有効な地形、川などがありませんでした。
それに対して家康が「彦根山」選んだ理由には、「内湖」とよばれる入江に隣接していたこと、南側を流れる芹川の流れを変えることで天然の堀とすることができ、干拓によって城下町の発展性が見込めたことが挙げられます。
1603年から始まった彦根城築城工事は、尾張・越前藩など周辺の12もの大名が手伝う大規模なものでした。
この工事では大津城や佐和山城、長浜城など周辺のお城から木材・石材をかき集めるなど、急ピッチで進められました。
関ヶ原の戦いの後の家康には心配事がありました。
それは関ヶ原のあとの領地替えの時に、江戸から遠ざけるため西日本へと追いやった大名たちが家康に反抗してくること。
このとき西日本へと追いやられた大名たちとは、おもに豊臣秀吉に恩を感じている大名たちでした。秀吉の子・秀頼が大坂にいました。そして、これらの大名たちがまとまって秀頼を担ぎ上げることを家康は心配していました。
もしもの時、最前線で徳川を守るためのお城として築かれたのが、「彦根城」。
もしもの時に備えるために、周辺のお城から材料をかき集めて再利用したり、本来は井伊家のお城なので井伊家が単独で建てる彦根城を周辺の大名にも手伝わせて急ピッチで工事を進めていました。家康が豊臣家に代わって政権を握ることへ反発が予想されたのでどうしても素早く彦根城を築く必要があったのでした。
- 井伊直政は佐和山城=石田三成のイメージを嫌って、新しいお城を築くことに。
- 家康は徳川を守るためのお城として、彦根城を築く。
- 関ヶ原後の不安定な時期を乗り切るために、他のお城の材料を再利用して急ピッチで工事が進められた。
天皇によって2度守られた彦根城
井伊家と彦根城は江戸時代をとおして老中や大老などの幕府の要職につき、日本の政治をコントロールする立場にありました。
なかでも有名なのが「井伊直弼(いいなおすけ)」。
幕末の頃に「安政の大獄」を行い、「桜田門外ノ変」で殺害された人物です。
直弼の死後は、井伊家16代直憲(なののり)が跡をつぎ、そのまま明治を迎えます。
家康は彦根城を徳川を守るためのお城として築きました。しかし戊辰戦争では彦根藩は薩長の新政府軍の味方になり、旧幕府軍と戦っていました。
築城後250年の時をへて、彦根城本来の目的(徳川を守る)を果たすときがやってきたのですが、目的が果たされることはありませんでした。
その後、明治時代になり廃城令が出されました。彦根城も例外ではなく、取り壊しが決定されました。
1878年、明治天皇は全国を見て回る「巡幸」をしていました。この年は北陸・東海地方を回っていました。
この時、明治天皇が彦根に立ちよった際、大隈重信(早稲田大学を作った人)が彦根城を保存することを提案したと言われています。
そして明治天皇はこの提案に賛成し、彦根城は取り壊されることはなくなりました。
これが天皇によって救われた1度目です。
そして2度目は太平洋戦争末期。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えます。
実は8月15日夜、アメリカ軍は彦根市の爆撃を予定していました。前日の14日の会議で、昭和天皇が戦争に負けたことを認めて降伏する決断をしていなかったら、彦根城は爆撃よって失われていたかもしれません。
昭和天皇がアメリカ軍の爆撃予定を知っていたわけではないですが、天皇の決断によって守られたと言っても良いのではないでしょうか。
これが天皇によって救われた2度目です。
戦後の彦根城は、1951年に国の指定史跡に登録。そして天守ほか建物6棟が重要文化財に指定されました。
翌52年には天守・付櫓・多門櫓(たもんやぐら)が重要文化財から国宝へと指定されました。56年には国の特別史跡に指定されています。
昭和の大修理(57年〜62年)では、天守や三重櫓、佐和口多門櫓などを修理。
63年には全国でも残っていることが珍しい「馬屋(馬小屋)」が重要文化財に。
93年〜96年には平成の大修理として、天守や櫓などの屋根のふき替え、壁のぬり替え、腐食部分の修理、金箔の手入れなどが行われています。
- 戊辰戦争では、彦根城は徳川を守る役割を果たせなかった。
- 廃城令によって取り壊しが決定していた彦根城。明治天皇の一言で取り壊しからまぬがれる。
- 8月15日に爆撃される予定だった彦根市。前日の会議での昭和天皇の降伏の決断によって救われた。
彦根城の歴史のまとめ
彦根城の歴史はどうだったでしょうか?
もともと彦根城周辺は古代から重要な地域で、信長・秀吉という天下人も重要視していた土地でした。
そして江戸時代になると家康は彦根城を建て、徳川を守る防波堤として彦根を重要視していましたね。
明治から昭和にかけて天皇によって2度守られたことで、現在私たちが彦根城の天守や櫓・門などを見ることができます。
この記事で紹介した彦根城の歴史をふまえて、現地を巡ってみるのはいかがでしょうか?
下記にはポイントをまとめておきます。
- 彦根は重要な土地で天下人も重要視していた。
- 彦根城は徳川を守るお城。しかし明治維新では守らなかった。
- 彦根城は天皇によって2度守られていた。