今回は「岡山城の歴史」を紹介していきます。
- 岡山城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 岡山城へ行く前に予習しておきたい人
- 岡山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは岡山城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントだけでも抑えておくと良いで。
- 宇喜多直家が石山城を本拠にする
- 秀家がお城を改修。天守を建て、岡山城と命名する
- 秀家のあと、小早川、池田氏が城主。岡山城は、宇喜多・小早川・池田それぞれの特徴が合わさったお城に
- 旧国宝になっていた天守などが空襲によって焼失
岡山城の歴史に詳しくなって、歴史ドラマや観光・お城巡りも楽しんでいきましょう。
Contents
岡山城とはどんなお城?
まずは岡山城とはどんなお城なのかを紹介します。
漆黒の天守がそびえる宇喜多秀家のお城
岡山城は旭川下流に広がる岡山平野に立地。周辺は生産性の高い穀倉地帯で、山陽道の陸路と瀬戸内海へつながる旭川による水路の両方を利用できる重要な場所でした。
そのため、岡山城が建てられた場所は領地経営のための都市づくり、政治・経済の拠点とするのにふさわしい土地でした。
岡山城は戦国時代に宇喜多氏の本拠地になると、明治維新まで大名の居城としてありつづけました。明治まで大名が岡山から移らなかったことは、最初の場所決めが優れていたためでした。
現在の岡山城を建てたのは宇喜多秀家という戦国武将。秀家の「秀」は、豊臣秀吉から与えられた字でした。秀家は小さい頃から秀吉に可愛がられていて、秀吉の養女(豪姫)を正室にしています。秀家は秀吉とは血のつながりはないものの、秀吉一家として扱われていた武将でした。
秀家が岡山城を建てていた時、秀吉の援助があったといわれています。現在の岡山城の天守は外観のみを復元したもの。この天守の外観は、大阪城の影響を受けていた格調高いものです。
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ここからは岡山城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで見ていきます。
戦国時代の岡山城
岡山城はもともと「石山城」と呼ばれていた
岡山城が初めて歴史上に出てきたのは1346〜70年ころ。当時は南北朝時代で、京都の北朝と吉野(奈良県)の南朝がそれぞれ天皇を即位させていて、同時に2人の天皇がいる時代でした。そして全国の大名・武将たちが北朝・南朝に分かれて争っていました。
岡山城はもともと「石山城」と呼ばれていて、南朝側の名和氏一族の上神高直(うえがみたかなお)が砦を築いたことが始まりでした。
このことが「備前軍記」という書物に記録されていて、岡山城に関する最も古い記録とされています。南北朝時代のあと、戦国時代までの約150年間は記録がなく、城主は不明でどんなお城だったのかわかっていません。
1521〜28年ころ、石山城では金光備前という武将が城主になっていて、金川城(岡山市北区)の松田氏の家臣という立場でした。このころの石山城は防備に力を入れている館程度のもので、お城というほどの規模はなかったとされています。
岡山の戦国武将・宇喜多直家が石山城を拠点に暴れ回る
石山城の城主だった金光氏を滅ぼして、お城を手に入れたのが宇喜多直家でした。
宇喜多直家は毒殺・暗殺を使って下克上を果たし、現在の岡山県のほとんどを支配していった戦国武将。
直家は1570年に石山城を獲得し、このお城を改修して全く新しいお城にすることを決定。家臣に命じて周辺のお寺や神社を移転させて、土地を確保していました。直家は1573年には石山城へ移って、お城と城下町の整備を続けていきました。
直家はその後、中国地方へ進出してきた織田信長に味方して、広島県を拠点にしていた戦国大名・毛利氏と争っていきました。直家は合戦で城を空けることが多く、なかなかお城と城下町の整備に取り掛かれなかったといいます。
お城の整備が途中なまま1581年に直家は亡くなります。
宇喜多秀家がお城を改修し、岡山城と名付ける
直家のあとを継いだのはまだ10歳だった息子の秀家でした。
秀家は秀吉から「秀」の字をもらうほど可愛がられていて、秀吉の助けもあって秀家は57万石の大大名へと成長していきます。
秀家は石山城を大大名にふさわしいお城にするためと、家臣が増えて手狭になってきたので、1590年から石山城を大改修。
秀家は石垣でお城を囲い、本丸には五重天守を建てた近世城郭へと改修していきました。ちなみにこのときに建てられた天守が昭和まで現存していました。
7年後の1597年には天守を含めてお城が完成し、秀家はそれまでの石山城から岡山城へと改名。城下町も岡山と呼ばれるようになっていきました。
江戸時代の岡山城
岡山城は宇喜多、小早川、池田氏の特徴を合わせもったお城に
1597年に岡山城を完成させた宇喜多秀家でしたが、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に参加して東軍の徳川家康に対抗しました。結果は西軍の負け。その結果、秀家は岡山城と領地を取り上げられてしまい、八丈島へと島流しにされてしまいます。
秀家のあと、岡山城主になったのが関ヶ原で西軍を裏切り東軍の勝利に貢献した小早川秀秋でした。しかし小早川秀秋は関ヶ原から2年後に亡くなってしまいます。そのため岡山にいたのは1年10ヶ月ほど。この短い期間に秀秋はお城と城下町の大改造を行っていました。
秀秋は関ヶ原で裏切ったことで恨みを抱かれている宇喜多氏のお城をそのまま使うことを嫌ったとか、自身の死期を悟ったなどいろいろな説が言われています。
秀秋は跡継ぎがいないまま亡くなったので、小早川家は取り潰されてしまいます。そのあと岡山城主になったのは姫路城主の池田輝政の息子・忠継でした。これ以降は明治まで池田氏が岡山を治めていきます。
忠継が岡山城主になったのはわずか5歳の時でした。5歳の城主では仕事ができないので、のちに姫路城主になる兄の利隆が代理で政務を取り仕切っていました。成長した忠継は1614年の大坂冬の陣に出陣。しかし、帰国後に発病してそのまま亡くなっています。
忠継のあとを継いだのは弟の忠雄。そして忠雄は岡山城と城下町を整備・修築しました。以降明治を迎えるまで、岡山城は大きな改修はされませんでした。なので現在の岡山城は忠雄が改修を行った後の姿ということになります。
岡山城はお城の技術(石垣の構築や櫓などの建築技術)が急速に発達していた時期に、宇喜多、小早川、池田氏と三氏が城主になっていました。たとえば石垣を見ても三氏が築いた石垣はそれぞれ積み方が異なっていて、三氏のそれぞれの特徴を持っているお城になりました。
明治の岡山城
岡山城も廃城令によって建物や堀が取り壊される
明治時代になると藩も大名、武士がいないくなり、お城も不要なものと考えられるようになっていきました。
そして明治政府は廃城令を出して、軍の施設として利用していくお城と、取り壊すお城を分けていきました。
その結果、岡山城は取り壊されることになり、建物が取り壊され堀が埋められました。しかしすべての建物が取り壊されたわけではなく、天守、石山門、月見櫓、西の丸西手櫓の4つが残されました。
このあと岡山城の跡地は、西の丸は小学校として、本丸には中学校として利用されていきました。
昭和・平成の岡山城
旧国宝になっていた現存天守が空襲によって焼失
昭和になると国宝保存法が制定されて、岡山城の天守など残っていた4つの建物は旧国宝(現在の重要文化財)に指定されました。
しかし岡山城を戦災が襲います。1945年6月29日の岡山空襲で天守と石山門が焼失。月見櫓と西の丸西手櫓は焼失を免れました。
岡山城天守は広島城天守とともに、現存天守の中でも関ヶ原の戦い以前に建てられた重要なものでした。今の現存している天守はすべて1600年以降に建てられたものです。
焼失を免れた月見櫓と西の丸西手櫓は戦後に重要文化財に指定されています。
戦後に天守は外観復元され、城跡は国の指定史跡に
岡山城の跡地は元城主・池田氏が明治以降も所有していました。戦後、岡山氏は池田氏から城地を譲りうけ、烏城公園として整備。戦前に本丸・西の丸にあった学校は城外へと移転させています。
1960年ころになると天守の再建を望む声が市民の間で高まり、1964〜66年にかけて天守が再建されました。再建された天守は鉄筋コンクリートで作られたものですが、戦争で焼失する前に撮られた写真を基に外観を復元しています。
1987年には岡山城は国の指定史跡に。指定史跡とは、貝づか、都城跡、城跡などで歴史上又は学術上価値の高いものと認められた史跡のことです。岡山城も価値を認められたため指定史跡となりました。
1996年には築城400年を記念して、天守のシャチホコや軒瓦に金箔が施されています。宇喜多秀家が城主だった創建当時は、金シャチが天守に載っていたことが伝わっていました。そのため、創建当時の姿に近づけるためにシャチホコと軒瓦に金箔が施されました。
スポンサーリンク岡山城の歴史年表
1346〜70 | 南朝側の上神高直が岡山に砦を建てる |
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1521〜28 | 金光備前が石山城主になっている |
1570 | 宇喜多直家が石山城を獲得 |
1573 | 直家が石山城を拠点に |
1581 | 直家が亡くなる |
1590 | 宇喜多秀家が石山城を改修し、岡山城と城下町の整備を開始 |
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1597 | 秀家は天守を含めて岡山城を完成させる |
1600 | 小早川秀秋が城主に |
1602 | 秀秋が亡くなる。池田忠継が城主に |
1615 | 忠継が亡くなり、弟の忠雄が跡を継ぐ 忠雄は本丸の拡張や二の丸の整備を開始する |
1632 | 忠雄が亡くなり、鳥取藩主だった池田光政が城主になる |
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1700 | 後楽園が造られる |
1869 | 版籍奉還、藩主の池田章政が岡山藩知事に。 岡山城は兵部省の管轄に |
1871 | 後楽園が一般に開放される |
1882 | 天守などを残して、城内の建物が取り壊される |
1884 | 後楽園が岡山県の所有に |
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1890 | 岡山城が旧藩主池田章政に払い下げられる |
1945 | 6月29日岡山空襲によって天守、石山門が焼失 |
1966 | 天守が外観復元で再建される |
1987 | 岡山城跡として国の指定史跡に |
1996 | 築城400年を記念して、シャチホコと軒瓦に金箔が施される |
岡山城の歴史 まとめ
今回は岡山城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
岡山城はお城の建築技術が急速に発達した時期に、宇喜多、小早川、池田氏と城主が変わっていくことでそれぞれの時代の特徴をあわせ持ったお城になっています。岡山城で見学する際は石垣の積み方に注目してみると、場所によって積み方が違っているので城主が変わるごとに技術が進歩していっていることがわかります。
お城の歴史を知っておくと、お城巡り・観光がより楽しくなります。
もう一度、ポイントをおさらいしておきましょう。
- 宇喜多直家が石山城を本拠にする
- 秀家がお城を改修。天守を建て、岡山城と命名する
- 秀家のあと、小早川、池田氏が城主。岡山城は、宇喜多・小早川・池田それぞれの特徴が合わさったお城に
- 旧国宝になっていた天守などが空襲によって焼失