今回は「岐阜城の歴史」を紹介します。
- 岐阜城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 岐阜城へ行く前に予習しておきたい人
- 岐阜城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは岐阜城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントを押さえておくだけでも良いですよ。
- 斎藤道三が稲葉山城を拠点に下克上を達成
- 竹中半兵衛が稲葉山城を占拠する
- 織田信長が美濃を獲得し、岐阜と名付ける
- 関ヶ原の前哨戦になった岐阜城の戦い
この記事で岐阜城に詳しくなって、歴史ドラマも観光も楽しんでいきましょう!
Contents
岐阜城とはどんなお城
まずは岐阜城とはどんなお城なのか紹介します。
岐阜城の3つの歴史的価値とは?
岐阜城とは岐阜県岐阜市にあるお城。古くは稲葉山城と呼ばれていました。
岐阜城は金華山の山頂の城郭部分と麓の御殿とに分けて築かれた構造をしていました。金華山山頂からは岐阜市内はもちろん、遠くは名古屋まで見渡せる絶景を見ることができます。
岐阜城には3つの歴史的価値があります。
- 織田信長が天下統一の拠点としたお城
- 宣教師や公家たちの詳細な記録が残されているお城
- 山麓の貴重な庭園群
信長は岐阜城のあとに安土城を築いています。安土城は近世城郭の出発点とされていて、秀吉や家康は信長の安土城をもとに大坂城や江戸城を築いていきました。信長は金箔瓦や石垣を城造りに用いることで、城主の権威を表現しようとしていました。岐阜城は安土城へと繋がる重要なお城だったのです。
信長は岐阜を訪れたいろんな人たちに岐阜城内を案内していました。その中にはポルトガルからやってきたキリスト教の宣教師もいました。そして宣教師は、信長に案内された城内の様子を記録に残していました。そのため現在は、城内の様子をしることができる貴重な資料となっています。
信長は金華山のふもとに御殿と一緒に庭園をつくっています。この庭園は見せることを意識していて、巨石を並べたり、自然の地形を活かした造りになっていました。この庭園は京都の銀閣寺との類似点も指摘されていて、「室町将軍の権威や伝統を受け継ごうとしていた」とも言われています。
スポンサーリンク岐阜城の歴史
ここからは岐阜城の歴史を戦国以前〜昭和・平成まで紹介していきます。
戦国時代以前の岐阜城
金華山は神聖な山として人々の信仰を集めていた
岐阜城のある金華山は、古くは神聖な山として人々の信仰を集めていました。
そして金華山には「伊奈波神社」が建てられていて、のちに斎藤道三がお城を改修するときに現在の場所に移されています。
神聖な山にお城を作ることはよくあることでした。もともと神聖な山として地域の中心的な場所だったので、そこにお城を築くことで城主が権力を表すために利用していました。
戦国時代の岐阜城
斎藤道三が稲葉山城を拠点に下克上を達成
親子二代で下克上に挑戦していた斎藤道三は、家臣として仕えていた長井氏や守護代(いまの副知事みたいな役職)の斉藤氏を乗っ取っていきました。
道三は金華山の稲葉山城を拠点に、麓には本格的な城下町を整備していきました。
稲葉山城を拠点に力を蓄えてきた道三はついに美濃守護の土岐頼芸を追放して、下克上を達成し美濃を制圧します。
道三は息子の義龍に家督と稲葉山城を譲りました。しかしこの頃から道三と義龍の仲が悪くなっていき、最終的に長良川の戦いで激突。道三は息子の義龍に敗れて戦死します。
軍師・竹中半兵衛が稲葉山城を占拠
父である道三を倒して新たな美濃の国主になった義龍でしたが、すぐに病死してしまいます。
義龍の跡を継いだのは息子の龍興でした。龍興はまだ14歳でした。
まだ14歳だった龍興が戦国大名として、家臣たちをまとめ上げていくことは難しいものでした。この頃から、尾張(愛知県西部)の織田信長からたびたび攻撃を受けていたけど、家臣たちが団結して対抗していました。しかし家臣たちの団結力もだんだんと綻んでいきました。
そんな中のちに秀吉の軍師として活躍する竹中半兵衛が、龍興と側近の家臣たちを襲って稲葉山城を占拠。龍興をお城から追い出してしまします。
半兵衛による稲葉山城の占拠は半年だけでした。半兵衛が龍興へ自主的にお城を返却したとも、龍興を指示する家臣たちの反発が強くなっていたのでお城を放棄したとも言われています。
織田信長が美濃を獲得し、岐阜と名づける
信長の攻撃を頑張って防いでいた斉藤龍興でしたが、最後は有力家臣が信長に寝返ったことで敗れています。龍興は稲葉山城を信長に奪われ、追放されました。
美濃と稲葉山城を得た信長は、町の名前をそれまでの「井ノ口」から「岐阜」へと改名。
信長は岐阜城を大改修し、山麓には御殿を、山頂には天守を建てています。
そして信長は山麓御殿を政務を行う政庁として利用し、山頂の天守は信長と家族など身内のためのプライベート空間にしていました。山頂部分はプライベート空間なので、信長の許可なしには入ることはできませんでした。
信長は山頂に住むことで、家臣たちとの身分の差を視覚的に表しています。それまではあいまいだった大名と家臣の関係を、信長は上下関係をハッキリさせようとしていました。
ルイス・フロイスが見た岐阜城
信長は岐阜城にさまざまな人を招いています。その中には、ポルトガルからやってきた宣教師もいました。
宣教師のルイス・フロイスは岐阜を訪れた際、佐久間信盛や柴田勝家など信長の家臣に仲介してもらって信長と面会しています。この時に信長自身に岐阜城内を案内されました。
この時の場内の様子をフロイスは「日本史」という本に詳細に書きとめています。
なので、フロイスの本は戦国時代のお城の様子がわかる貴重な資料となっていて、岐阜城は発掘調査と日本史の記述とを比較することができる珍しいお城になっています。
関ヶ原の前哨戦となった岐阜城の戦い
信長は安土城を築くと長男の信忠に岐阜城を譲ります。そして本能寺の変で信長と信忠が死んでしまうと、岐阜城は信長の三男・信孝が継ぎました。その後は池田元助、豊臣秀勝が城主になり、関ヶ原の戦いの時には信長の孫の織田秀信が岐阜城主になっていました。
関ヶ原の戦いは徳川家康による上杉氏討伐がキッカケで始まっていきます。最初、秀信は家康とともに上杉氏討伐に参加する予定でした。
そこへ家康に対して挙兵した石田三成からの味方になるように誘いがあり、秀信はこれに応じたことで石田三成側として戦っていくことになります。
石田三成が挙兵したことを知った徳川家康や福島正則、池田輝政などは、三成を討つために上杉氏討伐を中止して三成のいる近畿地方へと向かっていきます。そして三成側(西軍)と家康側(東軍)が激突したのが美濃(岐阜県南部)でした。
家康側の武将・福島正則と池田輝政はまずは岐阜城に狙いを定めて攻撃していきました。秀信は東軍を迎え撃つも、岐阜城を包囲されてしまい攻め落とされてしまいます。
その後、岐阜県西部の関ヶ原で石田三成と徳川家康が直接戦った結果、家康が勝利。石田三成に味方した秀信は岐阜城を奪われ、高野山へ送られることになりました。
江戸時代の岐阜城
江戸時代は一般の立ち入りが制限されていた岐阜城跡
関ヶ原の戦いが終わると家康は岐阜城の廃城を決めます。
そして家康は岐阜城にほど近い加納に、新しいお城を作ることにしました。この時に岐阜城にあった天守や石垣の石材などが加納城建設のために再利用されています。加納城へ移築された天守は「加納城御三階絵図」として天守の絵が残されていて、現在金華山に建っている再建天守のもとになりました。
江戸時代の岐阜城・金華山は、幕府の直轄地になっていて、のちに尾張徳川家のものとなっています。
そして金華山は「御山」として、一般の立ち入りが制限されていました。尾張藩主は定期的に名古屋から岐阜を訪れて、鵜飼観覧と金華山登山を欠かさなかったと言います。
明治以降の岐阜城
板垣退助が岐阜城で襲われる
明治になると金華山は宮内省の「御料林」に編入されました。そして金華山の森林は鵜飼で使われるかがり火として利用されてきました。
金華山は一般に開放され、秋になると松茸を取りに山を登る人が大勢いたといいます。
岐阜公園が作られる以前には中教院という施設が、信長の山麓御殿があった場所にありました。明治の自由民権運動の指導者として知られる板垣退助が、中教院での遊説後に暴漢に襲われる事件がありました。有名な言葉「板垣死すとも、自由は死せず」は、この時に言われました。
その後中教院は廃止され、岐阜公園が作られました。開園式は2万人の人出で賑わい、相撲や花火などのイベントが催されました。
日本初の復興天守が岐阜城に建てられる
最初に岐阜城に天守が再建されたのは1910年でした。これが日本で最初に再建された復興天守でした。この天守は木造トタン葺きの3重3階で、内部は吹き抜けになっていました。
その後、天守は浮浪者の焚き火によって焼失。焼失直後から再建を望む声があり、寄付も集まっていました。しかし太平洋戦争中だったためにすぐには再建されませんでした。
天守が再建されることになったのは、戦後1956年のことでした。これが現在の岐阜城天守になります。
この天守の外観は、加納城の三階櫓を描いた「加納城御三階之図」をもとに設計されました。加納城の三階櫓はもともと岐阜城天守を移築したものと伝わっています。なので加納城の三階櫓をもとにして岐阜城天守が再建されました。
スポンサーリンク岐阜城の歴史年表
1201 | 二階堂行政が稲葉山に砦を築く |
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14世紀 | 行政の子孫・行藤の死後に、廃城になる |
15世紀中期 | 美濃守護代・斎藤利永が城跡を再利用して、稲葉山城とする |
1525 | 斎藤氏家臣の長井氏が謀反を起こして稲葉山城を奪う |
1533 | 長井新左衛門尉の息子・斎藤道三が稲葉山城主になる |
1554 | 道三が城と家督を息子の義龍に譲る |
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1561 | 義龍の息子・龍興が家督を継ぐ |
1564 | 竹中半兵衛らが謀反を起こして、稲葉山城を占拠する |
1567 | 信長が稲葉山城と美濃を制圧 小牧山城から本拠を移して、岐阜と命名する |
1576 | 信長の長男・信忠が家督と岐阜城を譲られる |
1582 | 本能寺の変と清洲会議のあと、信長の三男・信孝が岐阜城に入る |
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1583 | 信孝が秀吉に攻められ降伏し、切腹 池田元助が岐阜城主になる |
1584 | 小牧長久手の戦いで池田元助が戦死 翌年に元助の弟・池田輝政が岐阜城主に |
1590 | 輝政が三河の吉田城へ移ったので、翌年に豊臣秀勝が岐阜城主になる |
1592 | 秀勝が朝鮮出兵中に病死 織田秀信が岐阜城主に |
1600 | 関ヶ原の戦いが起きる 秀信は西軍として戦い、岐阜城は落城する |
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1601 | 家康は岐阜城を廃城にする 奥平信昌が加納城を築城する |
1910 | 岐阜城跡に3重3階の復興天守が建てられる |
1956 | 鉄筋コンクリートで3重4階の天守が建てられる |
2011 | 山麓から山上が国の史跡に指定される |
岐阜城の歴史 まとめ
今回は岐阜城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
岐阜城は信長によって改修されたことで、中世から近世へと変わっていく中間点のお城になりました。そして岐阜城から安土城や秀吉の大坂城、家康の江戸城などへとつながっていきます。
お城単体で歴史や構造などを知ることも面白いですけど、ほかのお城と絡めることでより一層楽しむことができます。
最後にもう一度ポイントを紹介しておきます
- 斎藤道三が稲葉山城を拠点に下克上を達成
- 竹中半兵衛が稲葉山城を占拠する
- 織田信長が美濃を獲得し、岐阜と名付ける
- 関ヶ原の前哨戦になった岐阜城の戦い