今回は「東海のお城の特徴」を調べて見ました。
東海地方は愛知県西部や岐阜県南部に広大な濃尾平野があり、三重県には伊勢平野などの平地が多い地域。
平地が多いと必然的に山城を築くのが難しくなります。
そして、東海地方は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を輩出し、静岡県は武田と徳川が激しく争った地になります。
合戦が多い地域ではお城も発達していきます。では東海地方のお城にはどんな特徴があるのでしょうか!?
- 平城が多かった東海地方
- 関ヶ原の戦いがお城の発展に影響していた
- 天守にとっても重要な地域だった
- 武田流築城術の技が残る静岡県
では、東海のお城の特徴を見ていきましょう!!
Contents
東海のお城の特徴 平城が多かった東海地方
東海地方、特に愛知県西部や岐阜県南部には濃尾平野があり平地が多い地域です。
この地域には織田信長・生誕のお城勝幡城(しょばた)(愛知県)や清洲城(愛知県)」那古野城(愛知県)(現在の名古屋城の二の丸のあたり)など織田信長の誕生以前の山城全盛の時期から平城が多く築かれていました。
「”濃尾平野がお城に関して先進的だったから山城より平城が多かった”」という見方もできますが、これは単純に山城を築くような山がなかったから平城が多く築かれ発展していったと思います。
その後、織田信長や豊臣秀吉の時代になると石垣やその上に建つ櫓などを多用した平城や平山城が多く築城・改築されていきます。小牧山城(愛知県)、岐阜城(岐阜県)、清洲城など。これらのお城の特徴は不等辺多角形の曲輪を石垣で固め、天守を持っていました。
スポンサーリンク東海のお城の影響 関ヶ原の戦いが与えた影響とは!?
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康側の東軍が勝利しました。
その後の大名の取り潰しや配置転換(移封)は徳川家康が主導的に行いました。
その結果、豊臣秀吉と親しい関係にあった大名や徳川に反抗的な大名は京都より西(中国・四国・九州)へと遠ざけました。
どうして遠ざけたかというと、徳川が天下を獲るためには江戸と京・大坂の間に邪魔な大名にいて欲しくなかったからです。
そのため、重要拠点とされたのが東海地方です。関ヶ原以前には愛知県や静岡県の東海道沿いには豊臣秀吉に親しかった大名が領地を持っていました。江戸・京都間の通行のさまたげにならないよう大名の配置転換を行い、邪魔な大名を西へと移し、空白となった東海地方には徳川家康の家臣が配置されました。
徳川御三家の尾張藩を除き、東海地方には小さな譜代大名(関ヶ原以前より徳川の家臣だった大名)が置かれました。
掛川城(静岡県)、浜松城(静岡県)、岡崎城(愛知県)、伊勢亀山城(三重県)、大垣城(岐阜県)」などは古式な縄張で堀の幅は狭く中小規模なお城でした。小藩が群立していたので西日本の姫路城(兵庫県)、広島城(広島県)、熊本城(熊本県)のような大城郭は築かれませんでした。(名古屋城を除き)
東海のお城の特徴 天守にとっても重要な土地だった!
天守といえば織田信長の安土城天主が最初の天守・天主と呼ばれます。
ですが、安土城天主のもとになった天守が東海地方にあります。
それは、信長の安土より一つ前の居城・岐阜城です。
信長は1567年(永禄10年)に美濃(岐阜県南部)を制圧し、稲葉山城を岐阜城と改名し天下布武を狙うのにふさわしいお城に改築しました。
この時、信長は岐阜城に天主とよぶ「高楼」を建て、その後の安土城や大坂城の天守へとつながるもとになりました。
犬山城天守は現存最古の天守といわれ関ヶ原の戦いの前に築かれたとされています。(丸岡城(福井県)の天守とどちらが古いか争っています)犬山城天守は望楼型とよばれる古い形式の天守です。
東海地方の天守でおさえておきたいのが名古屋城天守!
名古屋城天守は金シャチを載せ、延べ床面積は1340坪という天守のなかで一番広い床面積を持つ史上最大の天守でした。
これは後に建てられる江戸城天守より広い面積でした。(天守の高さでは江戸城天守のほうが高い!)
東海のお城の特徴 武田流築城術の技が残る静岡県
現在の静岡県は旧国名でいうと、遠江・駿河・伊豆でした。
特に遠江(静岡県西部)は徳川家康と武田信玄・勝頼父子との間で激戦がおこなわれた場所でした。
(諏訪原城、高天神城など)
そのためこの地域には武田方が築いたお城が多くのこされていて、それらのお城に武田流築城術の技が残されています。