今回は「伊予松山城の歴史」を紹介します。
- 伊予松山城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 伊予松山城へ行く前に予習しておきたい人
- 伊予松山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは伊予松山城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントを押さえておくだけでも歴史の流れは掴めるようになってます。
- 秀吉家臣の加藤嘉明が伊予松山城を築き、松山の礎を築く
- 幕末に再建された天守は最も新しい現存天守
- 30棟もの建物が復元され、往時の雰囲気が味わえる
伊予松山城の歴史に詳しくなって、お城巡りや歴史小説・ドラマなどより楽しんでいきましょう。
Contents
伊予松山城ってどんなお城?
現存建物と復元建物が絶妙にマッチする伊予松山城
まずは伊予松山城はどんなお城なのか紹介します。
愛媛県の県庁所在地・松山市の中心部にある伊予松山城。伊予松山城は標高132mの勝山に造られた本丸とその麓の二の丸・三の丸によって構成されています。
伊予松山城には現存する建造物が多く、その多さは世界遺産にもなっている姫路城に次ぐほど。そして昭和から平成にかけて30棟もの櫓や門・土塀などが復元され、伊予松山城では現存建物と復元された建物がマッチして防御の仕組みなどが体感できるお城になっています。
また本丸と二の丸をつなぐように、勝山の斜面を登っていくように石垣(登り石垣とよんでます)が築かれています。登り石垣のあるお城は珍しく、伊予松山城はそのうちの一つです。
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ここからは伊予松山城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで紹介していきます。
戦国時代の伊予松山城
戦国大名河野氏の湯築城を守るお城だった伊予松山城
現在伊予松山城のある勝山に最初にお城・砦が築かれたのは、室町時代初期(南北朝時代)、朝廷が北朝と南朝にわかれて争っていた時期でした。
戦国時代、勝山の近くには戦国大名・河野氏の湯築城があり、勝山の砦は湯築城を守るための砦として重要視されていました。
その後、河野氏は四国統一を目指す長曾我部元親の侵攻を受けて降伏。そして河野氏を従えた元親は豊臣秀吉と対立するようになり、秀吉の四国攻めを受けてしまいます。秀吉の四国攻めで、河野氏も秀吉軍と戦い、湯築城で1ヶ月におよぶ籠城の末、降伏しました。
秀吉が四国を平定すると、松山市周辺は毛利元就の三男・小早川隆景に与えられ、その後、福島正則、加藤嘉明が領主になっていきます。
江戸時代の伊予松山城
加藤嘉明が松山城を築城し、松山の礎を築く
最初、加藤嘉明は松前城を拠点にしていました。そこで秀吉の死後、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いが起こります。加藤嘉明は徳川家康に味方して家康側(東軍)の勝利に貢献。嘉明は家康より領地を追加で与えられました。
以前より領地が大きくなった嘉明は、その領地にふさわしいお城を築くことにしました。そこで築かれたお城が伊予松山城です。この頃に嘉明が松山に改名して、お城も松山城と呼ぶようになりました。
先ほども書いたように、伊予松山城は山頂の戦闘に特化した造りの本丸と、麓の居住性を重視した二の丸・三の丸で構成されています。そして本丸と二の丸の間の山の斜面に登り石垣を作ることで、お城として一体感を持たせています。
嘉明の築城工事で特に大変だったのが河川の付け替え工事。松山市内を流れる石手川は現在よりもっと北川、伊予松山城のすぐ側を流れていました。そしてお城周辺は湿地帯で大雨のたびに洪水になっていました。そのため嘉明は石手川の流れをより南側へ変え、下流で重信川へ合流させています。この付け替え工事のために石手川の川底の固い岩盤を200mにわたって人力で削っています。この工事のおかげで洪水は少なくなり、松山の発展へつながっていきました。
松平定明が嘉明の天守を建て替える
加藤嘉明は築城工事を続けていたけど、途中で会津への領地替えを命じられました。そのため伊予松山城の完成を見ることなく、会津へと移ることに。
代わって城主になったのが蒲生忠知(ただちか)という人でした。忠知は嘉明の築城工事を継いで二の丸を完成させています。しかし参勤交代で江戸へ向かう途中の京都で病死してしまいました。忠知には子供がいなくて、後継がいなかったので蒲生家は取り潰しになりました。
蒲生忠知のあとに城主になったのが、桑名城から移ってきた松平定行でした。以降明治になるまで松平家が松山を治めていきます。
定行も築城工事を引き継いで進めていきました。しかし定行はもともと嘉明が建てていた五重天守(姫路城や松本城も五重天守)を壊して、一回り小さな三重天守へと作り替えています。
なぜ天守を作り替えたのかというと、大きな天守を持っていると幕府から目をつけられるので、幕府への配慮から小さな天守へ作り替えたと言われています。
落雷で天守が焼失!幕末に再建された天守は最新の現存天守
松平定行が建てた天守も1784年の落雷によって失われました。
松山藩の財政難もあって、天守が再建されたのは約70年後の1852年でした。アメリカから黒船でペリーがやってくる前年のことでした。
全国には12の天守が現存しています。伊予松山城の天守は幕末に建てられたので、12天守のなかで最も新しい天守です。
明治時代の伊予松山城
陸軍の施設として利用された伊予松山城
明治になってすぐ伊予松山城では2度にわたって火災に見舞われます。1度目の火災で三の丸が、2度目には二の丸が焼失してしまいました。
本丸は「聚楽園(じゅらくえん)」という公園になっていたけど、1887年には廃止となっています。
1877年以降は陸軍の管轄になり、二の丸と三の丸に兵舎や病院が建てられました。1945年の終戦まで陸軍の施設として利用され続けました。
二の丸・三の丸の建物は火災によって失われてしまったけど、本丸の建物は廃城令のあとも壊されることなく多くの建物が残されました。
昭和・平成の伊予松山城
30棟もの建物が復元され、往時の雰囲気を味わえる伊予松山城
昭和になると35棟の建物が旧国宝に指定されていたものの、放火や戦争での空襲によって多くの建物が失われてしまいました。
戦後になって、残されていた天守など21棟が重要文化財になり、城跡は国の史跡に登録されました。そして城山公園として一般に開放されています。
1958年から松山市では「松山城復興計画事業」を開始。この計画で放火や空襲によって失われた建物の復元を進めていきました。
1990年までの約30年間にわたって復元工事を行い、30棟もの櫓や城門・塀などを復元しました。復元建物のほとんどは木造で復元され、馬具櫓のみ地盤の関係で鉄筋コンクリートで復元されました。昭和初期に旧国宝に指定される際の測量図面や古写真をまとめていた資料が残されていたので、焼失前の姿に木造復元することが可能でした。
伊予松山城は現存する建物と復元された建物があることで、お城の防御の工夫がよく分かるお城になっています。
スポンサーリンク伊予松山城の歴史年表
室町時代初期 | 勝山に砦が築かれる |
---|---|
戦国時代 | 河野氏が湯築城を守るお城・砦として重要視していた |
1585 | 豊臣秀吉による四国攻め
河野氏は秀吉軍と戦い湯築城での籠城戦の末、降伏 |
1594 | 加藤嘉明が伊予に領地をもらい、松前城に入る |
1600 | 関ヶ原の戦い |
1601 | 伊予松山城の築城許可が下りる |
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1602 | 嘉明は伊予松山城の築城を開始 |
1603 | 嘉明が松前城から伊予松山城へ移る |
1627 | 嘉明は会津へ移り、蒲生忠知が城主に
二の丸が完成 |
1634 | 蒲生忠知が京都で病死する |
1635 | 蒲生忠知のあと、松平定行が城主に |
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1642 | 定行が五重天守を三重天守に作り替える |
1687 | 三の丸が完成する |
1784 | 落雷によって天守が焼失する |
1852 | 天守が再建される |
1870 | 三の丸が焼失する |
---|---|
1872 | 二の丸が焼失する |
1877 | 伊予松山城は陸軍の所管になり、二の丸・三の丸に施設が建てられていく |
1923 | 松平家が本丸を松山市へ寄贈 |
1933 | 放火によって小天守、南北隅櫓、多門櫓などが焼失 |
1935 | 天守など21棟が旧国宝に |
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1945 | アメリカ軍の空襲によって乾門などが11棟が焼失 |
1949 | 2度目の放火によって筒井門、東続櫓、西続櫓などが焼失 |
1958 | 馬具櫓を鉄筋コンクリートで再建する |
1968 | 小天守、南北隅櫓、多門櫓などが木造復元される |
1973 | 太鼓櫓が復元される |
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1979 | 天神櫓が復元される |
1982 | 乾門、東続櫓が復元される |
1984 | 艮門、東続櫓が復元される |
1986 | 巽櫓が復元される |
伊予松山城の歴史 まとめ
今回は「伊予松山城の歴史」を紹介しました。いかがでしたか?
伊予松山城の大きな特徴は多くの建物が残されていたことと、木造によって建物が復元されたこと。重要文化財の建物と復元された建物が組み合わさることで、お城の防御の工夫が体感的に理解できることが伊予松山城の魅力・面白さの一つになっています。写真ではわかりにくいので、ぜひ現地で体感して欲しいです。
最後にもう一度ポイントをおさらいしておきましょう。
- 秀吉家臣の加藤嘉明が伊予松山城を築き、松山の礎を築く
- 幕末に再建された天守は最も新しい現存天守
- 30棟もの建物が復元され、往時の雰囲気が味わえる