今回は「宇和島城の歴史」を紹介します。
- 宇和島城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 宇和島城へ行く前に予習しておきたい人
- 宇和島城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは宇和島城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントだけを押さえておいても歴史の流れは理解できます。
- 築城当初は板島丸串城と呼ばれていた
- 築城の名手・藤堂高虎の最初の居城が宇和島城
- 伊達政宗の孫・宗利が現在まで残る天守を建てる
宇和島城の歴史に詳しくなって、お城めぐりや歴史ドラマ・小説などももっと楽しんでいきましょう。
Contents
宇和島城ってどんなお城?
藤堂高虎設計のお城に伊達家の天守が残る宇和島城
愛媛県宇和島市の中心にある宇和島城。標高74mの丘をお城として利用していた宇和島城はかつては海に直接面している海城でもありました。
宇和島城を現在の形にしたのが秀吉・家康に仕えていて築城の名手と言われた藤堂高虎です。戦国時代末期に宇和島城(当時は板島丸串城)の城主になった高虎はお城を改修して、宇和島城で最初の天守を建てています。
現在の天守を建てたのが伊達政宗につながる宇和島伊達家です。伊達政宗から「伊達者」という言葉ができたように、伊達家が建てた現在の天守は、屋根の飾りの破風を巧みに配置して左右対象の均整のとれた美しい姿になっています。
戦後まで伊達家がお城を個人所有していたこともあって、明治以降の開発から免れて城跡そのものを堪能できるお城になっています。
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ここからは戦国時代〜昭和・平成までの宇和島城の歴史を紹介していきます。
戦国時代の宇和島城
築城当初は板島丸串城と呼ばれていた宇和島城
現在の宇和島城のある場所に最初にお城が建てられたのは平安時代。941年の藤原純友の乱が起きた際に、伊予国警固使を務めていた橘遠保とういう人が砦を築いたことに始まります。
戦国時代、この地を治めていたのは伊予(愛媛県)の戦国大名・西園寺氏の配下・家藤監物。この頃は宇和島ではなく、板島という地名で、お城は丸串城と呼ばれていました。家藤監物が城主を務めていた頃、キリシタン大名としても有名な大友宗麟によって丸串城は何度も攻められました。しかし家藤監物は守り切り、丸串城は落城しませんでした。
このあと、西園寺氏は四国統一を目指していた土佐(高知県)の長宗我部元親の攻撃を受けて降伏。そして長宗我部元親も豊臣秀吉の四国攻めを受けて降伏しました。秀吉の四国攻めの際に、西園寺氏は長宗我部側として秀吉軍に対抗するも、元親とともに降伏しています。
長宗我部元親は秀吉から土佐一国だけの領有が認められ、そのほかの土地は取り上げられてしまいます。丸串城のある地域は、毛利軍として秀吉の四国攻めに協力していた小早川隆景に与えられました。そして隆景は家臣の持田右京を城代として丸串城に入れています。
築城の名手・藤堂高虎の最初の居城に
丸串城のある伊予を治めていた小早川隆景も、秀吉の九州平定のあと筑前(福岡県)へ領地替えになって移っていきました。小早川隆景のあとは、戸田勝隆という人が治めていました。しかし戸田勝隆は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、朝鮮からの帰国途中に病死してしまいます。
戸田氏のあとにこの地を治めたのが築城の名手といわれた藤堂高虎でした。このときの高虎は高野山で引きこもっていました。高虎がそれまで使えていた豊臣秀長(秀吉の弟)、秀保(秀吉の姉の子)が相次いで亡くなってしまったので、亡き主君を弔うために高野山に入り髷(まげ)を切ったと言われています。
秀吉は高虎の武将としての実力を認めていたので、なんとか復帰してほしかった。秀吉からの再三の願いに応じて高虎は高野山を離れて、武将として復帰。秀吉によって高虎は大名に取り立てられ、伊予の丸串城を与えられました。
丸串城周辺は戸田氏の悪政もあって荒れ果てていて、お城の改修にはすぐに取り組めなかったと言います。城主になった翌年から5年がかりでお城を改修し、関ヶ原の戦いのあとに天守を完成させています。
秀吉の死後、徳川家康が次の天下人になると予想していた高虎は家康と親しくしていて、関ヶ原の戦いでも家康の東軍として参戦。結果、東軍の勝利で終わり、功績を認められた高虎は同じ伊予の今治へと移っていきました。
江戸時代の宇和島城
伊達政宗の長男・秀宗が宇和島藩を立ち上げる
徳川家康が大坂にいた豊臣氏を滅ぼした大坂の陣の後、伊達政宗の長男・秀宗が丸串城の城主になりました。
なぜ仙台の伊達政宗の長男が、遠く離れた四国・伊予のお城の城主になったのか?
それは秀宗が正宗の長男だったけど、側室の子だったからです。江戸時代まで大名は一夫多妻で一人の正室と複数の側室がいました。そして正室の子供が家を継ぐことがほとんどでした。秀宗は側室の子供だったけど、生まれた頃はまだ正室には子供がいなくて正宗の跡継ぎになる予定でした。しかしその後正室に子供が生まれたので、秀宗は跡継ぎではなくなってしまったのです。
そのほかにも、秀宗の「秀」の字は秀吉からもらったものだったし、秀宗は秀頼(秀吉の子)に仕えていたこともありました。そのため、徳川の時代に秀宗が仙台藩を継ぐことはふさわしくないとされました。
こうして正宗の仙台藩から分かれた秀宗は、宇和島藩を立ち上げました。この頃にそれまでの板島から宇和島へ、お城も丸串城から宇和島城と呼ばれるようになりました。
伊達政宗の孫・宗利が現在まで残る天守を建てる
秀宗の子で、正宗の孫にあたる宗利が宇和島城を大改修しています。この頃になると藤堂高虎が建てた天守が傷んできていました。高虎は天守の柱や梁などを古材を利用していて、腐食が早かったとされています。
この宗利が建てた天守が現在まで残されている宇和島城天守です。
宇和島城天守は鉄砲や弓矢で狙うための穴(狭間・さま)がないなど平和な時代の天守と言われますが、天守の窓の格子は鉄砲で左右に狙いやすいように五角形になっているし、窓の下には鉄砲を掛けておくための爪も取り付けられています。十分に戦闘を意識した天守でした。
このあと明治になるまで伊達氏が9代にわたって宇和島を治め、お城は大きな改修を受けることはありませんでした。
明治時代の宇和島城
堀が埋められ、かつての海城の面影が失われる
明治になって徳川の時代が終わると全国のお城は役目を終えて、政府より出された廃城令によって残すお城と取り壊すお城に分けられていきました。宇和島城は残すお城(存城)になって軍隊(兵部省)の管轄になります。
その後、宇和島城は旧藩主・伊達家に払い下げられ、戦後まで伊達家の個人所有のお城でした。
1900〜13年のあいだに、宇和島の港を整備するための改修工事によって、数回にわたって堀は埋め立てれていき、三の丸石垣、搦手門、黒門や櫓などが取り壊されて行きました。
かつては海に面していた宇和島城もこの改修工事によって海城の面影はなくなりました。
昭和・平成の宇和島城
旧藩主伊達家から宇和島市へ寄贈され、城山公園に
昭和に入ると天守と追手門が旧国宝に指定されて、本丸や二の丸などの城跡が国の指定史跡になりました。
しかし太平洋戦争での空襲によって旧国宝だった追手門が焼失しています。
戦後になると、天守と城跡の大半が伊達家から宇和島市へ寄贈されました。その後、天守の修復工事が行われたりして、1967年には宇和島城は城山公園として整備され一般に開放されました。
平成に入ってもたびたび修復工事が行われていて、1994年からは石垣の修復工事が行われ、このときは本丸や二の丸の石垣が修復されました。
スポンサーリンク宇和島城の歴史年表
941 | 藤原純友の乱のときに、橘遠保が砦を築く |
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1532〜70 | 家藤監物が大友氏の侵攻を防ぐ |
1575 | 西園寺宣久が城主になる |
1584 | 西園寺公弘が長曾我部元親の攻撃を受けて降伏 |
1585 | 豊臣秀吉の四国攻めで長曾我部元親は降伏 丸串城は小早川隆景のお城になり、家臣・持田右京を城代として入れる |
1587 | 丸串城は戸田勝隆の領地となり、戸田信家が城主に |
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1595 | 藤堂高虎が丸串城の城主に |
1596 | 高虎は丸串城の改修を開始 |
1601 | 高虎の天守が完成 |
1608 | 冨田信高が城主に |
1613 | 信高は領地没収となり、幕府の直轄地になる 藤堂高虎が代官になり、藤堂良勝が城代として治める |
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1615 | 伊達秀宗が城主に この頃から宇和島と呼ばれるようになる |
1662 | 伊達宗利が老朽化したお城の改修を開始 |
1670 | 現在まで残る天守が完成 |
1671 | 宇和島城の改修工事が完了 |
1871 | 宇和島城は軍隊(兵部省)の管轄になる |
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1890 | 城地が旧藩主伊達家に払い下げられる |
1900〜13 | 堀が埋め立てられ、海城の面影がなくなる |
1934 | 天守と追手門が旧国宝に |
1937 | 本丸・二の丸などの城跡が国の指定史跡に |
1945 | アメリカ軍の空襲によって追手門が焼失 |
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1949 | 天守と城地の大半が伊達家から宇和島市へ寄贈される |
1960〜62 | 天守の修復工事が行われる |
1963 | 南側の登城口にある上り立ち門が市の指定文化財に |
1966 | 三の丸にあった山里倉庫(武器庫)が伊達家より譲渡され、藤兵衛丸に移築され、城山郷土館になる |
1967 | 宇和島城は城山公園として整備される |
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1994 | 本丸や二の丸の石垣の修復工事が行われる |
宇和島城の歴史 まとめ
今回は宇和島城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
宇和島城は築城の名手と言わている藤堂高虎の最初の居城でした。高虎はこのあと今治、津、伊賀上野城を居城として築き、名古屋・大坂城の工事にも携わっていきました。明治から昭和まで伊達家所有だったこともあり、お城の中心部は開発から免れて残されています。高虎の原点とも言えるお城を堪能できるお城です。
現在の宇和島城は、高虎が設計した縄張りに伊達家の天守が建てられているお城になっています。
最後にもう一度宇和島城のポイントを整理しておきましょう。
- 築城当初は板島丸串城と呼ばれていた
- 築城の名手・藤堂高虎の最初の居城が宇和島城
- 伊達政宗の孫・宗利が現在まで残る天守を建てる