お城の歴史

お城の歴史 大正・昭和前期 お城の再建は戦前から始まっていた!戦争で失われたお城

お城の歴史 大正・昭和前期編

今回はお城の歴史「大正・昭和前期」をお届けします。

前回の記事につづきお城好きには辛い時代が続きます。

明治維新後の「廃城令」を生き残ったお城たちを第2次世界大戦・太平洋戦争の戦火が襲います。
当時国宝だった名古屋城天守をはじめ全国のお城・天守をはじめ櫓や門などが焼失してしまいました。

また、現在は名古屋城天守再建のように、お城の建物だったり堀や石垣などを建て直して復元しようという計画が全国各地でありますが、お城の復元が始まったのは明治時代からでした。
この時期に再建された天守のなかには現在重要文化財にしていされているものもあります。

この記事では下記↓について解説しています
  • 戦前にも再建されたお城があった!
  • 昭和天皇の即位記念として再建された大阪城天守
  • 空襲によって被害をうけたお城
  • 原爆で吹き飛ばされた広島城と壊滅した首里城
  • 大炎上した名古屋城
  • 奇跡的に助かった姫路城

ではさっそく、お城の歴史「大正・昭和前期」を見ていきましょう。

Contents

戦前にも再建されたお城があった!

戦前に再建された郡上八幡城の模擬天守戦前に再建された郡上八幡城の模擬天守

現在は名古屋城天守の再建計画をはじめ、全国で天守や櫓・門などが再建されたり模擬天守が建てられたりしていますが、最初に天守が再建されたのは今から100年以上前、1906年(明治39年)にまでさかのぼります。

明治以降に最初に天守台(天守を建てるための石垣)の上に建てられた建物は甲府城(山梨県)でイベントのために建てられた仮設の模擬天守でした。(模擬天守とは、以前にあった天守とは姿形が違う天守のこと)

では常設で再建された最初の天守はどこでしょうか?
それは1910年(明治43年)に再建された岐阜城天守でした。岐阜城が廃城となってから410年ぶりの天守の復活でした。
(現在の岐阜城天守は1956年(昭和36年)に建てられたもの)

岐阜市の観光協会が長良川橋の解体で出た廃材を買い取り、それを岐阜城天守の再建のために使用。
木造で高さ約15m、3層3階で屋根はトタンでした。
再建後約1年間のあいだに、来場者が約5万人だったと伝わっています。
(その後、当時の天守は1943年(昭和18年)の失火によって焼失)

1933年(昭和8年)には木造4重5階模擬天守として郡上八幡城(岐阜県)が、1935年(昭和10年)には同じく木造で伊賀上野城(三重県)が再建されています。

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昭和天皇の即位記念として再建された大阪城天守

大阪城の天守大阪城天守

現在の大阪城天守は19030年(昭和5年)から昭和天皇の即位を記念して約1年かけて再建。
約270年ぶりの3代目天守となりました。

再建された天守は「大坂夏の陣図屏風」などを参考にし、豊臣秀吉時代の天守をできるだけ再現しようと計画されました。
しかし、天守台が大坂夏の陣のあと、江戸幕府によって建て直されたもので豊臣秀吉時代のものとは位置も大きさもことなるものです。

大坂夏の陣図屏風の大坂城大坂夏の陣図屏風の大坂城

そのため、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守がのるという豊臣・徳川の「ハイブリッド天守」となりました。

豊臣・徳川の両天守は短命におわりましたが、現在の3代目天守はもっとも長命の天守となり、1997年にはコンクリート造の天守ながら国の登録有形文化財に指定されました。

再建中の大阪城天守再建中の大阪城天守
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空襲によって被害をうけたお城

戦後に外観復元された大垣城天守戦後に外観復元された大垣城天守

太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲によって日本全国の都市は壊滅的な被害をうけ、子供をふくむ多くの人が犠牲になりました。

明治時代の廃城令を生き延びてきたお城も例外ではなく大きな被害をうけました。
天守や櫓、門などの建築物が残っていたお城のほとんどは各都市の中心部にあり、爆弾投下の標的とされることもありました。

空襲の被害をうけた天守でも7つにのぼり、水戸城(茨城県)、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、和歌山城(和歌山県)、岡山城(岡山県)、福山城広島城(広島県)の7天守が焼失または倒壊。
そしてこの7天守はすべて旧国宝(1950年制定の文化財保護法以前は「国宝」と「重要文化財」の区別がなく、すべて国宝とされていた)に指定されていました。

下記の表に戦争で被害をうけたお城をまとめました。(🏯マークは旧国宝に指定されていた建物です。)

お城の名前 被害をうけた建物(焼失・倒壊など)
仙台城(宮城県) 大手門🏯、大手門隅櫓🏯、二の丸表舞台楽屋、三の丸巽門
水戸城(茨城県) 御三階櫓🏯
江戸城(東京都) 大手門
名古屋城(愛知県) 大天守🏯、小天守🏯、本丸御殿🏯、東北隅櫓🏯、表一の門🏯、

東一の門🏯、東二の門🏯、不明門🏯、正門🏯

大垣城(岐阜県) 天守🏯、艮櫓🏯
大阪城(大阪府) 二番櫓、三番櫓、伏見櫓、坤櫓、京橋口多聞櫓
和歌山城(和歌山県) 大天守🏯、小天守🏯、北西隅櫓🏯、西南隅櫓🏯、楠門🏯、

北東多聞🏯、北西多聞🏯、西多聞🏯、南多聞🏯、東倉庫🏯、

西倉庫🏯

岡山城(岡山県) 天守🏯、石山門🏯
福山城(広島県) 天守🏯、湯殿🏯
広島城(広島県) 天守🏯、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸平櫓、

多聞櫓、太鼓櫓

高松城(香川県) 三の丸桜御門
徳島城(徳島県) 鷲の門
松山城(愛媛県) 天神櫓🏯、馬具櫓🏯、太鼓櫓🏯、巽櫓🏯、乾櫓🏯、

乾門東続櫓🏯、太鼓門🏯、太鼓門続櫓🏯、乾門西塀🏯、

太鼓門東塀🏯、太鼓門西塀🏯

宇和島城(愛媛県) 追手門🏯
府内城(大分県) 大手門
首里城(沖縄県) 正殿🏯、守礼門🏯、歓会門🏯、瑞泉門🏯、白銀門🏯

 

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原爆で吹き飛ばされた広島城と壊滅的な被害をうけた首里城

広島城天守広島城天守

 

太平洋戦争中、お城のなかでもとくに大きな被害をうけた広島城首里城

広島城は1945年(昭和20年)8月6日に投下された原爆で、首里城は沖縄戦でのアメリカ軍の軍艦からの砲撃によって破壊されました。

広島城は旧国宝であった天守をはじめとして、東走櫓、中御門、表御門などが失われました。
広島城は爆心地(原爆ドーム付近)から約1㎞離れていましたが、天守は爆風によって柱が折れ、天守自体の重さを支えきれず倒壊。
城内の樹木などもすべて焼かれてしまいました。

首里城は正殿、守礼門、歓会門、瑞泉門、白銀門と多くの建物や城門が焼失し、一部の石垣を除いてほぼ完全に破壊し尽くされた。
首里城はアメリカ軍の軍艦からの艦砲射撃の目標とされ、約20万発といわれる砲弾の雨をうけました。
首里城の地下には日本軍の司令部があり、そのため首里城が艦砲射撃の目標とさてしまいました。
戦闘終了後、首里城一帯には砲撃によってできた穴が一面にできていたといいます。

大炎上した名古屋城天守

大炎上する名古屋城天守大炎上する名古屋城天守(背景は暗いけど午前中に撮影されたもの)

全国でお城が被害をうけていく中、名古屋城天守焼失のようすはよくわかっています。

1945年(昭和20年)5月14日、名古屋市を標的とするアメリカ軍の爆撃機が侵入。
午前8時頃に第1波、約20分後に第2波と焼夷弾(落下後、オイルをまき目標を炎上させる爆弾)を投下し、通過していきました。

当時、名古屋城では大天守の金鯱(きんしゃち)を避難させるために、足場を組んでいました。
しかし、第2波の焼夷弾がこの足場に引っかかってしまい、そこで発火。
名古屋城天守は瓦は銅板で作られていて、壁は漆喰(しっくい)と耐火性はそなえていました。しかし、天守へと落下してきた焼夷弾の爆風で運悪く天守の窓が開き、その窓から内部へ引火。天守が大炎上し、2時間にわたって燃え続けたといいます。

足場を設置したのは空襲の2日前のことで不運が重なった出来事でした。

また焼け跡から、金鯱がドロドロにとけた後冷えてカタマリとなっていた金塊が見つかったそうです。

名古屋城天守が炎上した際の熱で割れてしまった石垣名古屋城天守が炎上した際の熱で割れてしまった石垣

奇跡的に助かった姫路城

黒い網をかけられた姫路城天守黒い網をかけられた姫路城天守

姫路城がある姫路市も他の都市と同様、空襲による被害を受けました。
姫路市には陸軍の部隊がおり、航空機やその他軍需物資を製造する工場がありました。そのためアメリカ軍の標的となりました。

白亜の天守がシンボルの姫路城。
空から見たとき、白くてよく光を反射する姫路城は格好の標的となってしまいます。

そのため、見えづらくするため黒い網で天守をはじめとして城内の主な建物を覆っていきました。

その後、姫路市は2度空襲を受けています。1945年(昭和20年)6月22日と7月3日です。

7月の空襲では市街地にも無差別に焼夷弾が落とされた。このとき、姫路城へも焼夷弾は落ちていて、かつての三の丸に建てられていた中学校校舎が全焼。そして、大天守にも焼夷弾が1発命中しています。

大天守は焼夷弾の命中をうけながらもなぜ助かったのか?
それは奇跡的にその1発が不発だったから!

空襲の翌日、大天守・最上階の屋根を突き破って6階に突き刺さっていた焼夷弾が発見され、すぐに撤去されたことで難を逃れました。

アメリカ軍の爆撃目標地域に姫路城もふくまれていて、姫路城は強運によって助かったお城でした。

参考資料