今回は「会津若松城の歴史」を紹介していきます。
- 会津若松城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 会津若松城へ行く前に予習しておきたい人
- 会津若松城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは会津若松城の歴史のポイントを3つ紹介します。
- 蒲生氏郷がお城を改修し、石垣・天守を築く
- 加藤嘉明・明成が地震で傾いた天守を立て直す|この天守が幕末まで残る
- 新政府軍の攻撃を1ヶ月耐えた松平容保と会津若松城
この記事で会津若松城に詳しくなって、観光も歴史ドラマも楽しんでいきましょう!
Contents
会津若松城とはどんなお城?
まず会津若松城はどんなお城なのかをまとめました。
大河ドラマ「八重の桜」の舞台になったお城
2013年に放送された大河ドラマ「八重の桜」は会津を舞台にしたドラマです。
綾瀬はるか演じる山本八重(のちに新島八重)は女性でありながら、幼い頃より鉄砲に興味があり、会津戦争では会津若松城に立てこもる兵士となり奮闘していきました。
会津若松市で毎年9月に行われている「会津まつり」に、綾瀬はるかは2014年より6年連続でゲストとして大名行列に参加しています。
防御力は歴史が証明済|東北地方の名城
天守のあるお城は江戸時代に入ってから建てられたものがほとんど。なので、実際に戦闘を経験したお城はわずかしかありません。
会津若松城は幕末・明治維新にかけて起きた戊辰戦争のなかの会津戦争(会津若松城の戦い)を経験しています。
お城の基本設計や建物は江戸時代初期(会津戦争より約200年前)に考えられ築かれたものでした。
江戸時代初期より性能の良い武器(鉄砲・大砲)で攻められたにも関わらず、会津若松城は1ヶ月の攻防戦に耐え、敵を一人も城内へ侵入させない防御力を発揮しています。
東北最大の天守が建てられていた会津若松城
東北地方は西日本と比較すると天守のあるお城は少なかった。
現存する天守は弘前城(青森県)のみで、幕末の時点で残っていたものは弘前城のほか、会津若松城と盛岡城だけだった。盛岡城の天守も三重櫓を天守代用としていたもので、そのほかのお城も三重櫓を天守の代わりとしていました。
天守の少ない東北地方にあって会津若松城の天守は最も大きな天守でした。
蒲生氏郷が建てた初代天守は七重の屋根を持つ天守だったと言われていて(姫路城大天守は五重天守)、幕末まで残っていた2代目天守は五重天守で高さは36m(石垣高さ約12mを含む)でした。
スポンサーリンク会津若松城の歴史
ここからは室町時代〜昭和・平成までの会津若松城の歴史を紹介していきます。
戦国時代の会津若松城
相模(神奈川県)出身の蘆名氏が会津にお城を築く
会津若松城の歴史は蘆名(あしな)氏が会津にお城を築いたことから始まります。
蘆名氏はもともと相模国(神奈川県)にいた武士でした。
鎌倉幕府を創設した源頼朝が東北地方を支配した際に、蘆名氏の祖先・佐原義連は会津を与えられています。義連の孫・光盛のときに蘆名郷に住んでいたことから「蘆名」を名乗るようになっていきます。
鎌倉幕府滅亡後、7代目蘆名直盛のときに会津へ来て、「東黒川館」を築きました。その後東黒川館は蘆名氏の会津支配の中心地になっていきます。
会津の戦国大名蘆名氏の本拠・黒川城
時代が戦国時代になると蘆名氏は16代目蘆名盛氏のときに黒川城(東黒川館)を本拠地に最盛期を迎えています。
しかし盛氏の跡を継いだ子の盛興が病弱で子供がいないままなくなってしまい、後継者を巡って内紛へ発展。
蘆名氏の内紛に乗じて勢力を伸ばしたのが伊達政宗でした。伊達政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を破り黒川城を手に入れています。
黒川城を手に入れた伊達政宗も1年後には、天下統一を果たした豊臣秀吉によって会津地方を取り上げられてしまいます。
蒲生氏郷が石垣と天守のあるお城に改修
秀吉が伊達政宗から会津を取り上げ、代わりに蒲生氏郷へ会津を預けました。蒲生氏郷とは織田信長、秀吉に仕えた戦国大名。信長は早くから氏郷の才能を見抜いて、自分の娘を氏郷へ嫁がせていました。
秀吉に従うようになってまだ日が浅い伊達政宗など東北地方の大名の監視・押さえとして、氏郷に会津を預けました。
氏郷は蘆名氏が本拠地としていた黒川城を大改修し、石垣と天守のあるお城にしました。現在も残っている天守台石垣は、氏郷によって築かれました。
お城の名前は黒川城から変更されて、氏郷の幼名「鶴千代」と蒲生家の家紋「舞鶴」にちなんで、「鶴ヶ城」と名付けられました。
そして氏郷は黒川の地を「若松」へと名を改めています。
関ヶ原の戦いの原因になった上杉景勝と会津若松城
氏郷は40歳という若さで亡くなっていしまいます。跡を継いだ子の秀行はまだ幼く、家臣たちの対立を招いてしまいました。この対立がお家騒動へ発展。騒動の結果、秀行は会津から宇都宮へ移されています。
蒲生秀行のあとに会津を任されたのが上杉景勝。景勝は上杉謙信の養子で、上杉家を継いだ人物でした。
景勝は氏郷の会津若松城(鶴ヶ城)をやめて、新たに神指(こうざし)城の築城を開始していました。
しかし神指城の築城などをめぐって、景勝は徳川家康と対立するようになり、家康による上杉討伐(会津討伐)へと発展していきました。この上杉討伐の最中に大坂で石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いへと繋がっていきます。
関ヶ原の戦いで家康が勝利したことで、景勝は会津を没収されてしまいました。
江戸時代の会津若松城
加藤嘉明・明成が城を改修|幕末まで残る天守を築く
上杉景勝の後、再び蒲生秀行に会津が与えられました。蒲生氏の時代はそれほど長くは続かず、26年余りで終わります。
蒲生氏の後に会津へ入ってきたのが、加藤嘉明。加藤嘉明は加藤清正や福島正則らと一緒に秀吉のもとで活躍した「賤ヶ岳七本槍」の一人です。
加藤嘉明は領内の整備に尽力していきました。嘉明の子・明成の代になると会津若松城の大改修を始めます。
現在も本丸の北側と西側に残る西出丸・北出丸を築き、会津地震で傾いた天守を解体して作り直しました。
天守の再建では、七重だった天守を五重天守へとサイズダウンしています。大きな七重天守用の天守台に一回り小さな五重天守を建てているので、石垣の隅ギリギリに天守がたてれているわけではありません。土塀が建てられ、その内側に天守が建てられる形になっています。
その後、加藤明成は会津騒動というお家騒動を起こしていて、家臣の堀主水(ほりもんど)と対立。騒動を起こした責任と病気であることを理由に、明成は幕府へ領地返上を申し出て改易されています。
松平家が幕末まで会津を治める
加藤明成の後、会津を治めたのは3代将軍徳川家光の弟・保科正之です。
保科正之から9代目松平容保まで、松平家が約220年間にわたって会津を治めていきます。
松平家3代目の正容のとき、幕府より松平姓と徳川家の家紋である葵紋の使用を認めらました。これ以降は保科から松平を名乗っていきます。
松平家と会津藩は藩祖・保科正之が残した家訓「大君(将軍)の義、一心大切に忠勤に存ずべく」を守っていきました。そして幕末には幕府とともに運命を共にしていきます。
幕末の会津若松城
会津戦争を1ヶ月耐えた松平容保と会津若松城
ペリーの来航以降、世の中は尊皇攘夷派と開国派で意見が割れていました。そして京都では過激派志士が集まり、治安が悪化していました。治安悪化を食い止めるために「京都守護職」という役職が作られ、会津藩藩主・松平容保が任命されました。
京都守護職となった会津藩と松平容保は京都で倒幕派の薩摩・長州藩と対立。大政奉還・王政復古の大号令を経て、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まっていきます。この時、薩摩・長州藩は「朝敵(朝廷・天皇の敵)」として将軍徳川慶喜と松平容保を指名しました。
江戸城無血開城を経て、新政府軍(薩摩・長州)は会津へと迫っていました。会津藩は東北諸藩と同盟を結び対抗していきます。(奥羽越列藩同盟)
新政府軍は母成峠の戦いを経て、会津若松城を囲み攻撃を加えていきます。新政府軍は小田山の頂上から大砲で昼夜にわたって攻撃を加えていきました。
新政府軍の攻撃を受けながらも1ヶ月耐えていた会津若松城。しかしながら同盟相手だった仙台・米沢藩が降伏したことを受けて、会津藩も降伏します。
明治の会津若松城
旧藩士のために取り壊された会津若松城天守
明治維新後の廃藩置県によって若松県が誕生し、会津若松城の本丸に県庁が置かれています。
この時の会津若松城は会津戦争で被害を受けていたものの、燃えたりしてはいなかったので天守をはじめとする建物は残っていました。
若松県令の沢簡徳は「若松城は砲撃で相当痛んでいて、取り壊して陸軍の部隊を置いたほうが費用を省くだけでなく、傷んだ城を見て心を痛める旧会津藩士たちの悲壮感を消すことができる」と政府に会津若松城の取り壊しを提言しています。
この提言を受けて、天守をはじめとする建造物は取り壊されたり、城外へ移築されました。
昭和・平成の会津若松城
建物の復元・発掘調査が進む会津若松城
大正から昭和にかけて会津若松城を所有していた松平家から会津若松市に譲渡されました。
会津戦争から約100年後の1965年に、天守・鉄門(くろがねもん)・走長屋が外観のみ再建されています。明治初期に撮影された古写真をもとにして忠実に外観復元を行いました。
城内の発掘調査も行われていて、加藤明成によって改修される以前の石垣や、蒲生氏郷時代の金箔瓦などが発見されています。
2001年には本丸にある干飯櫓や南走長屋も復元され、2011年には天守の瓦を黒い瓦から赤い瓦へと葺きかえる工事も行われました。
発掘調査によって幕末の頃の天守には釉(うわぐすり)を塗った赤瓦が使用されていたことが判明。赤瓦を使用することで冬の寒さによって瓦が割れてしまうのを防ぐ効果がありました。調査結果に基づいて、再建された天守でも黒い通常の瓦から赤瓦へと変更されました。
スポンサーリンク会津若松城の歴史年表
1189 | 佐原義連が源頼朝より会津を与えられる |
---|---|
1384 | 蘆名直盛が東黒川館を築く |
1589 | 伊達政宗が蘆名義広を破り、黒川城を手に入れる |
1590 | 奥州仕置によって、蒲生氏郷が会津へ入る |
1592 | 蒲生氏郷がお城の改修を開始 |
1593 | 蒲生氏郷の七重天守が完成 |
---|---|
1598 | 上杉景勝が会津若松城へ入る |
1600 | 関ヶ原の戦い後、上杉景勝は米沢へ移る。 蒲生秀行が再び会津に移る |
1611 | 会津地震によって石垣が崩れて、天守が傾く被害を受ける |
1627 | 加藤嘉明が会津若松城へ入る |
1639 | 加藤明成によって天守が再建され、西出丸・北出丸が築かれる |
---|---|
1643 | 保科正之が会津若松城へ入る |
1696 | 幕府より松平姓と葵紋を授かる |
1862 | 松平容保が京都守護職に任じられる |
1868 | 8月23日、新政府軍が会津若松城下へ侵入 9月22日、会津若松城開城 |
1873 | 明治政府により存城処分になる |
---|---|
1874 | 天守をはじめ建物すべてが取り壊される |
1965 | 古写真をもとに天守・鉄門・走長屋が外観復元される |
1990 | 茶室「麟閣」が本丸の元の位置に移築復元される |
2001 | 本丸の干飯櫓、南走長屋が復元される |
2011 | 天守の瓦を赤瓦へ葺きかえられる |
会津若松城の歴史 まとめ
今回は「会津若松城の歴史」を紹介しました。いかがでしたか?
今回紹介した会津若松城の歴史を知っておくことで、観光や歴史ドラマも楽しむことができます。
最後にもう一度ポイントをまとめておきます。
- 蒲生氏郷がお城を改修し、石垣・天守を築く
- 加藤嘉明・明成が地震で傾いた天守を立て直す|この天守が幕末まで残る
- 新政府軍と1ヶ月耐えた松平容保と会津若松城
お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう。