お城の歴史

阿波蜂須賀25万石の【徳島城の歴史】を総まとめ

徳島城の歴史

今回は「徳島城の歴史」を紹介していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 富山城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 富山城へ行く前に予習しておきたい人
  • 富山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

最初に徳島城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントのところだけ読んでも歴史の流れは掴めます。

  • 秀吉家臣の蜂須賀家政が徳島城を築城
  • 蜂須賀氏が280年治めた水運の街・徳島
  • 戦災で失われていた鷲の門が復元された

お城めぐりも歴史小説・ドラマも背景の歴史を知っておくと、より一層楽しむことができます。この記事で徳島城の歴史に詳しくなって、もっと楽しんでいきましょう。

徳島城の場所徳島城の場所

徳島城ってどんなお城?

阿波踊り発祥とも言われる徳島城

阿波踊り阿波踊り

徳島県の県庁所在地・徳島市にある徳島城。徳島城は市内中心にある城山とよばれる丘とその周辺の平地に築かれた平山城。

さらに、徳島城は吉野川から分流する助任川、福島川、新町川、寺島川を外堀として利用した堅固なお城でした。

そして徳島城は阿波踊りの発祥とも言われています。戦国時代、徳島城を築いていた際に蜂須賀家政が工事にたずさわっていた人々や城下の民衆にもお酒を振る舞って労ったといいます。これを人々は喜んで踊りました。ここから阿波踊りが始まったと言われています。

これから阿波踊り発祥とも言われる徳島城の歴史を紐解いていきましょう。

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徳島城の歴史

ここからは徳島城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。

戦国時代の徳島城

秀吉家臣の蜂須賀家政が徳島城を築城

徳島城の構造徳島城の構造

徳島県はもともと阿波国と呼ばれていました。戦国時代には三好氏が阿波を領有していました。しかし実力を付けてきた土佐(高知県)の長宗我部氏が四国統一を目指して阿波へ侵攻。この結果、阿波は長宗我部氏の支配下になってしまいます。

天下統一を進めていた豊臣秀吉はたびたび敵対してくる長宗我部氏を成敗しようと考えていました。当初は秀吉も長宗我部氏と和解して、領土分配などを交渉していましたが、結局は交渉決裂。秀吉は四国の長宗我部氏を攻めていきました。秀吉軍は近畿・中国地方から阿波・讃岐・伊予へと多方面から同時に攻めていきます。これには長宗我部氏も対応しきれず、秀吉に降伏。長宗我部氏は土佐のみの領有を認められ、阿波、讃岐、伊予は取り上げられてしまいました。

秀吉の四国攻めのあと、阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政に与えられました。

蜂須賀家政の父・蜂須賀正勝はもともと尾張の土豪・地侍でした。正勝は織田信長の家臣になると、秀吉と共に行動するようになります。正勝は秀吉の若い頃から共に成長していった武将でした。秀吉は当初、阿波を正勝に与えようと考えていたけど、正勝は老齢を理由にこれを辞退。そのため秀吉は息子の家政へ阿波を与えました。

家政は当初、阿波で一番大きな山城・一宮城(徳島市)を本拠地にと考えていました。けれど秀吉の命もあって、新しくお城を築くことにします。これが徳島城です。

家政は渭山(いのやま、現在の城山)を築城場所に決定。渭山にはもともと渭山城があり、麓には寺島城が築かれていました。家政は渭山城と寺島城の二つを取り込むようにして、徳島城を築きました。さらに家政はお城を徳島城と命名し、地名も徳島と呼ぶようにしています。

江戸時代の徳島城

蜂須賀氏が280年治めた水運の街・徳島

徳島城の舟入徳島城の舟入

蜂須賀氏は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方して、引き続き阿波の領有を家康から認められます。そして家康が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣で、蜂須賀氏は戦功を上げて阿波に加えて淡路島も与えられました。以後、明治時代になるまで阿波と淡路を蜂須賀氏が治めていきます。

徳島城の城下町には水軍に関する施設や屋敷が集められた「水軍町」が作られていました。水軍基地は「安宅」と呼ばれていて、三好氏の家臣・安宅氏に由来しています。水軍町には船を操る「水主(かこ)」の屋敷や、船の建造・修理を行う船大工町もありました。

江戸時代には外国へ行けるような大きな船を持つことは幕府によって禁じられています。けれど水運は重要な交通手段で、徳島藩では参勤交代のための移動手段として重用されていました。

城下に船倉には100艘を超える船があったと言われ、徳島は水運の街だったことがわかります。なお徳島市には安宅など水軍に関する地名が残されています。

明治時代の徳島城

日露戦争の戦勝記念として整備された徳島公園

徳島城の水堀と石垣徳島城の水堀と石垣

明治時代になると政府から廃城令が出されて、全国のお城にある建物が取り壊されていきました。徳島城も例外ではなく、鷲の門を除いてすべての建物が取り壊されています。

お城としての役目を終えていた徳島城だったけど、のちに公園として整備されました。1905年に日本がロシアと戦った日露戦争の戦勝記念として、徳島城跡が整備されて徳島公園(現在の徳島中央公園)として一般に開放されることになりました。

また1907年に皇太子(のちの大正天皇)行幸で徳島へやってきています。そのために表御殿が建てられていた場所に宿泊施設として千秋閣という建物が建てられました。ちなみに皇太子(のちの大正天皇)は3泊しています。

この千秋閣はのちの昭和天皇も1922年に滞在しています。

昭和・平成の徳島城

戦災で失われていた鷲の門が復元される

徳島城の天守跡徳島城の天守跡

昭和になって1941年に表御殿脇にある「旧徳島城表御殿庭園」が国の名勝にしていされました。この庭園は、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗者となっていた茶人であり武将だった「上田宗箇(そうこ)」を蜂須賀家政が徳島に招いて作庭させたもの。桃山様式を伝える庭園として貴重と判断されて名勝に指定されました。

太平洋戦争中は徳島でも空襲の被害にあっていて、徳島城内の建物・千秋閣などや唯一現存していた鷲の門も焼失してしまいました。

戦後は、城内に体育館などが建てられて公園として市民の憩いの場として活用されています。1992年には御殿建築を模した徳島城博物館が開館しました。

徳島市制100周年を記念して、市民などの寄付によって1989年に戦災で焼失していた鷲の門が復元されています。

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徳島城の歴史年表

戦国時代 渭山城と寺島城があった
1985 豊臣秀吉による四国攻め
長宗我部元親は秀吉に降伏して土佐のみ領有を認められる
蜂須賀家政が秀吉より阿波を与えられ、渭山に築城を開始
1586 徳島城が完成する
1588 本丸に天守が築かれる
1615〜24 本丸の天守が取り壊され、東二の丸に代用天守(御三階櫓)が建てられた
1873 廃城令が政府より出される
1875 廃城令によって、鷲の門を除くすべての建物が取り壊される
1905 日露戦争の戦勝記念として徳島城を公園として整備開始
1907 千秋閣が建てられ大正天皇(当時皇太子)が滞在
1910 徳島公園(現在の徳島中央公園)が一般に開放される
1922 昭和天皇(当時皇太子)が千秋閣に滞在
1941 表御殿庭園が国の名勝に指定される
1945 徳島空襲で鷲の門や千秋閣などが焼失
1989 市制100周年を記念して鷲の門が復元された
1992 徳島城博物館が開館
2006 徳島城跡が国の史跡に指定される
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徳島城の歴史 まとめ

今回は徳島城の歴史を紹介しました。 いかがでしたか?

徳島城は秀吉家臣の蜂須賀家政によって築城され、明治時代まで蜂須賀氏が治めていました。さらに徳島は江戸時代に水運が発達した海洋都市になっていきました。

現在の徳島城跡には現存している建物はないけれど、復元された鷲の門や表御殿庭園、そのほか石垣や水堀などが当時の姿を今に伝えてくれています。また徳島中央公園は桜の名所として親しまれています。

最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 秀吉家臣の蜂須賀家政が徳島城を築城
  • 蜂須賀氏が280年治めた水運の街・徳島
  • 戦災で失われていた鷲の門が復元された

みんながお城めぐりを楽しめたら幸いです。

徳島城へのアクセス

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