今回は「箕輪城の歴史」を紹介します。
箕輪城の歴史をおおまかに知りたい人
お城に興味を持ち始めた人
箕輪城へ行く前に予習しておきたい人
箕輪城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは箕輪城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも、歴史の概要はつかめます。
- 上野国の国衆・長野氏によって築城される
- 箕輪城の戦いで武田信玄によって箕輪城は落城
- 織田・北条・徳川のお城になり、江戸時代を前に廃城に
お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。
この記事で箕輪城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。
Contents
箕輪城ってどんなお城?
武田信玄を苦しめた長野業正のお城
群馬県高崎市にある箕輪城。
箕輪城は国の史跡にも指定されていて、100名城にも選ばれています。
1500年代初期に上野国(こうずけ、現在の群馬県)の国衆(国人領主)である長野氏によって築城。
上野国は相模の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏という大きな戦国大名のそれぞれの思惑が重なる場所でした。
長野氏は箕輪城で生き残りをはかっていきます。
箕輪城は西側に川、南側を沼に守られた平山城でした。
大規模な土塁や空堀、堀切で曲輪を守っていて、現在も遺構が残っています。
徳川時代には徳川四天王のひとり、井伊直政が城主を務めていたことから箕輪城が重要だったことがわかります。
箕輪城の本丸の様子です(Googleマップ)⬇️
スポンサーリンク箕輪城の歴史
戦国時代の箕輪城
上野国の国衆・長野氏が箕輪城を築城
箕輪城が築城されたのは1500年代前半。武田信玄(1521年生まれ)や北条氏康(1515年生まれ)などが誕生した頃に、上野国の国衆(国人領主)の長野尚業(なおなり)によって1512年に築城されました。(尚業の息子・憲業(のりなり)が1526年に築城したという説もあり)
長野氏で一番有名なのが「長野業正(なりまさ)」
業正は憲業の息子、尚業の孫にあたる人で、1500年代前半には長野氏の当主となっていて箕輪城の城主になっていました。
業正は「上州の黄斑(虎のこと)」と呼ばれる武将で、周辺の武士をまとめて「箕輪衆」を結成していました。また業正には「長野十六槍」とよばれる有能な家臣もいました。
武田信玄はたびたび業正の箕輪城を攻めていたけど、なかなか上手くいきませんでした。
そして信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることができない」と言っていたといいます。
長野業正は武田・北条と大きな戦国大名のあいだに挟まれながらも、なんとか生き延びていました。
そして上杉謙信が越後から関東へ出兵してくると、業正は謙信の味方となり北条氏康と戦っていきます。
しかしそこからまもなく業正は亡くなってしまいます。
武田信玄VS長野業盛ー箕輪城の戦い
業正が亡くなった後、三男の業盛が継いでいます。
業正の死は他国へは伏せられていたけど、やがて武田信玄の知るところとなり、武田軍が上野へやってきました。
信玄は上杉謙信と川中島で何度も戦っていたけど、決着をつけることはできませんでした。
そこで方針転換して、信玄は信濃から上野を攻めていくことに。
信玄が上野に侵攻すると、和田城・安中城・倉賀野城など箕輪城周辺のお城が攻略されていきます。
そうすると、箕輪城は味方の厩橋(うまやばし、現在の前橋)との連絡を分断されてしまい、孤立状態になってしまいました。
倉賀野城が落城した翌年、ついに信玄が2万の兵をつれて出陣。箕輪城へと迫ってきます。
業盛は箕輪城のまわりの支城を使って、武田軍をくい止める作戦をとりました。
しかし支城は次つぎに落城。支城の一つ・鷹留城を守っていた長野業通(なりみち)は城を出て若田原で合戦に臨んでいます。
若田原の戦いで長野軍は兵士の数で優る武田軍に善戦。しかし兵数の差を埋めることができずに長野軍は劣勢になっていきました。
そこで業盛は支城や野戦をあきらめて、箕輪城での籠城戦を選択。
箕輪城は川や沼に守られていて、空堀や土塁を巧みに使った攻めにくいお城でした。
このとき、箕輪城を守っていた兵士は1500人だと伝わっています。そして城内各所を長野十六槍の家臣が守っていました。
それでも戦国最強といわれた武田軍に長野軍は押されていき、城兵は200人まで減っていきました。
そして信玄は総攻撃を開始。
これに対して業盛は、父・業正の遺命「降伏するな、力尽きたら城を枕に討ち死にせよ」を守って最後まで降伏勧告を拒みつづけました。
業盛は城を出て武田軍に向かって突撃。しかしながら武田軍はビクともせず、逆に業盛は城内へ押し戻されてしまいました。
これ以上の抵抗を諦めた業盛は、御前曲輪で一族とともに自刃しています。
ここに長野氏は滅亡しました。
ようやく箕輪城を手に入れた信玄は、箕輪城攻めで活躍した家臣・内藤昌豊を城代にしてお城の管理を任せました。また信玄は昌豊に元長野家家臣を雇うことを許可して、箕輪衆を取り込んで行きました。
このあと箕輪城は信玄の重要拠点のひとつとなっていきます。
織田・北条・徳川のお城になり、そして廃城へ
内藤昌豊は武田信玄・勝頼のもとで箕輪城の城代を務めていました。
しかし織田・徳川軍と戦った長篠の戦いで戦死してしまいます。
箕輪城の城代は昌豊の子・内藤昌月(まさあき)が継ぎました。
信長によって武田氏が滅ぼされると、箕輪城は織田のお城になり、信長家臣の滝川一益が城主になっています。
武田氏滅亡の3か月後、本能寺の変が起こり信長が亡くなってしまいました。
すると箕輪城は北条氏のお城になり、北条氏政の弟・氏邦が城主になりました。
豊臣秀吉が四国・九州を平定していき天下統一を進めていく中、秀吉と北条氏との関係が悪化。やがて関係悪化は決定的となり、秀吉は北条氏を20万を超える大軍で攻めていきました。
前田利家と真田昌幸がともに上野のお城を攻めていき、箕輪城も落城させています。
最終的に小田原城は開城。戦国大名・北条氏は滅びました。
秀吉の命令で家康がそれまでの領地だった三河・駿河などから、関東へと領地替えになりました。
そして徳川四天王の一人・井伊直政が箕輪城主となっています。
直政は箕輪城の大手口の場所を変更したり、石垣を積むなどを改修を行いました。
8年間箕輪城を使った後、直政は新しく高崎城を築城し、移っていきました。そのため箕輪城は廃城になりました。
箕輪城の歴史年表
1491 | 長野憲業の子として長野業正が誕生(1499年誕生説も) |
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1512 | 尚業が箕輪城を築いて、本拠地とする |
1560 | 上杉謙信が関東へ侵攻 業正は謙信に味方して、北条氏康と戦う |
1561 | 業正が死去、三男の業盛が家督を継ぐ |
1565 | 武田信玄が上野に侵攻 周辺のお城を攻略され、箕輪城が孤立 |
1566 | 信玄が箕輪城を攻め落とし、業盛は自刃する |
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1570 | 内藤昌豊が箕輪城代になる |
1575 | 長篠の戦いで、内藤正豊が戦死する 子の昌月が箕輪城代を継ぐ |
1582 | 武田氏が滅亡。 織田家臣の滝川一益が城主になるが、本能寺の変後に北条氏のお城になる |
1590 | 秀吉が北条氏を滅ぼして天下統一する その後、家康が関東へ入り、井伊直政が箕輪城主になる |
1598 | 直政が高崎城を築城して移る そのため箕輪城は廃城に |
1987 | 箕輪城が国の史跡に指定される |
箕輪城の歴史 まとめ
今回は「箕輪城の歴史」を紹介しました。
箕輪城は1500年代前半に築城され、1598年に廃城になっていました。なのでお城として使われていた時期は100年にも満たないものでした。
現在の箕輪城は、幅約30m、深さ10mの空堀や、城内を南北に分ける大堀切、井伊直政時代とされる石垣など多くの遺構が残されています。
また箕輪城は「歴史上または学術上価値が高いと認められ保護が必要なもの」とされて、国の史跡にも指定されています。
堀底が散策路にもなっていて、城内をぐるりと歩くことができ、箕輪城の迫力が感じられます。
最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 上野国の国衆・長野氏によって築城される
- 箕輪城の戦いで武田信玄によって箕輪城は落城
- 織田・北条・徳川のお城になり、江戸時代を前に廃城に
箕輪城へのアクセス
- 群馬県高崎市
- 電車での行き方:JR高崎線「高崎駅」より群馬バス箕郷行利用で「箕郷本町」下車、徒歩約20分
- クルマでの行き方:関越自動車道「高崎IC」「前橋IC」より約30分
- 無料駐車場あり
- 詳しくはこちら「箕輪城跡(観光情報)|高崎市」