今回は、お城の地方色として「東北のお城の特徴」を取り上げようと思います。
東北地方のお城といえば、伊達政宗の仙台城、伊達政宗の伯父・最上義光の山形城、現存天守がある弘前城、大河ドラマ「八重の桜」の舞台にもなった会津若松城が有名なお城。
東北地方のお城の特徴には下記↓があります。
- 石垣をもつお城がわずかしかない。
- 天守をもつお城もわずかしかない。
- 江戸時代の一国一城令のもとでも、支城(大名の居城・本拠地以外のお城)がたくさんあった。
では、東北のお城の特徴を見ていきましょう。
Contents
東北のお城の特徴 わずかしかない石垣をもつお城
じつは東北地方では、石垣をもつお城が少なく、土塁のお城が大半。
石垣をもつお城は、弘前城(青森県)、盛岡城(岩手県)、仙台城(宮城県)、山形城(山形県)、会津若松城(福島県)、白河小峰城(福島県)のわずか6城。
そして、東北地方でも有数の領地を持っていた仙台城や山形城であっても、お城の重要部分など一部に石垣を使うのみであったし、そのほかの有力な大名のお城、米沢城や久保田城は石垣を持たない土塁のみのお城であった。
東北地方の石垣をもつお城は築かれた年代もほかの地域よりずっと後でした。
西日本のお城のほとんどは、大坂の陣(1615年)までには石垣や天守も含めて完成しているが、東北地方で石垣のお城が登場するのはそれよりもおくれていました。
たとえば、盛岡城の石垣は1624年〜1644年(寛永年間)の間とされ(早くても大坂の陣より9年後)、白河小峰城は築城工事が着工されたのが1627年(寛永4年)である。
なぜ、東北地方では石垣を持つお城は少なく、築城も遅かったのか?
それは「東北地方の大名に石垣を築く技術者がいなかった」から。
豊臣秀吉は東北地方の制圧をもって天下統一としたように、東北地方が豊臣秀吉の支配下になってから関ヶ原の戦いまで国内では合戦は起きなかった。
そのため、東北地方の大名にとって石垣技術を持つ豊臣秀吉から技術を学ぶ機会がなかったのである。
天下統一から関ヶ原の戦いまでの間に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)があり、日本軍は朝鮮で石垣造りのお城(倭城)をたくさん築城しています。
この時動員されたのは中国・四国・九州の大名が中心。なので、この地方の大名は朝鮮で石垣を築く技術を習得することができました。
その結果、「東北地方の大名は朝鮮へ渡る機会がなく、石垣技術を習得する機会が最後までありませんでした」
その後も、関ヶ原の戦いや大坂の陣は数ヶ月〜半年で終わってしまい、新しく築城する時間もなく、技術を習得する機会はありませんでした。
スポンサーリンク東北のお城の特徴 わずかしかない天守を持つお城
東北地方には石垣と同じく、天守をもつお城も少ないです。
東北地方の現存天守は弘前城天守がありますが、江戸時代には3重櫓としていました。
幕末の時点で東北地方に残っていた天守は弘前城、会津若松城と盛岡城の天守のみであった。
仙台城・山形城など大きな領地をもつ大名の居城であっても天守はなく、3重櫓を天守代用とすることが普通でした。
そして、大きな天守は会津若松城の5重天守が唯一だった。(姫路・松本城天守が5重天守)
東北地方に天守が少ない理由も石垣と同じで、「技術を習得する機会がなかった」から。
天守や高層櫓などの建築技術のもとは、近畿地方にあった大寺院(奈良の東大寺など)が独占して持っていた技術でした。
織田信長や豊臣秀吉が近畿地方を支配下におき、大寺院が持つ建築技術を独占。
東北地方の大名は石垣の技術と同様に、朝鮮へ出兵することもなく天守や高層櫓の建築技術を習得する機会に恵まれなかったために、東北地方は天守の少ない地域になったと思います。
スポンサーリンク東北のお城の特徴 一国一城令のもとでも、例外が多かった!
江戸時代、大坂の陣(1615年)が終わり江戸幕府による支配が強化されていく中で、武家諸法度・一国一城令が発布されました。
しかし、東北地方は例外的に支城(大名の居城・本拠地以外のお城)が多く残されました。
例えば、伊達政宗の仙台藩。
仙台藩は仙台城を居城としつつ、領地内に多くの「要害」を持っていました。(要害と呼ぶものの、実質はお城)
この要害のほとんどは古い山城を改修したもので、中世城郭(安土城以前のお城)の特色をもつお城でした。
仙台藩の要害では、岩出山城(宮城県)、涌谷城(宮城県)などがあります。
そのほかに、秋田藩は居城を久保田城として、支城として横手城(秋田県)を持っていました。
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