戦国時代の合戦の中でお城をめぐる戦いはたくさんありました。
お城が落城するとだいたい城主が切腹する代わりに兵士の命を助けてもらうか、
全員逃亡していました。
戦国時代は江戸時代ほど主君のために命を捨てても戦うという意識はなく、合戦に負けても落ち延びて再起をはかる武将はたくさんいましたし、落ち延びることは恥ではありませんでした。
しかし、戦国時代末期(1586年・天正14年)負けるとわかっていながら決死の覚悟で戦い、自害して果てた武将がいました。
「高橋紹運」です。
高橋紹運は鹿児島の島津軍が九州統一に王手をかけるなか、決死の覚悟で戦いました。
それが「岩屋城の戦い」です。
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合戦直前(1586年・天正14年)
高橋紹運は豊後(現在の大分県)を本拠地にする大友宗麟に仕えていました。
大友宗麟は一時期九州の北半分を領地におさめるほどの勢力をもっていました。
しかし1578年に起きた島津氏との戦い「耳川の戦い」をさかいに没落していきます。
反対に島津氏は耳川の戦いの後、勢力を拡大していき1586年には九州統一へ王手をかけるほどになっていました。
1586年大友氏が滅亡寸前、本拠地である豊後「府内」を維持できるか危うい状況で、飛び地となってしまった博多周辺まで援軍を出す余裕はない。
劣勢に立たされていた大友宗麟はいち早く豊臣秀吉に接近し、援軍を要請。
豊臣秀吉はこの要請に応えて、20万もの大軍で助けに行きました。
豊臣軍の援軍の到着が先か、それとも島津による九州統一が先か、
この状況で起きたのが「岩屋城の戦い」でした。
スポンサーリンク合戦前半
1586年7月11日、島津氏当主・島津義久の甥・島津忠長が率いる2万~3万もの大軍が岩屋城へやってきた。
岩屋城は飛鳥時代に中国大陸・朝鮮半島からの敵に備えて築かれた大野城の一部で、
自然地形を利用したお城だったが難攻不落の城というわけではなかった。
島津軍が岩屋城へ迫るなか、高橋紹運は女・子供など非戦闘員を近くの宝満山城へ移す。
そして、兵士763名を集め岩屋城で敵を引き付け、死ぬ決意を表明した。
そして生きたい者は城を出てもよいと言ったが、みな高橋紹運に従う決意をします。
高橋紹運にはどうしても岩屋城で敵を引き付ける必要がありました。
それは岩屋城の後方に控える宝満山城には女子供がおり、立花山城には息子・立花宗茂(立花家の養子になったので苗字は違います)がいたからでした。
岩屋城周辺を制圧した島津軍は、高橋紹運に降伏勧告をします。
しかし高橋紹運はこれを無視。
そして763対3万の戦いが始まる。
1586年7月14日、島津軍の攻撃が始まる。
島津軍の攻撃にたいして高橋紹運の采配は際立っていて、岩屋城の兵士たちも士気は高く島津軍の攻撃をはね返していた。
島津軍は高橋紹運とその兵士たちを「よく調いたる敵」と恐れていたという。
島津軍は鹿児島の島津軍本隊と熊本県や宮崎県の征服した大名や地侍(国人)の軍で構成されていた。
しかし島津本隊以外の武将や兵士にとって島津の合戦は他人の合戦なわけで、死ぬ気で襲ってくる少数の敵を相手に損害を出したくないんですよ。
だから士気も上がらず3万の軍勢といっても本気で戦っているのは島津本隊だけなんです。
翌7月15日、島津軍は岩屋城に対して再度攻撃を仕掛けるがまたもはね返されてしまう。
そのうえ、島津軍の戦死者がさらに増えていったしまった。
このまま無理に攻めていても味方の士気は上がらず損害が増えていく一方。
なので再三にわたり高橋紹運に降伏を促すがすべて断られてしまう。
このとき高橋紹運のもとへは息子の立花宗茂や味方の黒田官兵衛などからも島津へ降伏を促されるがすべて断っていました。
高橋紹運は次の言葉を残していました。
「主家が衰えたるとて仁義を忘れるるは鳥獣以下なり」
島津軍は岩屋城へ手が出せないまま時間だけを浪費してしまいます。
7月22日、島津軍に新たな援軍が合流。
そして総攻撃を開始します。
合戦後半 岩屋城・落城!!
7月22日、島津軍へ新たな援軍が合流。
7月26日、島津軍大将・島津忠長は再び岩屋城へ攻撃を開始。
この日になってようやく一部を占領します。
翌7月27日、島津軍が総攻撃を開始。
岩屋城の左右や山の裏側からも攻撃を加えていく。
島津軍は自軍の損害をかえりみず攻撃を加え、ついに本丸へ突入します。
高橋紹運自身も敵を17人も切るが力尽きてしまう。
最後、島津軍へ攻撃の中止を要請したうえで、櫓へ登り自らの命を絶ちます。
残った岩屋城の兵士たちも投降することを良しとせず、刺し違えるか、自害して763名全員が壮絶な死をとげたという。
島津軍は763名の敵に対して3000人もの死傷者を出してしまいました。
それ以上に岩屋城攻めに半月以上の時間をかけてしました。
そして豊臣軍の九州上陸を迎えます。
豊臣軍は島津に対して連戦連勝し、島津は豊臣秀吉に降伏しました。
スポンサーリンクまとめ
岩屋城の戦いで自害した高橋紹運。
彼は最後は城は落とされ死んでしまうけれど、彼が稼いだ時間のおかげで主人である大友宗麟や息子の立花宗茂を守ることができました。
高橋紹運は目の前の戦闘だけでなく当時の政治情勢なども踏まえて自分の役割を理解していたと思います。
そしてその役割をまさに命をかけて遂行した名将と言っていいでしょう。