お城をめぐる戦い

信長と秀吉が得意だった必勝の付城戦術|戦国の城攻め

信長と秀吉が得意とした必勝の付城戦術

今回はお城の攻め方の1つ「付城戦略」について解説していきます。

さっそくですが、「付城」とは何でしょうか?

付城には2つの意味があって、

  1. 本城に付属するお城。出城、支城
  2. 敵のお城を攻めるために築いたお城(砦、とりで)

この記事では、2つ目「敵のお城を攻めるために築いたお城」という意味での、「付城」について解説していきます。

付城戦術は織田信長の「桶狭間の戦い」や、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとも言える「小田原城の戦い」でも使われるほどお城を攻めるときには有効な手段でした。

付城を知ることで戦国時代の合戦がより楽しめるのではないでしょうか?

この記事では下記↓について解説していきます
  • 付城の機能と作る意味とは?
  • 付城とはどんな形のお城?|付城の構造
  • 実際に行われた付城を使った城攻め
    ▶︎小谷城の戦い(1573年)
    ▶︎三木城の戦い(1578〜80年)
    ▶︎小田原城の戦い(1590年)

ではさっそく「付城」とはどんなものか、見ていきましょう!

虎御前山砦ー信長が小谷城を攻めるために築いた付城虎御前山砦ー信長が小谷城を攻めるために築いた付城

付城とは?

ここからは付城についての基本的なことについて解説していこうと思います。

付城の機能とは?

付城の機能をカンタンにまとめると下記になります。

付城の機能
  • 敵城の監視
  • 敵城からの出撃の予防
  • 敵城攻撃の拠点
  • 食料補給の妨害

付城は敵のお城を包囲するための拠点です。なので監視や攻撃の拠点になります。

そしてお城を包囲している間に敵がお城から出て攻撃してくるかもしれません。そのときに無防備にいると損害が大きくなってしまうので、付城を防御のための拠点としても使います。

そして付城からの監視でお城へ食料を運ぶ部隊を見つけたり、付城同士を柵などでつなげることで補給の妨害をします。

付城は1つだけ作っても効果は薄く、複数作ることでより効果を発揮します。
付城によるネットワークでより完ぺきに敵のお城を包囲することが可能になります。

付城を作る意味はおもに4つ

付城とは「敵のお城を攻めるために築いたお城(砦)」でした。

なので付城の意味とは「敵のお城を落とすため」ということになります。

付城を作る意味とは下記の4つ。

付城を作る意味
  • 長期間の城攻めの際、駐屯地とするため
  • より完ぺきに敵のお城を包囲するため
  • 付城の存在で敵兵に圧迫感、心理的ストレスを与えるため
  • 豊かさ(戦力・財力)を見せつけることで、敵の戦う意思をくじくため

4つの機能をそれぞれ解説していきます。

1つ目の「長期間の城攻めの際、駐屯地とするため」
城攻めをするときには、力攻めでも兵糧攻めでもどれだけ時間がかかるかが読めません。事前に寝返る交渉を進めていれば別なのですが、相手の反抗が強固な場合は寝返らないですししぶとく抵抗を続けます。
城攻めの際に攻撃する側(攻城側)はお城を包囲するわけですが、お城の周囲は田んぼや原っぱでした。ここにただ無防備にいるだけでは、城内から敵が出陣してきたときにやられてしまいます(とくに怖いのが「夜襲」)。
そのため兵士の安全を確保する必要があるので、「付城」を築き、そこを駐屯地とするのです。

2つ目「より完ぺきに敵のお城を包囲するため」
お城を包囲するといっても、周囲に兵士を置いているだけでは隙だらけで、敵もお城の外部との連絡や補給をカンタンに行うことができてしまいます。
そこで完ぺきにお城を包囲するために付城を築き、付城同士を塀や柵でつなげていきました。秀吉は城攻めの際に、付城を10㎞に2、3ヶ所作り、柵を2重、3重にしていました。
こうすることで敵は外部との連絡や補給を断たれるので、抵抗を続けることが難しくなります。

3つ目「付城の存在で敵兵に圧迫感、心理的ストレスを与えるため」
お城が攻撃されて、そこに立てこもっている時の心境はどんな感じなんでしょうか?
現代人にはなかなか理解できない心境だと思いますが、けっこうなストレス環境なんじゃないでしょうか。
そしてお城の周りには敵軍が包囲しています。ただ敵がいるだけよりは、付城をつくり柵を2重3重と巡らせて逃げ場がない状況を作られてしまっては、より圧迫感やストレスを感じると思います。(うつというか病んでしまう人もいたんじゃないでしょうか?)
なので、付城で敵兵に精神ストレスを与えれば、降伏するまでの時間も短くすることができます。

4つ目「豊かさ(戦力・財力)を見せつけることで、敵の戦う意思をくじくため」
あとでせ解説しますが、豊臣秀吉の「小田原城の戦い」では小田原城を包囲したあとに「石垣山城」という付城を作ります。
このお城は付城といっても大名の居城と呼べるほど大きなもので、石垣や天守もそなえていました。そして秀吉はこの工事のために3〜4万人を動員して3ヶ月弱で完成させてしまいます。
小田原城で立てこもっている兵士からすると、「こちらは辛抱して籠城しているのに、敵は大きなお城を作ってしまうほど余力(人員・お金)があるのか・・・」と感じてもおかしくないでしょう。
付城で敵兵の戦い意思をくじくことで、より短期間で降伏してくれるんじゃないでしょうか。

付城とはどんな形のお城?|付城の構造

付城とはお城を包囲するために作るお城だということはわかっていただけたと思います。

では付城とはどんな形のお城だったのでしょうか?

ここでは付城の形を見ていきましょう。

二位谷奥付城A(にいだにおくのつけじろ)

二位谷奥付城A(にいだにおくのつけじろ)二位谷奥付城A(にいだにおくのつけじろ)(織豊系陣城事典をもとに作成)

この付城は豊臣秀吉が三木城(兵庫県)を攻めた際に作った付城です。

この付城には曲輪が3つあり、その曲輪の周りを堀が囲んでいます。
特に曲輪1の周り全てに堀が掘られていて、厳重に守られていることがわかります。

シノク谷峯構付城(しのくたにみねかまえつけじろ)

シクノ谷峯構付城(しくのたにみねかまえつけじろ)シクノ谷峯構付城(しくのたにみねかまえつけじろ)(織豊系陣城事典をもとに作成)

こちらのお城も秀吉が三木城を攻める際に作った付城です。

先ほどの付城(二位谷奥付城A)と比べると、土塁に囲まれた曲輪は1つで堀もわずかしかなく、スッキリした付城です。

これら2つの付城の構造の違いはどこからくるのでしょうか?

ここで考えられるのが「距離」と「重要度」です。

「距離」とは、攻めているお城からの距離。付城と攻めているお城(先の2つの付城では三木城)からの距離です。

当然敵のお城に距離が近いほど危険度が増します。敵がお城から出て攻めてきたときに真っ先に攻撃を受けることになるので、防御力を高めておかなくてはいけません。

先ほどの2つの付城(二位谷奥付城Aシクノ谷峯構付城)では、二位谷奥付城Aがより三木城に近いため防御力が高い付城になっています。

三木城と付城の位置関係三木城と付城の位置関係

そして「重要度」。

1つのお城を攻めているときでも、付城は複数作られることが一般的でした。複数作られた付城でもそれぞれに役割が異なっていて重要度は違ってきます。

例えば、信長や秀吉が城攻めの本陣として利用する付城は、一番重要度が高いので防御力も高くする必要があります。一番攻められやす最前線(敵のお城に一番近い付城)や見晴らしの良い場所に作られた監視のための付城は重要度が高くなります。

付城を作って実際に行われた城攻め

ここからは実際に行われた城攻めを見ていきましょう。

小谷城の戦い(1573年)

小谷城(滋賀県)の戦いとは織田信長と浅井長政とのあいだで行われた合戦です。

小谷城(滋賀県)の場所小谷城(滋賀県)の場所

浅井長政は信長の妹「お市」をお嫁さんにしていて、信長とは義理の兄弟。しかし信長とは対立することになり、この小谷城の戦いで長政は負け、自刃してしまいます。

小谷城は浅井氏が戦国大名として飛躍するキッカケになったお城。小谷山山頂からのびる尾根の上に築かれた山城で、尾根上に曲輪を並べて堀切で遮断した守りの固いお城でした。

小谷城の曲輪小谷城の曲輪

1570年4月、織田信長は越前(福井県)の戦国大名朝倉義景を攻めるために京都から出陣しました。このときに浅井長政が信長を裏切ったのですが、理由は代々親交があった朝倉氏との関係を重視したと言われています。

長政に裏切られた信長ですが、1570年から73年まで約4年間をかけて小谷城を付城で追いつめていきます。

まず最初に小谷城の南に位置する横山城を攻略。そしてこのお城を小谷城への最前線基地として利用していきます。
その後、信長は秀吉に横山城を任せて、さらに姉川と朝妻地区との間の商人の通行を禁じるよう命令。小谷城周辺の物流をストップさせることで、浅井長政の戦力を削ろうとしていました。

横山城の場所横山城の場所

横山城が織田のお城になったことで、小谷城と連絡が取れなくなった佐和山城が落城。
佐和山城が落城したおかげで背後の心配がなくなった信長は、一気に小谷城の喉元まで迫ります。

1572年、信長は虎御前山砦を築きます。この付城は小谷城と目と鼻の先にあり、小谷城の浅井軍に圧迫感を与えたでしょう。

小谷城の戦いー虎御前山砦と佐和山城小谷城の戦いー虎御前山砦佐和山城

信長は横山城をはじめとして、小谷城の周囲のお城を落城させてその後利用し、虎御前山砦のように敵の目の前に付城を築きました。

信長は敵から奪ったお城、新たに作った付城を利用することで、浅井軍が自由に行動できないようにし、地域経済を支配していました。一気に敵のお城を力攻めにすると、抵抗も激しく味方の損害も大きくなります。さらにこの時(1570〜73年)の信長は、周囲を敵(武田信玄や大坂の本願寺など)に囲まれていて、損害が大きくなる作戦は使えませんでした。

なので信長は付城を使って、敵の行動を制限し、じわじわと弱らせていく作戦をとりました。

小谷城から見た虎御前山砦小谷城から見た虎御前山砦

1573年8月、山本山城が信長へ寝返ったことをキッカケとして、小谷城は周囲をほぼ織田軍に包囲されてしまいました。長政はその後約1ヶ月抵抗を続けますが、力尽き自刃しました。

・信長は付城で敵の自由な行動を制限し追い詰めていった。

三木城の戦い(1578年〜80年)

三木城(兵庫県)の戦いとは、豊臣秀吉が織田信長の家臣時代に中国地方を制覇する過程で行われた合戦の1つ。

三木城(兵庫県)の場所三木城(兵庫県)の場所

この戦いは「三木の干殺し」と言われるほど、悲惨な合戦でした。

1578年、織田信長は豊臣秀吉に中国地方で一番大きな戦国大名だった毛利氏を攻めることを命令。この時、播磨国(兵庫県南部)の大名たちは、秀吉とその家臣・黒田官兵衛(NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公)の説得もあって、信長の支配下にあって従っていました。

三木城・城主「別所長治(べっしょながはる)」も秀吉と官兵衛の説得に応じ信長に従っていて、毛利攻めでは先陣(軍隊の先頭に配置されること。実力者が置かれ、名誉なことだった)を任される予定でした。

別所長治と豊臣秀吉別所長治と豊臣秀吉

しかし毛利攻めの矢先、別所長治は毛利氏側へと寝返ってしまいました。

秀吉はすぐさま三木城を包囲。その後、三木城の戦いは20ヶ月以上の長期間にわたって行われることに。

三木城の周辺には30以上のお城があり、それぞれお互いに連絡を取り合って連携することでお城の防御力を補っていました。

秀吉は付城を築き、三木城を包囲・監視をしながら別所氏に味方するお城を攻撃していきました。

別所長治に味方する毛利氏や荒木村重などの戦国大名が、包囲されている三木城を助けるために食料を陸路や海路から運び込もうとするも、秀吉によって築かれた30以上の付城によって完全に包囲されていたため失敗。

三木城の戦いでの主な付城三木城の戦いでの主な付城

さらに三木城内から約3000人の兵士が出撃。秀吉の三木城包囲網を突破しようと秀吉本陣へ向けて突撃しました。しかしこの攻撃も秀吉軍によって撃退され突破することはできないままでした。

この戦いで秀吉は10㎞に2、3ヶ所で付城を築き、付城同士を塀や柵でつなぎ、それを二重三重に築いていました。

1580年正月、秀吉軍の完璧な包囲網をついに突破することができなかった三木城では、この頃には備蓄の食料もなくなってしまったため、満足に戦えないどころか餓死者が続出。ここに至って別所長治はついに降伏を決断。2年弱に及ぶ合戦が終わりました。

三木城は高さ27mの台地上に築かれ、周囲を美嚢川などに囲まれた防御力の高いお城。そして、三木城内には7000人もの兵士がいた上に、その兵を指揮する別所長治は自力で戦国時代を生き抜いてきた実力者だった(毛利攻めの先陣を任されたことからも実力者だったとわかる)。

この三木城を力攻めで無理やり攻めたのでは秀吉軍の損害も大きくなることが予想された。このあとさらに大きな軍隊を持っている毛利氏と戦うことを考えると「少ない損害で三木城を落城させたい」と考えるのは当然。

そこで秀吉は付城を築き、それらを柵でつなげることで三木城を包囲していきました。「兵糧攻め(ひょうろうぜめ)」という戦法をとったわけです。

兵糧攻めは時間がかかる戦法。そのため攻めているお城(この時は三木城)の周辺をしっかり制圧しておく必要があります。三木城の戦いでも毛利氏などが食料を運び込もうとしたり、城内から出撃して包囲網を突破しようとしていました。

このとき付城を複数築いておくことで、三木城周辺をしっかりガードすることでお城を孤立させることができ、さらにそれを長期間維持することも可能になりました。

秀吉は付城を築いて敵のお城を包囲。そうすることで敵の補給を断つとともに、長期的な城攻め体制を整えていた。城内からの攻撃や敵援軍を防ぐことができた。

小田原城の戦い(1590年)

小田原城(神奈川県)の戦いとは豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして行った戦い。

小田原城を本拠地としていた戦国大名北条氏は、初代伊勢盛時(いせもりとき)から5代目北条氏直(ほうじょううじなお)まで約100年間戦国大名として独立を保ってきた超ベテラン。関東地方のほとんどを支配下におくなど、1、2を争う実力を持っていました。

小田原城と石垣山城小田原城石垣山城

超実力者・北条氏が本拠地とする小田原城は、周辺の城下町ごと堀や塀で囲う「惣構え(そうがまえ)」を持つほど巨大なお城でした。そしてこの合戦のときには、小田原城内に56000人が立てこもっていました。

秀吉は北条氏を攻めるために22万人におよぶ兵士を招集。しかし22万人という大軍をもってしても小田原城はカンタンには落ちないだろうと秀吉は考えていました。

1590年4月、小田原城を包囲した秀吉は、近くにある高さ262mの笠懸山に付城を築き始めます。この付城を「石垣山城」と言います。

この付城の工事のために3万〜4万人を動員。付城という枠を超える大きさで、石垣を築き、天守まで建てたこの付城を約80日間で築きました。

さらに秀吉はこの石垣山城の見せ方を工夫します。石垣山城が完成するまで周囲の木々を残しておいて、小田原城から見えないようにしていました。これには工事を隠す意図もあったと思います。

そして石垣山城が完成すると、周囲の木々を一斉に伐採。すると小田原城からは一夜にしてお城が現れたように見えます。さらにそのお城は石垣や天守の白い壁でキラキラと輝いてました。

石垣山城の石垣石垣山城の石垣

小田原城の北条軍は必死な思いでお城に立てこもって戦っているのに、秀吉軍はキラキラ輝くお城を築く余裕がある(しかも早く)。これでは戦っても勝ち目はないと誰もが思ったことでしょう。

石垣山城が完成して、ほどなく小田原城は開城し、北条氏当主の氏直は高野山へ島流し、先代の氏政は切腹。ここで戦国大名北条氏は滅亡しました。

秀吉は超実力者・北条氏を攻めるにあたって、普通の城攻めでは勝てないことが事前に理解していました。そのため、結果的に完成から半月しか使わなかった石垣山城のために人員とお金をつぎ込みました。

石垣山城を使って秀吉は、秀吉軍の人員・財力の余裕や、築城技術レベルの違いを北条軍へ示しました。そうすることで実際に戦わなくても、敵の戦う意志・モチベーションを失わせました。

敵と対峙すると「戦闘で戦って勝つ」ということを考えてしまいそうなものですが、さすがは秀吉。相手が超実力者であっても戦うためには兵士の数だけじゃなく、モチベーションが必要だということがよくわかっていました。逆に北条軍では、「何のために秀吉軍と戦うのか」ということが兵士それぞれに理解されていなかったのかもしれません。

敵は北条家という超実力者。まともに戦っても勝つことはできたが、秀吉政権にも大ダメージが予想された。付城の枠を大きく超えた天守を持つお城を築くことで、レベルの違いを見せつけて敵の戦意をくじいた。

付城のまとめ

今回はここまで付城について解説してきました。

ここではもう一度、付城の「機能」「作る意味」についてまとめておきます。

付城の機能
  • 敵城の監視
  • 敵城からの出撃の予防
  • 敵城攻撃の拠点
  • 食料補給の妨害
付城を作る意味
  • 長期間の城攻めの際、駐屯地とするため
  • より完ぺきに敵のお城を包囲するため
  • 付城の存在で敵兵に圧迫感、心理的ストレスを与えるため
  • 豊かさ(戦力・財力)を見せつけることで、敵の戦う意思をくじくため

お城を攻撃する方法には力攻めや水攻めなど、さまざまな方法があります。

つぎにお城を訪れる機会があった時には、そのお城はどのような戦法で攻撃されたのかなどに注目してみてください。お城をより楽しむことができます。

 参考資料