犬山城の天守にはどんな特徴があるの?
犬山城天守の歴史や見どころ・ポイントを知りたいな!
今回は「犬山城の天守」の疑問に答えていきます。
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この記事では犬山城天守を3つのポイントにまとめて解説していきます。
- 江戸時代に増築されていた現存最古級の天守
- 犬山城天守の防御の工夫
- 犬山城天守の格式を高めている廻縁・高欄と華頭窓
それでは解説していきます。
Contents
犬山城はどんなお城?
犬山城は愛知県犬山市にあって、木曽川沿いの高さ約40mの丘に築かれたお城。
犬山城が築城されたのは戦国時代で、織田信長のおじ・織田信康が砦を改修して犬山城を築城したと伝えられています。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のそれぞれの重要な戦いで、犬山城は重要視され奪い合ってきました。
江戸時代になると尾張藩の家老・成瀬氏が9代にわたって犬山城を治めていきます。
現在の犬山城は天守が国宝に指定され、お城の南側には古い街並みが残っていて観光地としても有名です。
スポンサーリンクポイント1:江戸時代に増築されていた現存最古級の犬山城天守
犬山城の天守は現存最古の天守と言われています。
犬山城は2段階に分けて建てられていました。
1601年にまず1・2階部分が建てられ、1602年に3・4階の望楼部分や唐破風などが増築されて現在の形に完成しています。
1601年に建てられた1・2階部分でもって、現存最古の天守としています。
以前犬山城の天守は美濃金山城(岐阜県可児市)の天守を移築した説(金山越え)がありました。けれど1961年に行われた解体修理の時に移築ではないことが判明しています。
ポイント2:犬山城天守の防御の工夫
犬山城天守の外観の特徴の一つが「付櫓」。
付櫓は天守本体から突き出すように建てられていて、天守入口に迫る敵の側面を攻撃することで入口を守っていました。
入口に入ると階段を2つ登って天守1階まで上がっていきます。この時階段の踊り場で90度ターンされられます。
これは天守1階まで一直線に駆け登らせないためでした。
天守1階の東北隅に「石落としの間」があって、これは天守から出っ張っていて死角をカバーしていました。
また階段は天守内のスペースを有効活用するためと、防御も考えて急角度になっています。
戦闘しながら急な階段は登りづらいですからね。
ポイント3:犬山城天守の格式を高めている廻縁・高欄と華頭窓
犬山城天守の最上階には廻縁(まわりえん、ベランダ)と高欄(こうらん、手すり)が巡っています。
廻縁と高欄は戦闘には関係ないけど、天守の格式を高めてくれるものでした。
ちなみに廻縁は外側に向かって傾斜していいて、これは雨水がたまらないようにするため。
また最上階の壁面には華頭窓が付られています。
華頭窓はもともとお寺で使われていた窓のデザインで、戦国時代からお城を装飾するために使われ始めました。
犬山城天守の華頭窓は壁に付けられているだけで窓として機能していなくて、装飾として華頭窓を付けることで天守の格式を高めています。
天守最上階には赤い絨毯(じゅうたん)が敷いてあります。
これは7代目城主・成瀬正壽(まさなが)が親しくしていたオランダ商館長から譲り受けたものでした。
貴重な絨毯を天守に敷いていたということは、幕末になっても城主が登る機会があった珍しい天守だったと言うこともできます。
犬山城天守を見学しに行こう!
今回は「犬山城の天守」を紹介しました。
もう一度内容をまとめておきます。
- 犬山城天守は2段階に分けて建てられていた
- 天守1・2階部分が1601年に建てられ、現存最古の天守になっている
- 天守が今の形に完成したのは1620年
- 付櫓は天守入口を側面から守っていた
- 石落としの間は死角をカバーするために出っ張っている
- 階段が急なのはスペースの有効活用と防御のため
- 最上階の廻縁・高欄と華頭窓は天守の格式を高めてくれる
- 赤い絨毯はオランダ商館長からもらったもの
犬山城を見学するときは、この記事を参考に天守にも注目してください!
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