お城の歴史

犬山城の歴史|信長・秀吉・家康に狙われたお城

今回は犬山城の歴史について解説していきます。

犬山城(愛知県)は木曽川沿いにある、高さ約40mの丘に築かれたお城。

現存する国宝天守があることで有名なお城でもあります。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人ともそれぞれの重要な時期に犬山城を巡って争っていたという歴史もありました。

今回はそんな犬山城の歴史を見ていこうと思います。

今回の記事は、これから犬山城へ観光される人、観光してきたけれどもっと犬山城について詳しく知りたい人にオススメです。

  • 犬山城を築いたのは信長のおじさん
  • 信長・秀吉・家康がそれぞれの重要な時期に犬山城を攻撃していた
  • 江戸時代、尾張藩の支城として存続
  • 明治以降、近年まで個人所有のお城だった犬山城

では犬山城の歴史を見ていきましょう!

犬山城と木曽川犬山城と木曽川

Contents

信長のおじさんが築いた犬山城

犬山城が築かれたのは戦国時代中期、信長が生まれた頃でした。このころの犬山城のある尾張(愛知県西部)は織田氏が分裂し、争っていました。

犬山城の場所犬山城の場所

室町時代、織田氏は室町幕府の管領という役職を務めていた斯波氏に仕えていてた。そして、尾張守護代を務めていました。(尾張は愛知県西部で、守護代とは守護を補佐する役職)

幕府の重要なポジションにある斯波氏は京都で仕事をしていたために、尾張の統治は守護代である織田氏に任せていました。戦国時代になって、力をつけてきた織田氏が実質的に尾張を支配して行くようになります。

その後、織田氏は分裂し、岩倉城を拠点とする岩倉織田氏と清洲城を拠点とする清洲織田氏に分かれて争っていました。

室町時代の尾張の支配構造室町時代の尾張の支配構造

信長の父親・織田信秀は清洲織田氏に仕える家臣という立場でした。家臣だったにもかかわらず力をつけていき、主人である清洲織田氏に代わって尾張統一へ。

1537年、信秀の弟・織田信康は三光寺山と呼ばれていた丘の上に犬山城を築いて居城としました。

のちに信康は美濃の戦国大名斎藤道三との戦いで戦死、犬山城は子の信清(信長とはいとこ)が犬山城城主に。

信秀が死に信長の代になると、信清と信長は対立していきます。しかし信清は信長に負け、犬山城を追われてしまいました。
信長は尾張を統一する過程で、じつの弟を殺害し、いとこと対立した上で追放していました。
犬山城は尾張と織田一族の争いのなかで築かれ、いとこ同士の戦いの舞台に。

その後、尾張を統一した信長は次の目標を美濃の斎藤氏に定め、犬山城を拠点に美濃を攻撃していきました。

犬山城天守犬山城天守

その後の犬山城は、城主がまめぐるしく変わる時期になっていきます。

1570年、浅井・朝倉軍と戦った姉川の戦いでの戦功を信長に認められ池田恒興が犬山城城主に。1580年には、信長五男・勝長が城主となっています。

本能寺の変後は、尾張を信長の次男・信雄が治めます。清洲城を本拠地としていた信雄は、犬山城へは家臣の中川定成を入れていました。

そして犬山城に再び合戦がやってきたのは1584年の小牧・長久手の戦いにおいて。

本能寺の変で信長が死んだ後、信雄はしだいに秀吉と対立するようになっていました。秀吉に対抗するために信雄は家康と手を組んでいました。

この戦いの時、秀吉側で元城主だった池田恒興が犬山城を奇襲。攻め落としています。
このあと小牧・長久手の戦いを通して、犬山城は秀吉軍の拠点として使われした。

戦いは信雄側の降伏で終結。犬山城は再び信雄の支配に戻り、信雄は家臣の武田清利、ついで土井雄良に城代として犬山城を任せました。(城代とは大名の代わりにお城の管理をする人。城主と違いお城をもらっているわけではなく、管理のみ任されている)

その後、信雄が失脚。尾張は秀吉の養子で関白にもなる豊臣秀次の支配下となります。
1590年、秀次は実父である三好良房を、91年には実弟の秀勝を犬山城城主としていました。

秀次も1595年に失脚、秀吉によって切腹させられてしまいました。
秀次失脚後は石川貞清が1万2000石で犬山城主に。

この石川貞清のときに関ヶ原の戦いが起こります。

1600年、石川貞清は石田三成、毛利元就が率いる西軍に味方。
そのために犬山城は徳川家康が率いる東軍に攻撃されています。

関ヶ原合戦後、石川貞清は家康によって領地を没収されてしまいました。

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江戸時代、尾張藩の支城として名古屋城を支える犬山城

1601年、家康は関ヶ原後の領地再配分の中で犬山城がある尾張を、家康四男・松平忠吉に与えます。

しかし忠吉は1607年に28歳で死去。代わりに家康九男・徳川義直が尾張を継ぎました。

義直は清洲城ついで名古屋城を本拠地としていました。犬山城へは家臣の平岩親吉を城主としていました。

1611年に親吉が亡くなると、同じく家臣の成瀬正成を犬山城主にしました。

江戸時代になり、武家諸法度と一国一城令が出されました。

一国一城令とは1つの藩にお城はひとつだけ、もしくは1つの藩が複数の国にまたがって領地を持っていた場合は1つの国(尾張や近江、武蔵など)にお城は1つだけと規制した法律でした。

尾張藩では名古屋城を本拠地としながらも犬山城を維持していました。なので犬山城は一国一城令の中では例外として認められていた2つ目のお城でした。(尾張藩は徳川御三家といって、徳川幕府の一員といっていいので一国一城令に当てはまらなくても問題なかったとも言えます)

そして、成瀬氏は明治維新まで犬山城城主を代々務めていきました。

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明治以降、珍しい個人所有だった犬山城

江戸時代が終わり明治時代となりました。

明治時代は政府が出した廃城令によって多くのお城の建物や堀などが解体されていった時代でした。

犬山城も例外ではなく、尾張藩がなくなったあと愛知県の所有となり、天守を除く城門や櫓(やぐら)・塀などが解体されました。

その後、犬山城天守にも危機が訪れます。

1891年、岐阜県本巣市付近を震源とする濃尾地震によって天守は半壊しました。
この地震はマグニチュード8.0相当だったと考えられていて、記録が残る中で日本内陸部で起きた地震として観測史上最大の地震でした。

半壊してしまった犬山城天守ですが、愛知県でも地震によって広い範囲に大きな被害が出ていたので修復にまで手がまわりませんでした。

そこで天守の復旧・修理を条件に、犬山城を愛知県から旧城主である成瀬氏へと無償で譲渡されました。

その後、犬山城を引き継いだ成瀬氏と犬山市民が協力して義援金を集め、天守を修復していきました。

そして、この時から2004年まで犬山城は成瀬氏という個人が所有する全国でも珍しいお城となりました。

その後、犬山城天守は1935年に旧国宝、1952年には新しい文化財保護法のもとで国宝に指定されました。

再び犬山城を自然災害が襲ったのが1959年の伊勢湾台風でした。この台風で犬山城でも被害を受けました。

2年後の1961年から天守の解体修理を開始し、4年かけて現在の姿に修復。

修復後に、成瀬氏は犬山市・犬山城管理事務所に犬山城の管理を委託。

委託後に本丸・黒門が再建。

国民的文化財保存活用のためとして、2004年に犬山城の所有権が成瀬氏から犬山城白帝文庫へうつされました。

伊勢湾台風後の解体修理から50年が経過していたため、2013年9月〜14年2月にかけて天守の応急修理が行われ、天守の高欄(手すり)、床および漆喰の一部が修理されました。

再建された本丸・黒門再建された本丸・黒門
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犬山城のまとめ

犬山城は尾張のなかで織田一族の争いのなかで築かれ、信長は尾張統一で、秀吉は小牧・長久手の戦いで、家康は関ヶ原の戦いでそれぞれ犬山城に直接・間接的に関わっていました。

江戸時代を通して尾張藩の支城として名古屋城を支える立場にありました。

明治以降、震災によって半壊した天守を修復するために旧城主である成瀬氏と犬山市民が協力して義援金を集め、犬山城の復興に貢献。そして近年まで成瀬氏の個人所有のお城でもありました。

以下にカンタンに犬山城の歴史のポイントをまとめました。

  • 犬山城を築いたのは信長のおじさん・織田信康
  • 信長・秀吉・家康それぞれの重要な戦いに犬山城が関わっている
  • 尾張藩の支城として、一国一城令に制限されていなかった
  • 濃尾地震で半壊。旧城主と犬山市民が協力して修復
  • 近年まで個人所有のお城だった
犬山城と朝焼け犬山城と朝焼け

参考資料