お城のいろいろ

瀬戸内海に多く残る日本の海賊のお城とは?

日本の海賊のお城はどんなお城?

今回は「海賊のお城」について解説していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 海賊のお城をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 海賊城へ行く前に予習しておきたい人
  • 海賊城が出てくる小説や映画を観たけど、もっと知りたくなった人

あなたは「海賊のお城」って知っていますか?
戦国時代の日本には海賊がいました。けれど海賊と言っても、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のような海の無法者ではなく、海の武士団でけっしてむほうものではありませんでした。海賊ではなく「水軍」と呼ぶこともあります。
今回はそんな海賊・水軍のお城を紹介していきます。

この記事を読むと海賊のお城がどんなモノだったのか分かります。
今回は数ある海賊城のなかで、3つお城を取り上げて紹介していきます

最初に海賊・水軍は「どんな場所にお城を築いていたのか」「どうやってお城を守っていたのか」を解説します。次に海賊・水軍の発祥・歴史を紹介。最後に海賊城として3城「能島城」「来島城」「甘崎城」を解説していきます。

最後まで読んでいただけたら、海賊・水軍はどんなお城を持っていたのか分かります。この記事を参考にお城巡りをしてくれると嬉しいです。

Contents

海賊のお城とは?

海賊はどんな場所にお城を作っていたの?

瀬戸内海ー芸予諸島瀬戸内海ー芸予諸島

海賊たちのお城はどんな地域・場所に作られていたと思いますか?

とくに海賊城が集中していた地域は瀬戸内海。

最も島々が密集する芸予諸島(広島県と愛媛県の間)を中心に海賊城が広がっていました。芸予諸島の愛媛県側だけでも40以上の海賊城が確認されています。

そして海賊城は海に面して作られていたり、小さな島全体をお城にしていたケースもありました。海賊城は砦や船の基地、海の関所としての役割がありました。

海賊のお城はどうやって守っていたのか?

能島城の潮流能島城の潮流

では海賊・水軍たちは海賊城にどのような防御の工夫をしていたのでしょうか?

海賊城は小さな島をお城にしていた為に、小さな面積を有効に使っていかなくてはいけませんでした。そのため、ふつうのお城に見られるような土塁や堀は備わっていません。

海賊城は斜面を削って平坦な場所を数カ所だけ作った簡単な構造をしていました。

これだけだとカンタンに攻め落とされてしまうと思いますよね。けど海賊城ならではの防御の秘密があったのです。

海賊城は瀬戸内海の島々が密集したところに作られていました。島々が入り組んでいる為に、潮の流れがとても複雑になっています。海賊たちはこの潮の流れに着目して、高度な船を操る技術がないとたどり着けないような島を選んで海賊城にしていきました。

お城のつくりは単純だけど、そのお城の立地・海流を最大限に活かした防御の工夫をしていました。

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水軍の発祥・歴史

瀬戸内海を行き来するために必要だった海の武士団

安宅船安宅船

ここでは日本の海賊・水軍の成り立ちを解説していきます。

日本の海賊(水軍)は主に瀬戸内海で発展していきました。瀬戸内海は本州・四国・九州に囲まれていて日本海や太平洋とは違い、波が穏やかな内海です。なので、古代から朝鮮や中国大陸と都のある近畿地方とを結ぶ物流ルートとして、瀬戸内海は利用されてきました。

しかし、瀬戸内海には700以上の島が存在し、潮の流れは複雑。そこで複雑な潮流を乗り越えられる船を操る技術を身につけた在地土豪が「海賊・水軍」と呼ばれるようになっていきました。

室町時代になると海賊たちは、通行量を徴収したり、警固料をもらって船の案内人を務めたりしていました。戦国時代に日本を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「多数の部下、領地、および絶えず出動する船を有する能島殿が有力である」と自身の書簡に記しています。そして「他の沿岸地域では、彼ら(能島殿)を恐れて毎年年貢を納めている」とも書いていました。

戦国時代の海賊たちは沿岸地域の大名たちにも恐れられるほどの実力を持つまでになっていきました。有名な海賊・水軍は、「松浦水軍」「熊野水軍」「村上水軍」「忽那(くつな)水軍」です。

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海賊城3選

ここからは海賊城を3つ紹介していきます。

海賊城ー能島城、来島城、甘崎城海賊城ー能島城、来島城、甘崎城

能島城ー国指定史跡にもなってる海賊城

能島城能島城

能島は愛媛県今治市に属する島で、能島城はこの能島全体をお城として利用していました。

この地域で勢力を誇っていた海賊が村上水軍。この村上水軍が3つの家系に分かれていて、その一つである能島村上氏が能島城を本拠地にしていました・

戦国時代の当主・村上武吉は中国地方の戦国大名・毛利氏の配下になって、大阪湾で行われた木津川口の戦いで織田信長の水軍を撃破しています。

能島城は周囲約850mの小さな島で、周りを激しい潮流に囲まれていることでも有名です。現在潮流体験といって、クルージングしながら激しい潮流を体験することができます。
潮流体験はこちら▶️「能島水軍ー潮流体験

能島城は島全体を3段の平坦地に削っただけで、土塁や堀などの防御設備はありません。そして小さな島なので飲み水を入手できない為、対岸の伯方島や大島で普段は生活し、緊急時に能島城へ立て籠もっていました。

来島城ー来島村上氏の本拠地

来島城来島城

村上一族の一つ、来島村上氏が本拠地にしていたのが来島城。

来島村上氏はもともと伊予(愛媛県)の守護・河野氏の家臣だったけど、のちに豊臣秀吉のもとで大名として独立しています。

来島城は周囲約850m、標高41mの小さな島です。来島城は「一に来島、二に鳴門、三に馬関瀬戸」と言われるほど、潮の流れが速いことで古くから知られていました。

来島城は南北1列に本丸、二の丸、三の丸が並んでいたけど、土塁や堀などの防御施設は作られていませんでした。

来島には住民がいて四国本土からの定期船があるので、訪れやすい海賊城の一つです。

甘崎城ー築城名人・藤堂高虎が築いた海賊城

甘崎城甘崎城

甘崎(あまざき)城は島全体を石垣で囲って要塞化していたお城。もともとは来島村上氏のお城で、築城の名手といわれた藤堂高虎によって石垣や櫓を利用して改修されていました。

藤堂高虎は徳川家康より瀬戸内海の交通の監視を命じられていて、そのために甘崎城を改修して利用していました。

甘崎城は周囲600m、標高20mの古城島という島をお城にしていました。発掘調査で瓦が見つかっていることから、石垣の上には門や櫓が建てられていたと考えられています。

甘崎城の古城島は対岸の島から近いので、潮が引いている時に歩いて渡ることができます。高虎が築いた石垣が残されていて、これが甘崎城の見どころです。

このページに甘崎城の写真などがまとめられています。「甘崎城〜日本唯一の近世城郭海城〜

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海賊城のまとめ

今回は「海賊城」について解説しました。いかがでしたか?

海賊城について簡単にまとめると次の3点になります。

  • 海賊・水軍は海の武士団で、高い操船技術で瀬戸内海を支配していた
  • 海賊城は小さな島をお城にしていたけど、堀や土塁の防御設備は持っていなかった
  • 激しい潮流を利用することで、島に敵を寄せ付けなかった

今回紹介した3つのお城やその他の海賊城を見学するときは、上の3つのポイントを覚えておくとより理解が深まります。

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