今回は「天守の戦闘力」について解説していきます。
天守というと「大名の権力・威光」「お城のシンボル」に近いイメージをだと思います。
西洋の宮殿というと「ベルサイユ宮殿」が有名です。
しかし「ベルサイユ宮殿」は日本の天守とは違って、フランス国王の離宮(別荘)として建てられているんですね。
天守の場合は、天守自体の大きさや建てられた位置(丘や石垣の上などお城の最深部)などから「大名の権力・威光」「お城のシンボル」を示す一面があったこともたしかです。
では、お城は軍事施設である以上、天守にも軍事的役割があったはずです。
この記事では天守の戦闘力・軍事的役割を解説していきます。
- 実際に天守で戦闘は行われたのか?
- 津山城(岡山県)天守の戦闘力
- 姫路城天守の戦闘力
- 天守で戦闘をする意味
Contents
実際に天守で戦闘は起きていたのか?
1576年に織田信長が初めて天主を建て始めました。そこから1615年の大坂の陣までの約40年の間に天守を舞台にした戦闘は行われたことはあったのでしょうか?
正直な話、「天守で戦闘が起きていたかはわかりません。」
江戸時代に書かれた軍記物語では天守での戦闘が描かれてはいるんですが、あくまで軍記物語は戦国時代を知らない世代が書いた時代小説なので本当かどうかはわからないのです。
しかし天守に軍事的機能がなかったわけではありません。
1592年から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、日本軍は朝鮮半島南部(とくに現在のプサン周辺)に多くの日本式の城(朝鮮側は「倭城」と呼んでいました)を築いていました。
その朝鮮で築かれた日本式の城(倭城)には石垣や櫓とともに天守も建てられていました。
上↑の画像は「征倭紀功図巻」という朝鮮側の資料に描かれている「順天倭城」の天守です。
また「熊川倭城」というお城が韓国・プサンの近くにあります。
熊川倭城は日本にあるお城とは違う特徴があります。
下↓の熊川倭城の図を見てください。
熊川倭城に限らず朝鮮で築いた日本式の城(倭城)の多くは天守台が直接城外と接しています。
秀吉の朝鮮出兵当時、朝鮮や中国には天守のような高層建築はなく、秀吉軍が築いた天守には驚いていたことでしょうし、その反面、攻撃のマトにもなったと思います。
もし天守がお城のシンボルや大名の権威・威光のためだけに築かれていたとしたら、戦争中の朝鮮に築くのはおかしくありませんか?
朝鮮は中国に援軍をだしてもらって、大軍で秀吉軍に反撃していました。
反撃を受けていた秀吉軍には単なる飾り・見栄えだけで天守を築く余裕はなかったはずです。
なので「朝鮮のお城に天守が存在していたということは、天守にも軍事的役割があったから築いた」ということです。
では、実際の天守の軍事的役割を見てみましょう。
スポンサーリンク天守の戦闘力とは?津山城(岡山県)
では天守は戦闘でどんな役割を果たしていたのかを検証してみましょう。
ここでは津山城(岡山県)を例にしていきます。
津山城は関ヶ原の戦いののち、津山の地を治めた森忠政(本能寺の変で死んだ森蘭丸の弟)によって改修されたお城です。周辺の河川やガケを利用したお城で、高石垣で丘をひな壇のように階段状にして防御してあります。
まずこの津山城の図を見てください。
天守は本丸に建てられていますが、天守の周りを石塁でかこっているので天守周辺は本丸の中にあっても別の空間になっています。(天守曲輪(くるわ)と呼びます)
本丸とはお城の中で一番重要で中心的な空間です。
その本丸をさらに石塁でかこって天守周辺を別空間にしているのはどうしてでしょうか?
それは最後は天守に立てこもって戦うためでした。
天守周辺(天守曲輪)は石塁のほか、櫓や土塀でかこわれていて天守曲輪単独でも立てこもることが可能でした。
さらに津山城天守には破風がありませんでした。
天守に破風がないことで屋根に邪魔されず狭間(さま・鉄砲や弓矢で狙うために開けた穴)をつくることができます。
そのため、津山城天守には鉄砲狭間が101ヶ所、弓狭間は59ヶ所あり、そのうえ石落としや窓からも鉄砲で攻撃可能でした。
これらの狭間や窓の数から、天守内部には200人以上が立てこもって戦うことができたと想像できます。
天守曲輪には3つの出入口があり、それぞれに門がありました。
これらの門は単独でも破るのは難しかったはずで、そのうえ天守から鉄砲の援護があるので天守曲輪に侵入することはさらに難しくなります。
そして津山城天守への出入口も厳重に守られています。
階段を登ったところに門が一つと天守の真下にも門が一つあります。
たとえ一つ目の門を破ったとしても、階段を登った先の2つ目の門の前は大人数で入れるスペースもなく、真上の天守から鉄砲で狙われるなか2つ目の門を破るのはとても難しかったはずです。
こういう門を90度向きを変えて並べるのはお城の出入口ではよく用いられている方法です。(枡形(ますがた)虎口(こぐち)といいます)
上↑に画像は大阪城の大手門です。
この大阪城の門も津山城天守の出入口と一緒で、2つ目の門の前に大人数が入れるスペースがなく、そのうえ櫓(やぐら)や塀でかこわれているので2つ目の門を破るのは困難でした。
津山城天守は規模こそ小さいですがこの大阪城大手門とおなじ守り方を天守の出入口にも採用していました。
津山城天守の実力
- 天守周辺は石塁や門・櫓(やぐら)などでかこわれていて天守に近づくことが難しかった。
- 天守への出入口も門が二重になっていて天守内部へ侵入することも難しかった。
- 天守周辺で行動するときは常に天守からの攻撃にさらされていた。
- 天守を無理に攻めようとすると味方の被害が大きくなる。
- 天守単独でも戦える、実戦的な天守だった。
姫路城天守の戦闘力
では次に姫路城天守の戦闘力についてみてみましょう。
平成の大改修によって白く美しくなった姫路城天守。
しかし天守は美しいだけじゃなくしっかり戦闘のことも考えられていました。
姫路城天守へのルート
まずは天守へのルートです。
姫路城は天守へのルートが複雑なことでも有名ですが、天守に近づくにつれて猛威をふるいます。
上の画像では天守に向かってまっすぐ通路がのびてますね。
この通路を並んで敵が攻めていくことになります。
天守側からすると縦に並んで攻めてきてくれるので攻撃しやすくなります。
上の画像は大阪城の狭間をのぞいた写真です。狭間はとても狭い穴でここから鉄砲を突き出して狙います。
なので視界が制限されているので左右に動く敵より、前後に動く敵のほうが狙いやすくなるということです。
その後、通路は180度ターンして、その先には櫓と門が待ち構えています。
しかしこの門を破ろうとしている間にも天守から背後を攻撃されてしまいます。
運良く天守真下まで到達したとしても、天守への出入口まで天守の真下を半周しなければいけません。
天守の真下まで来ると、狭間だけじゃなく「石落とし」からも鉄砲で狙われます。
ここまで来るまでに天守から狙われ続け、味方も何人死んだことでしょう・・・
しかし姫路城天守へはまだ入れません。
やっとの思いで天守・小天守にかこまれた中庭まで来ることができましたが、中庭から天守へ入るためにはまだ門が1つあるじゃないですか。
しかも中庭は狭いため大人数が入ることはできません。そのうえ四方をかこまれていて絶体絶命のピンチです。
と、ここまで見てきたように姫路城天守へのルートは門や櫓(やぐら)で守られているところを、天守からの攻撃が加わります。
姫路城を攻める側も相当な犠牲を覚悟しておかないと姫路城天守へは到達できないでしょう。
姫路城天守内のしかけ
姫路城はたとえ天守・小天守以外がすべて占領されたとしても戦いを続けることができるように考えられていました。
お城にこもって戦い続けるためには食べることも考えなければいけません。
天守や櫓は平和な時代には倉庫として使われていたので、天守へ食料を保存しておくことはできます。
姫路城天守で珍しいのは食料を保存しておくだけじゃなく流し台まであることです。
そして天守の地下には井戸もあったので水が豊富にあったことが想像できます。
そして天守内にはトイレもありました。
天守にこもって何日も戦っていると疲労がたまっていきます。そのうえ、天守内が排泄物で汚れているとよけいに戦う気力がなくなってしまいます。天守内を清潔に保つことで1日でも長く戦えるようにと考えられているのですね。
上↑の写真は「石打棚」とよばれるもので、この棚の上に乗って窓から鉄砲で敵を狙いました。
天守の1階や2階では屋根に邪魔されずに天守の真下を狙うことができました。しかし3階、4階となってくると屋根が邪魔して狙えなくなってしまいました。
なので窓の位置を少しでも高くして屋根に邪魔されずにより狙いやすくしようとしたのが「石打棚」です。
この写真ではわかりずらいですが、「石打棚」の上の壁には穴が開けられていて、この穴を使って発砲したときの煙を外へにがしていました。
そして姫路城天守のここまでやるかというしかけがあります。
上↑の写真は「内室(うちむろ)」とよばれるものです。
姫路城天守内の角にあります。
万が一、天守内へ敵が侵入してきたときこの「内室」のなかに兵が隠れています。
そして、敵が近づいて来るとこの「内室」の中から鉄砲で攻撃します。
しかし、戦国時代の鉄砲は連続して発砲することはできないうえ、「内室」のなかは狭く身動きがとれません。
なので敵を倒せたとしてもせいぜい1人。そのうえ「内室」から逃げることができないので別の兵に殺されることはわかった上で「内室」に入らなければいけなかったでしょう。
ふつう、天守を敵でかこまれ、天守内にまで侵入された時点でもう勝ち目はゼロといっていいでしょう。
ではなぜ姫路城は天守内部にまでしかけをつくり、戦おうとしていたのでしょうか?
天守で戦う意味
ここまで紹介した津山城天守や姫路城天守はたとえ天守以外がすべて占領されたとしても、天守単独で戦いを続けることができました。
しかしどう考えても天守内への敵の侵入は防ぐことはできても、敵を追い払うことはできそうにありません。
では何を期待して戦いを続けようとしていたのか。
それは「援軍」です。
姫路城天守・津山城天守は1600年の関ヶ原の戦いから1615年の大坂の陣の間に築かれました。
関ヶ原の戦いから大坂の陣までの15年間には、徳川家康が江戸幕府を開きましたが、まだ大坂には豊臣秀吉の子・秀頼がいました。
この15年間は徳川派と豊臣派の対立があり、いつ第二次関ヶ原の戦いが起きるかわからない状況でした。
そのなかで全国の大名は自分の領地を守るためお城を築いていきました。なのでこの15年間は日本で一番お城がつくられた15年間でした。
豊臣派の大名のほとんどは九州や中国・四国地方に領地を持っていました。そして徳川家康の本拠地は江戸です。
津山城は豊臣派の大名で、姫路城は徳川派の大名のお城でした。
津山城が攻められた時には豊臣派の大名が援軍として、姫路城が攻められた時には徳川家康が江戸から援軍として出陣すると想定されていました。
なので津山城も姫路城も1日でも長く籠城し、援軍を待つことはとても重要なことでした。
1日や2日くらい長く籠城したところで意味があるのかと思ってしまいますが、実際に1日、2日が重要となった戦いがありました。
1600年の関ヶ原の戦いに前しょう戦ともいわれる、「大津城の戦い」です。
大津城(滋賀県)は東軍で、西軍が1万5千の兵で攻めていました。
約1週間の戦いののち、大津城は降伏し開城します。しかし開城した日付がとても重要だったのです。
大津城が開城した日は旧暦の9月15日です。この日は関ヶ原の戦いと同じ日だったのです。
大津城が数日早く降伏し開城していたら、大津城を攻めていた1万5千の兵が関ヶ原にいた西軍側へ合流していたかもしれなかったからです。なので大津城が数日長く籠城したことは東軍にとってはとても意味のあることでした。
関ヶ原の戦いのあとから、全国で築城ラッシュが始まります。
当然、「大津城の戦い」の経験をふまえて、1日でも長く籠城するにはどうしたらいいのかを各大名が考えたことでしょう。
そしてその答えが「天守単独でも戦いを続けられるようにする」ということでした。
- 天守へかんたんに近づけさせない、侵入させない。
- 天守の中に台所・井戸・トイレを備えて、持久を可能にした。
- 天守は飾りではなく、徹底的に戦いのことまで考えられていた。