お城の歴史

軍師官兵衛が築いた九州最大級のお城【福岡城の歴史】を総まとめ

福岡城の歴史

今回は「福岡城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です
  • 福岡城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 福岡城へ行く前に予習しておきたい人
  • 福岡城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは福岡城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントだけを押さえておいても歴史の流れはつかめます。

  • 古代から外交の拠点として重要だった博多
  • 黒田官兵衛・長政親子が大大名にふさわしいお城として福岡城を築城
  • 戦後は公園になり、重要文化財の多門櫓などが残る

この記事で福岡城の歴史に詳しくなって、歴史ドラマ・小説やお城巡りをより楽しんでいきましょう。

福岡城ってどんなお城?

福岡城の場所福岡城の場所

軍師官兵衛が築いた九州最大級のお城・福岡城

福岡城の堀福岡城の堀

九州最大の都市・福岡市の中心にある福岡城。福岡城は現在は舞鶴公園として整備され、毎年春には福岡城さくらまつりが開催されています。

福岡・博多は朝鮮半島や中国との玄関口として、古くから発展してきた街でもあります。

そんな博多にお城を築いたのが、大河ドラマで主人公にもなった黒田官兵衛と息子の長政。官兵衛は秀吉の側近として仕え、天下統一を支えた頭の良い武将。

官兵衛・長政親子が築いた福岡城は天守こそなかったものの、47基もの櫓が建てられた九州1,2を争うほどの大きさのお城でした。

今回はそんな福岡城の歴史を紹介していきます。

福岡城の歴史

戦国時代以前の福岡城

古代から外交の拠点として重要視されていた博多

福岡城と立花山城、名島城の位置関係福岡城と立花山城、名島城の位置関係

福岡城のある九州北部は古くは筑紫郡と呼ばれていました。ここは古代から外国(朝鮮半島や中国)との玄関口として重要な場所でした。

福岡城のあたりには外交のための施設が作られていたことがわかっていて、「日本書紀」には609年に筑紫太宰があったと記されています。7世紀後半には太宰府と筑紫館に分かれ、太宰府は地方行政府として、筑紫館は海外使節の迎賓館として、それぞれの役割を持っていました。平安時代には、「鴻臚館(こうろかん)」が築かれ、唐(中国)や新羅(朝鮮)との外交の窓口を担っていました。1987年に発掘調査によって福岡城三の丸から遺構が発見されています。

鎌倉時代は少弐(しょうに)氏が、室町時代には大内氏がこの地域を治めてきました。戦国時代になるとこの地域は、少弐氏の家臣だった龍造寺氏、周防(山口県)を本拠地にする大内氏、豊後(大分県)を本拠地にする大友氏などが争う場所になっていきます。

豊臣秀吉が九州を平定すると、この地域は毛利元就の息子・小早川隆景に与えられ、博多湾沿いにある名島城を居城とし、この地を治めていきました。

江戸時代の福岡城

黒田官兵衛、長政親子が大大名にふさわしいお城として福岡城を築城

重要文化財の南二の丸多門櫓重要文化財の南二の丸多門櫓

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで日本中の大名たちが石田三成の西軍と、徳川家康の東軍とに分かれて争いました。その結果、徳川家康の東軍が勝利します。

関ヶ原の戦いの時に、博多のある筑前を治めていたのは小早川隆景の養子・秀秋でした。戦後、秀秋は新たに岡山で領地をもらったので移ることに。そして空いた筑前は黒田官兵衛・長政親子に与えられます。息子の長政は関ヶ原での本戦で活躍し、官兵衛は九州で西軍に味方する大名を倒す働きをしたことが、家康に認められました。幕末まで黒田家が筑前を治めていきます。

当初、黒田親子も小早川秀秋が居城としていた名島城を居城にします。しかし、52万石を領有する大名になった黒田家のお城として、名島城では小さく不便でした。そこで新たなお城を築くことにします。それが「福岡城」です。

築城工事は1601年から始まり、6年後の1607年に完成します。さらに黒田親子は領地の国境線上に「黒田六端城」と呼ばれる6つの支城を築いて、さらに防御を固めていました。

福岡城は九州最大級で、熊本城と並ぶお城。熊本城を築いた加藤清正が福岡城を「自分の城(熊本城)は3,4日で落ちるが、福岡城は30,40日は落ちない」と評したと言われています。

福岡城に天守は建てられたのか?

福岡城の天守台福岡城の天守台

福岡城には謎があります。福岡城には天守を乗せるための巨大な石垣(天守台)が残されています。しかしながら、その天守台に天守が建てられていたのかがハッキリしないのです。

福岡城の天守台の大きさは東西25m✖️南北22m、高さ10m。このサイズは姫路城大天守の天守台(24m✖️18m)と比較すると、より大きな天守台だとわかります。そして、天守が建てられていたのならば、姫路城大天守より大きな天守だったでしょう。

1646年作成の「正保福博惣絵図」に描かれた福岡城には、天守台のみが描かれています。このことから1607年完成の福岡城に天守があったならば、完成後40年のあいだで天守が失われたことになります。これまでは黒田官兵衛・長政が、江戸幕府に遠慮して天守台のみをつくり、天守を建てなかったと言われてきました。

しかし天守が存在がうかがわれる文書が見つかっています。福岡藩のお隣り、小倉藩藩主の細川忠興が1620年に息子の忠利に宛てた手紙の中で、「黒田長政が将軍徳川秀忠に、「福岡城の天守と御殿を壊す」と語ったというのを聞いた」という内容が書かれていました。さらに1602年に長政が家臣への文書で、「今月中に天守の柱を立てるよう、大工や奉行に命じるよう」と支持していました。

黒田家は52万石を有する大大名であり、幕末まで改易されることなく存続した大名でした。なので、天守に関する記録や図面などが残っていてもおかしくない。

天守があったのかに決着をつけるためには、新たな資料や発掘調査によって天守が建てられていた遺構や遺物が発見されなければいけません。

明治時代の福岡城

明治になると城内に陸軍の部隊が置かれた

明治時代になると、廃城令によって全国ではお城の建物が取り壊されていきました。しかし福岡城では建物が一斉に取り壊されることはありませんでした。

廃藩置県によって、城内に福岡県庁が置かれていました。その後、福岡城は陸軍の施設となって、城内に兵営が作られ部隊が駐屯していました。1945年の終戦まで、福岡城は陸軍の施設として使われていきます。

明治末まで福岡城には多くの建物が残っていました。大正になると建物は、旧藩主・黒田家の別邸やお寺の門として移築されたり、取り壊されたりしています。

黒田家の別邸に移築されていた武具櫓などは太平洋戦争中のアメリカ軍の空襲によって焼失してしまいました。

昭和・平成の福岡城

戦後は公園になり、重要文化財の櫓などが残る

下之橋御門と伝潮見櫓下之橋御門と伝潮見櫓

太平洋戦争後、福岡城は舞鶴公園として整備され、一般に開放されました。

その後は城跡として国の史跡に登録され、南二の丸西隅櫓と西平櫓が「南二の丸多門櫓」として重要文化財になりました。さらに伝潮見櫓、下之橋御門、旧母里太兵衛屋敷長屋門、祈念櫓が福岡県文化財になっています。

下之橋御門は2000年に不審火によって一部を焼失。この門はもともと二重の櫓門で、のちに一重に改められていました。不審火からの復興に際して、門の部材に残る痕跡、発掘調査、絵図、文献などをもとにして2008年に二重櫓門として復元されました。

そのほかに小早川隆景・秀秋が居城とした名島城から、福岡城築城の際に移築したと伝わる名島門も城内に現存。また本丸の正面玄関にあたる表御門は、1918年に崇福寺に払い下げられていて、現在も山門として残されています。

福岡城の歴史年表

609 日本書紀に「筑紫太宰」という記録が記されている
7世紀後半 「筑紫館」が海外使節の迎賓館と宿泊施設として作られている
平安時代 「鴻臚館(こうろかん)」が唐や新羅との外交の窓口として機能していた
1532〜55 立花鑑載が立花山城の出城として名島城を築城
1588 小早川隆景が筑前を与えられ、名島城を改修して居城とした
1599 小早川秀秋が名島城城主になる
1600 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利

黒田官兵衛・長政親子に筑前52万石が与えられる

1601 福岡城の築城開始
1607 福岡城が完成
1620 小倉藩主細川忠興の手紙の中に福岡城天守について記述されていた
1632 黒田家家老の栗山大膳が2代目黒田忠之の謀反の疑いを幕府に訴える黒田事件が勃発
1646 「福博惣絵図」に福岡城が描かれている。この時には天守がなかった
1853 11代目長溥が福岡城を大改修
1871 廃藩置県によって城内に福岡県庁が置かれる
1873 廃城令で存城処分になり、陸軍の部隊が駐屯する
1902 保管してあった火薬が爆発し、鉄物櫓が焼失
1918 祈念櫓が大正寺に観音堂として移築される
1952 伝潮見櫓が福岡県文化財に指定
1956 下之橋御門、旧母里太兵衛屋敷長屋門が福岡県文化財に指定
1957 祈念櫓が福岡県文化財に指定

福岡城跡が国の史跡に指定

1971 南二の丸の西隅櫓と西平櫓が南二の丸多門櫓として重要文化財に
1983 祈念櫓が元の位置に移築される
1987 三の丸から平安時代の外交施設「鴻臚館」の遺構が発見される
2000 不審火によって下之橋御門が一部を焼失
2008 下之橋御門の修復が完了
2016〜18 南二の丸多門櫓の修復工事が行われた

福岡城の歴史 まとめ

今回は福岡城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

福岡城の辺りは古代から外国との窓口として重要な場所でした。そしてそこに秀吉の側近として天下統一を支えた黒田官兵衛が福岡城を築城しました。

九州で一番大きな街のお城に天守があったのかは謎ですが、重要文化財の多門櫓をはじめ、大きな堀や石垣、門などが残されているのでぜひ見学してみてください。

最後にもう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 古代から外交の拠点として重要だった博多
  • 黒田官兵衛・長政親子が大大名にふさわしいお城として福岡城を築城
  • 戦後は公園になり、重要文化財の多門櫓などが残る

参考資料