お城の歴史

戦国最強武将の一人、上杉謙信の【春日山城の歴史】を総ざらい

春日山城の歴史

今回は「春日山城の歴史」を紹介します。

こんな人にオススメの記事です

春日山城の歴史をおおまかに知りたい人
お城に興味を持ち始めた人
春日山城へ行く前に予習しておきたい人
春日山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは春日山城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントをおさえておくだけでも、歴史の概要はつかめます。

  • 春日山城を拠点に関東や信濃へ出陣した上杉謙信
  • 上杉家当主の座を争った御館の乱
  • 時代遅れで不便だったため廃城になった春日山城

お城に限らず、神社やお寺、そのほかの歴史的建造物でも建てられた時の時代背景や歴史を知っていると見学した時により楽しめ、そして歴史ドラマや小説なども理解度が増してストーリーに入り込むことができます。

この記事で春日山城の歴史に詳しくなってお城めぐりや歴史小説・ドラマをもっと楽しんでいきましょう。

Contents

春日山城ってどんなお城?

戦国最強の一人、上杉謙信の居城・春日山城

春日山城の場所春日山城の場所

新潟県上越市にある春日山城。

春日山城は室町初期、天皇家が2つに分かれて争っていた南北朝時代に築城されたと伝わっています。
戦国時代には上杉謙信の居城であり、負け知らずの謙信の本拠地を攻めようとする者はついに現れませんでした。

春日山城は標高182mの春日山(針ヶ峰)に築かれていて、北側には日本海と越後府中(直江津)が、南側には高田平野を見渡すことができます。

春日山城は麓からの高さは169mしかなく、それほど高いわけではない。
それでも巧みな縄張で防御力をアップさせていて、お城の規模のわりには土塁や堀切の数は少ないですけど、山全体がお城化されていて戦国随一のお城にふさわしいです。

本丸からの日本海の眺めはオススメです。

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春日山城の歴史

ここからは春日山城の歴史を紹介していきます。

戦国時代の春日山城

越後守護代・長尾家と春日山城

春日山城からの日本海と直江津春日山城からの日本海と直江津

春日山の始まりは平安時代までさかのぼります。
958年、奈良の春日大社から分霊を勧進して、春日山に春日神社を建立していました。

その後室町初期・南北朝時代になると、越後(新潟県)守護・上杉氏が越後府中の守護所の詰城として春日山城を築城したと伝わっています。

上杉謙信の先祖にあたる長尾景忠がこの時期に活躍していました。
景忠は上杉氏の筆頭家臣として共に関東へ出兵し、越後や上野(群馬県)のNo.2にあたる守護代を任されています。
景忠の子孫たちが守護代を継いでいき、上杉謙信へとつながっていきます。

長尾氏は守護代として守護・上杉氏を支えていました。
しかし戦国時代になると次第に対立するようになって、上杉謙信の父親・長尾為景が守護・上杉房能(ふさよし)を追放。為景は妹婿にあたる上杉定実(さだざね)を守護として擁立し、実質的に越後を支配しています。

守護追放から2年後、追放された房能の実兄で関東管領・上杉顕定(あきさだ)が報復のために越後へ攻めてきました。
長尾為景は一時越後から脱出。翌年、為景は態勢を立て直して反撃し、上杉顕定を戦死に追いやっています。

謙信の父・長尾為景のころ、春日山城は長尾氏のお城になっていたと考えられていて、為景は春日山城を改修して居城としていました。

春日山城を拠点にして関東や信濃へ出陣した上杉謙信

春日山城にある上杉謙信像春日山城にある上杉謙信像

長尾為景が亡くなると、長男・晴景(謙信の兄)が跡を継ぎました。

晴景は父・為景とは違い穏健な政策をとって、地元の武士たちと親密な関係を築こうとしていました。しかし他の大名との外交問題もあり家臣をまとめきれず、家臣・黒田秀忠が謀反を起こしています。

黒田秀忠は春日山城へ攻めてきて、長尾氏と交戦。晴景の弟2人(景康、景房、検診の兄)が戦死する事態になってしまいました。
このとき16歳だった謙信は当主・晴景に代わって黒田秀忠の黒滝城を攻撃。結果、秀忠を降伏させています。(このころの謙信は長尾景虎と名乗っていました)

このことから謙信には軍事の才能があり、家臣たちは兄・晴景の代わりに謙信が長尾家当主になることを望むようになっていきます。
兄・晴景は長尾家が分裂する事態を恐れて、謙信に当主の座を譲って隠居。
謙信が長尾家の当主になりました。

当主になった謙信は越後統一を進めていきました。
また関東地方で北条氏に攻められて逃れてきた、関東管領・上杉憲政をかくまっています。
憲政の要請に従って、謙信は北条氏と戦うために関東へ出兵を繰り返していきます。
また謙信は憲政の養子となることで、上杉姓と関東管領という役職を継いで「上杉謙信」となりました。

上杉謙信は軍事の才能があり、他の大名から恐れられていました。
そのためか、謙信が生きている間に春日山城を攻めようとする武将・大名は一人も現れませんでした。

上杉家当主の座をめぐって争った御館の乱

直江兼続の屋敷があったとされる曲輪跡直江兼続の屋敷があったとされる曲輪跡

1578年3月13日、上杉謙信が春日山城で急死。享年49。死因は脳いっ血と言われています。
結婚していなかった謙信には子供がいなくて、養子を3人迎えていました。しかし謙信は生前に後継者を決めていなかったために、後継者争いが始まり上杉家が分裂してしまいます。(御館の乱)

後継者になる権利を持っていたのは2人。
1人は上杉景勝。
景勝は謙信の姉(仙桃院)と長尾政景の子供で、謙信の甥っ子にあたります。
もう1人は上杉景虎。
景虎は北条氏康の子で、この時の北条家当主の北条氏政の弟です。景虎は上杉家と北条家との同盟(越相同盟)で、人質として上杉家に預けられていました。
謙信は景虎を気に入っていたといわれ、人質から自分の養子にして、若い時の名前「景虎」を与えてたり景勝の妹と結婚させています。

この2人はそれぞれ春日山城に屋敷を持って生活していました。

謙信の死から2日後、景勝側が先手を打ちました。
春日山城の本丸を占拠したのです。
景勝は本丸を占拠することで、自身が正当な後継者だと内外に宣言し、一緒に金蔵をおさえることで謙信が貯めていた軍資金も手に入れました。

景勝と景虎はしばらくにらみ合っていました。しかし景虎が春日山城を脱出し、謙信が保護していた上杉憲政が住む御館に入っています。

景虎は実家である北条氏の援軍を頼りに景勝に対抗しようとし、景勝は謙信が残した軍資金を使って武田勝頼を味方につけていました。ここから上杉家の後継者争いはほかの戦国大名を巻き込んだ争いに発展していきます。

景勝と景虎、お互いに引かず一進一退の攻防が続きます。
謙信の死から11カ月後、景勝が景虎のいる御館を総攻撃。景虎は抵抗しきれずに御館を脱出。実家である北条氏へ戻ろうとしました。

しかし途中立ち寄った鮫ヶ尾城で城主・堀江宗親に裏切られてしまい、景虎はここで自刃しています。

その結果、景勝は御館の乱に勝利し、名実ともに上杉家の当主になりました。

時代遅れで不便だったので廃城になった春日山城

堀秀治が築いた総構えの土塁と堀堀秀治が築いた総構えの土塁と堀

御館の乱に勝利して正式に上杉家当主になった上杉景勝。
しかし急速に勢力を拡大していた織田信長に攻められ窮地に。
けれど本能寺の変で織田信長が死んだことで、景勝は生き延びることができました。

その後、景勝は豊臣秀吉に接近し、秀吉の天下統一を支えていきました。
秀吉政権のもとで景勝は越後90万石の大大名になり、五大老の1人として政権運営を担っていきます。

秀吉晩年に、景勝はそれまでの越後から会津120万石への領地替えを言いわたされました。
そのため景勝は上杉家(長尾家)代々の居城だった春日山城を離れることに。

景勝に代わって春日山城主になったのが堀秀治。
秀治は信長の側近(小姓)として仕えていた堀秀政の息子です。

秀治は上杉謙信以来ずっと合戦を経験していない春日山城を改修。櫓や総構え(監物堀)を整備しました。
それでも戦国の山城である春日山城で政務を行うには不便でした。そこで秀治は福島(上越市港町)という場所に新しく築城を計画。

関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に味方していた秀治は、戦後もそのまま越後の領有を認められています。
秀治は1606年に31歳の若さで亡くなってしまいました。築城工事は息子の忠俊が引き継いで、1607年に福島城を完成させています。

福島城の完成にともない、上杉謙信の居城だった春日山城は廃城になりました。

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春日山城の歴史年表

958 奈良の春日大社から分霊を勧請して春日山に春日神社を建立
南北朝時代 越後守護上杉氏が越後府中の守護所の詰城として春日山城を築城
1507 長尾為景が上杉定実を擁立して守護・上杉房能を追放
1509 関東管領・上杉顕定に攻められ長尾為景と上杉定実は越後から脱出
翌年に、越後を取り戻す
1504〜28ころ 為景が春日山城を改修し、自身の居城としている
1536 為景が隠居して、長男・晴景が家督を継承
1545 黒滝城主・黒田秀忠が晴景に謀反。
春日山城へ攻めこみ、晴景の弟2人(景康、景房)を殺害
1548 晴景が謙信に家督を譲って隠居する
1550 越後守護・上杉定実が死去
室町幕府将軍・足利義輝は上杉謙信を越後国主として認める
1578 上杉謙信が死去
後継者の座をめぐって争いが起きる(御館の乱)
1579 上杉景勝が上杉景虎を自刃に追いやって御館の乱に勝利し、上杉家当主となる
1598 景勝は秀吉の命で会津へ移り、代わって堀秀治が春日山城主になる
1600 秀治が福島で築城を計画する
1606 秀治が急死
息子の忠俊が築城工事を引き継ぐ
1607 忠俊が福島城を完成させて本拠地にしたため、春日山城は廃城に
1901 山麓に上杉謙信を祀った春日山神社が建てられる
1931 毘沙門堂が再建される
1935 お城跡が国史跡に指定される
1969 上杉謙信の銅像が建てられる
1974 東城砦(春日砦)周辺が国の史跡に追加指定される
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春日山城の歴史 まとめ

今回は「春日山城の歴史」を紹介しました。

春日山城は上杉謙信の居城として、謙信の活躍を支えていました。

上杉謙信にふさわしい大規模な山城でありながら、堀切や土塁などの防御施設は多くはありませんでした。
他の大名から恐れられていた上杉謙信の本拠地である春日山城を攻撃しようとする大名・武将が現れなかったために、春日山城では堀や土塁はあまり必要ではなかったのかもしれません。

現在でも本丸や直江屋敷跡、景勝屋敷跡など多数の曲輪が残されていたり、ふもとには総構えの監物堀と土塁が復元されています。
本丸からを日本海、直江津を一望することができ、謙信の気分になって眺めてみるのも良いかもしれません。

最後に歴史のポイントをおさらいしておきましょう。

  • 春日山城を拠点に関東や信濃へ出陣した上杉謙信
  • 上杉家当主の座を争った御館の乱
  • 時代遅れで不便だったため廃城になった春日山城

春日山城へのアクセス

  • 新潟県上越市大字中屋敷
  • 電車での行き方:トキ鉄・妙高はねうまライン「春日山駅」より徒歩40分
  • クルマでの行き方:北陸自動車道「上越IC」より15分、上信越自動車道「上越高田IC」より20分

詳しくはこちら「春日山城跡ー上越観光Navi

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