今回は「山形城の歴史」を紹介します。
- 山形城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 山形城へ行く前に予習しておきたい人
- 山形城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは山形城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントの部分だけを読んでも、歴史の流れは掴めるます。
- 最上氏代々の山形城を最上義光が大城郭に改修
- 城主が変わるたびに領地が減少し、山形城は維持困難に
- 大手門や橋が復元され、かつての姿を取り戻しつつある山形城
山形城の歴史に詳しくなって、お城めぐりや歴史ドラマ、小説などより楽しんでいきましょう。
Contents
山形城ってどんなお城?
最上氏と共に発展し東北随一の大城郭になった山形城
まずは山形城がどんなお城なのか紹介します。
山形県の県庁所在地・山形市の中心部にある山形城。霞城公園になっている山形城二の丸までの面積は約25ヘクタールで姫路城の内曲輪の23ヘクタールより広く、山形城は日本有数の面積(広さ)を持ったお城でした。
現在の山形城は、「霞城(かじょう)公園」として一般に開放されていて、公園やその周辺には博物館や最上義光歴史館、美術館などの文化施設があり、お城以外の観光スポットも揃っています。
また城内には約1500本もの桜が植えられていて、時期になると「霞城観桜会」が催され、ライトアップされた夜桜などを楽しむことができる山形随一の桜スポットにもなっています。
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ここからは山形城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。
戦国時代の山形城
最上氏代々の山形城を最上義光が大改修
山形城の始まりはおよそ700年前、室町初期・南北朝時代までさかのぼります。1357年に斯波兼頼という人物が山形城のもとになるお城を築いています。このお城はのちの山形城の本丸ほどの大きさで、二の丸の辺りにあったとされています。
斯波兼頼がお城を築いた場所は羽州街道と仙台街道が交わり、最上川の水運も利用できるという交通と物流の重要拠点でした。兼頼の子孫がこの地域の地名だった「最上」を名乗るようになり、のちの最上氏へとつながっていきます。
最上氏が一番栄えた時期は戦国時代、11代目・最上義光(よしあき)の代でした。
義光は家康より3つ年下の1546年生まれ。伊達政宗の母は義光の妹で、正宗は甥っ子。義光は東北地方で周辺の大名を打ち破って領地を拡大していきました。そして豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた小田原攻めに参加することで、義光は秀吉からそれまでに獲得した領地を認められました。
その後、義光は山形城の大改修を行っています。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために滞在していた名護屋城(佐賀県)や堺(大阪府)から山形の家臣へ宛てた手紙の中で、義光はお城の改修工事の進捗を確認していました。
秀吉の死後、石田三成の西軍と徳川家康の東軍が争った関ヶ原の戦いでは、義光は徳川家康の東軍として参加。関ヶ原の戦いのキッカケを作った上杉景勝の軍隊と争いました(長谷堂城の戦い)。戦後、徳川家康から領地の加増を受けて57万石の大大名に。これは伊達政宗の仙台藩60万石と並ぶ東北1、2の大名でした。
義光は57万石の大大名にふさわしいお城にするため、さらに山形城の改修を重ねていき、城下町も整備していきました。
江戸時代の山形城
城主が変わるたびに領地が減少、山形城は維持困難に
江戸時代、義光の死後に最上氏は長くは続きませんでした。義光の孫・義俊のときに、家臣同士の争いを収めることができなかったとして、江戸幕府によって領地とお城を取り上げられてしまいました。
最上氏に代わって城主になったのが鳥居忠政。忠政の父・鳥居元忠は徳川家康の忠臣として有名な武将でした。忠政が城主になると、山形城を大きく改修しています。それまで本丸の出入り口は東西2ヶ所だったのを、北と南東に変更。忠政は二の丸にも手を加えていて、形は現在の四角形になり、出入り口も5つから4つに変更されました。
鳥居氏の後、山形城主になる大名は長続きせず、次々に城主が変わっていきました。鳥居氏のあと幕末まで累計12家20人が城主になっています。
しかし城主が変わっていくたびに領地が減っていきました。当初最上氏が57万石あったのに対して、幕末に山形城主になった水野氏は5万石しかありませんでした。もともと山形城は義光が57万石の大名にふさわしい大きさに改修。しかし5万石では山形城の維持をしていくのは困難でした。
1767年に城主になった秋元涼朝(すけとも)は、荒廃した山形城の様子を絵図に描かせていました。この絵図の中では、櫓のシャチが片方なくなっていたり、二の丸東大手門の土塀が数カ所破損。西の門の橋はなくなっていました。幕末には三の丸が畑になっていました。
明治時代の山形城
明治以降は陸軍の管轄になり、部隊が駐屯
明治時代になると廃城令が出されて、全国のお城の建物は取り壊されていきました。山形城でもほとんどの建物がこの時期に壊されています。
のちに山形市は山形城本丸と二の丸を取得し、陸軍省へ部隊の誘致を希望。1896年から山形城に陸軍部隊が駐屯するようになり、この頃本丸の堀が埋められました。
そして1945年の終戦まで、山形城に陸軍部隊が駐屯していました。
現在の霞城公園の桜は、かつて日露戦争(1904〜05年)から帰還した将兵が植えたものです。
昭和・平成の山形城
大手門や橋が復元され、かつての姿を取り戻しつつある山形城
戦後、山形城跡は山形市へ払い下げられ、1949年より霞城公園として整備され一般に開放されました。
その後、山形市市制90周年記念事業として、「二の丸東大手門復元」が決定。史実調査が行われ、古絵図や文献、幕末の古写真などを収集して検討を重ねていきました。1987年から復元工事に着手して、91年に東大手門が完成しました。
その後も山形市は建物の復元を進めていて、レーダー調査による本丸遺構調査を実施。94〜95年にかけて、本丸の堀の発掘調査も行われました。96年には本丸の大手門、一文字門の発掘調査が行われ、約100年ぶりに石垣が地中から出てきました。その後、一文字門周辺の石垣修復工事が実施され、二の丸と本丸をつなぐ木橋を木造復元しました。その後も本丸南側の堀の復元と土塁の整備し、一文字門の高麗門と土塀も復元されています。
現在は本丸一文字門の櫓門復元のために古写真や実測図などの資料収集を行っています。
スポンサーリンク山形城の歴史年表
1356 | 斯波兼頼が山形に入る |
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1357 | 兼頼が山形城のもとになるお城を築城 |
1592〜1615 | 最上義光が山形城を東北随一の大城郭に拡張・改修 |
1614 | 最上義光が69歳で亡くなる |
1622 | 最上義俊が家臣の争いを収めることができずに領地を取り上げられる 代わって鳥居忠政が城主に |
1628 | 忠政が亡くなる この頃には鳥居氏の山形城改修が終わる |
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1636 | 鳥居氏に代わって保科正之が城主に |
1644 | 徳川家康の孫・松平直基が城主に |
1746 | 松平乗佑が山形城主に、この頃から山形城の維持が困難に |
1767 | 秋元涼朝が城主に 三の丸に新御殿建造 |
1845 | 天保の改革の失敗による左遷で水野忠精が城主に |
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1870 | 水野忠弘が最後の城主になり、廃城となる |
1896 | 本丸と二の丸が陸軍の駐屯地に 本丸の堀と土塁が壊される |
1949 | 山形城跡が霞城公園として開放される |
1986 | 城跡が国の指定史跡に登録 |
1991 | 二の丸東大手門が復元完了 |
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2006 | 本丸一文字門の大手橋が復元完了 |
2014 | 本丸一文字門の高麗門と土塀が復元完了 |
山形城の歴史 まとめ
今回は山形城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
山形城は最上義光が大名として成長していくと共に大きくなっていったお城でした。しかし最上氏のあとの大名家は最上氏ほどの領地を与えられませんでした。なので、江戸時代後半になるとお城の維持が困難になって、老朽化しても放置されている状態でした。
現在、山形城では本丸の櫓門や御殿の復元計画があり、義光の山形城を楽しめる日が来るのが楽しみですね。
最後に歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 最上氏代々の山形城を最上義光が大城郭に改修
- 城主が変わるたびに領地が減少し、山形城は維持困難に
- 大手門や橋が復元され、かつての姿を取り戻しつつある山形城
参考資料