今回は「四国のお城の特徴」について解説していきます。
四国は瀬戸内海に面していて、古くから近畿地方や中国地方と強い結びつきがありました。
四国の戦国時代は、なかなか四国を統一できる実力をもった勢力がでてきませんでした。
のちに長宗我部氏が四国統一に王手をかけたのは「本能寺の変」の後という戦国も終わりに近づいてきた時でした。
では四国のお城の特徴とはなんでしょうか?
- お城の建物がたくさん残った四国
- 四国の主なお城は他の地域からやってきた大名が建てていた
Contents
お城の建物がたくさん残っている四国
四国は古くから近畿地方との交流も盛んで、戦国時代の物流の中心だった瀬戸内海にも面していました。
そのため、天下統一後の豊臣秀吉や徳川家康は瀬戸内海の物流を管理するために自分の配下の武将を四国へおくり、築城を命令しました。
その結果、四国は近畿・中国地方についで天守や石垣を備えたお城が多く残されることになりました。
現在、現存している天守は12天守あって、そのうちの4天守は四国にあります。
丸亀城天守(香川県)、伊予松山城天守(愛媛県)、宇和島城天守(愛媛県)、高知城天守(高知県)
また、高知城には天守以外にも「本丸御殿」「城門」「多聞櫓」「土塀」と本丸のほとんどの建物が残っている珍しい例です。
その他のお城にも多数の櫓や門が多く残されていて、高松城(香川県)には櫓・3基と城門・2基、大洲城には櫓・4基、丸亀城には大手門などが現存しています。
特に伊予松山城には21棟(天守・櫓6基、門7基、塀7棟)もの重要文化財があります。(復元された建物を含めると50棟の建物が林立するお城である)
スポンサーリンク四国のお城の特徴 主なお城は他の地域からやってきた大名が建てていた!
現在でも多くの建物が残されている四国のお城ですが、実はそのほとんどが他の地域からやってきた大名が建てたお城だったのです。
四国は土佐(高知県)の長宗我部氏が四国統一目前に豊臣秀吉の四国攻めに破れ、土佐(高知県)以外の領地は奪われてしまいました。
戦国時代には瀬戸内海は大坂と博多や朝鮮・中国を結ぶ重要な物流ルートでした。瀬戸内海の物流を管理・独占したい豊臣秀吉や江戸幕府を開いた徳川家康は、四国の瀬戸内海沿いには自分の配下の武将を送り込み領地を与えていきました。
豊臣秀吉のもとでは、生駒親正(岐阜県出身)が高松城を、蜂須賀家政(愛知県出身)が徳島城(徳島県)を、藤堂高虎(滋賀県出身)が宇和島城を築城していきました。
彼らによって豊臣秀吉の持っていた築城技術を使い、四国に初めて近世城郭(織田信長の安土城以降のお城のこと)が建てられました。
関ヶ原の戦いののち、徳川家康によって全国的に大名の配置転換されました。
このとき四国では、山内一豊(愛知県出身)が高知城を、加藤嘉明(愛知県出身)が伊予松山城を、藤堂高虎が今治城(愛媛県)を築城しました。
四国には長宗我部氏や三好氏など有力な戦国大名がいて、それぞれお城を築いていました。(岡豊城(高知県)や勝瑞城(徳島県)など)
しかし、その後の豊臣秀吉や徳川家康の時代に四国へやってきた大名たちはもともと四国にあったお城は使わず廃城として別の場所に築城していきました。(山内一豊は岡豊城を使わずに高知城を築城)
四国にもともとあったお城が使われなかった理由は、下記でした。
- そのほとんどが中世城郭(安土城以前のお城、おもに土作りで石垣ではなく土塁や空堀が使われていた)で防御力が低かったこと
- 豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のために迅速に出兵することが求められたため、街道沿いや水運が利用しやすい場所へ移動するため
藤堂高虎が築城した宇和島城・今治城は海に面した場所に築城された「海城」で、海を防御と水運のために使用していました。
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