今日は「九州のお城の特徴」について解説していきます。
九州地方は朝鮮半島のすぐとなりにあることで、古代から朝鮮半島や中国大陸をいやでも意識しなくてはいけませんでした。
鎌倉時代の元寇では実際に元軍に九州に上陸されてもいます。そして、豊臣秀吉の時代には朝鮮出兵のための出陣基地となるなど日本の玄関口となってきました。
そんな日本の玄関口・九州のお城の特徴は何だと思いますか?
- 古代からの石垣が残る九州
- 石垣の中心地となった九州
では、九州のお城の特徴をみていきましょう。
Contents
古代からの石垣が残る九州
九州の石垣の歴史は古く西暦600年代(天智天皇のころ)までさかのぼります。
この頃の天皇だった天智天皇は朝鮮半島の勢力争いで百済(くだら)という国の味方となるも白村江(はくすきのえ)の戦いで負け、百済も滅亡してしまいます。
その後、「朝鮮半島を統一した新羅と中国大陸の唐が連携して日本を攻めてくるのでは??」と天智天皇は危機感を覚え、福岡県を中心に「朝鮮式山城」や「神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ)」を築かせます。(日本書紀にでてくる山城を朝鮮式山城と、でてこない山城を神籠石系山城と呼んでいるだけでそのほかに差異はない)
「朝鮮式山城」と「神籠石系山城」は構造的にはどちらも同じで、丘陵につくられている。石垣で固められた城壁が山の尾根を伝って谷を越えて、周囲数㎞にわたって丘陵を取り囲むように築かれています。
また、当時九州の政治の中心だった太宰府と博多湾との間に水城(みずき)と呼ばれる水堀をもった土塁も築かれています。
時代が進んで鎌倉時代には中国大陸の元軍が九州へと攻めてきました(元寇)。
元は1274年と1281年の2回にわたって攻めてきて、1回目・1274年の時は初めて見る元軍の戦術や兵器にとまどい苦戦しました。
1回目は悪天候(神風)によってなんとか退けたものの、2回目以降に備えて石築地(元寇防塁)を博多湾周辺に築きました。
元寇2回目・1281年のときは、元軍の戦術を研究していたことと石築地(元寇防塁)によって元軍を撃退することができました。
石垣の中心地となった九州
元寇以降、九州では大規模な石垣は築かれることはなくなりました。
九州のお城も他の地域(近畿や関東など)と同様に土づくりの山城が中心となっていきました。(石垣は部分的に使われる程度でした)
戦国時代になって、近畿地方で織田信長の安土城(滋賀県)や豊臣秀吉の大坂城(大阪府)のような石垣をもった近世城郭(安土城以降のお城、おもに石垣や天守を持つ)が築かれるようになってきました。
九州での近世城郭は秀吉の九州平定(1587年)以降から築かれています。
九州初の近世城郭は秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛の中津城(大分県)だとされています。
その後の朝鮮出兵のときには、九州初の天守が名護屋城(佐賀県)で築かれました。
名護屋城の石垣は、石垣技術を持った秀吉配下・加藤清正などと一緒に九州の大名が協力して築きました。そのため九州の大名は石垣の技術を学ぶことができ、朝鮮出兵・関ヶ原の戦いのあと九州各地に立派な石垣をもつお城を築いていきました。
とくに熊本城(熊本県)では、加藤清正が石垣の勾配に強い反りをつけて強度を高める「清正流石垣」と呼ばれる技法で石垣を築きました。
関ヶ原の戦いのあと政治的・軍事的な緊張があり全国的に築城ラッシュがありました。九州では有力な外様大名が集まっていたこともあって各地に大城郭が築かれていきました。
黒田長政の福岡城(福岡県)、細川忠興の小倉城(福岡県)、寺沢広高の唐津城(佐賀県)、鍋島直茂の佐賀城(佐賀県)などがある。
立派な石垣とともに各地に天守も築かれました。しかし、江戸時代に焼失してしまい、幕末まで残っていた天守は柳川城(福岡県)と熊本城のみでした。その後、明治初期に柳川城・天守は解体され、熊本城・天守は西南戦争のなか焼失してしまいました。なので九州では現存している天守はありません。
天守は現存していませんが、熊本城には宇土櫓が現存しています。この宇土櫓は熊本城では櫓とされていますが、他のお城では十分に天守と言ってよいほどの大きさを持っています。
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