今回は「仙台城の歴史」について解説していきます。
- 仙台城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 仙台城へ行く前に予習しておきたい人
- 仙台城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは仙台城の歴史のポイントを3つ紹介します。このポイントを押さえておくだけでも仙台城のおおまかな歴史を知ることができます。
- 伊達政宗が岩出山城から千代城へ移り、仙台城とする
- 仙台城本丸には桃山風書院の大広間(御殿)が建てられていた
- 平和な時代になり、2代目忠宗が二の丸を築いて、住居と政治の中心にする
この記事で仙台城の歴史に詳しくなって、観光も歴史ドラマも楽しんでいきましょう!
Contents
仙台城とはどんなお城?
まずは仙台城とはどんなお城なのかをまとめました。
伊達政宗が築いた東北随一のお城
仙台城とは、伊達政宗が仙台市にある青葉山に1600〜2年にかけて築かれた平山城。青葉山に築かれたことから別名「青葉城」とも呼ばれています。
伊達政宗が仙台城を築いた時期は関ヶ原の戦いの直後で、徳川家康の天下になるのか豊臣家の天下になるのかハッキリしていませんでした。そのため仙台城は実戦を想定した縄張(お城の構造)になっています。
仙台城は北から東にかけて流れる広瀬川を堀としていました。青葉山に築かれた本丸は東側と南側は崖に守られていて、本丸の西側に連なる尾根筋を大きな堀切で遮断しています。仙台城は、本丸の三方向が崖や堀切で守られている強固な造りのお城でした。
仙台城の防御力の高さは、スペイン使節のビスカイノによって「金銀島探検報告」に記録されています。この記録では仙台城のことを「日本の最も勝れ、また最も堅固なるものの一つ」と記しています。
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ここからは仙台城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで見ていきます。
戦国時代の仙台城
伊達政宗が仙台城を築く以前は「千代(せんだい)城」が築かれていました。千体の仏像が安置されていたから、千代(千体)城と称されていました。
戦国時代には、政宗の叔父・国分盛重が千代城の城主を勤めていました。のちに盛重は政宗と対立し逃亡。千代城は放置されていました。
放置されていた千代城に目をつけたのが伊達政宗でした。
伊達政宗が岩出山城から仙台城へ移った理由
政宗は仙台城以前は岩出山城を居城としていました。
しかし岩出山城には3つのデメリットがあり、このデメリットのために政宗は岩出山城からの引越しを考えるようになります。
- 岩出山城は政宗の領地の中で西に偏っていたこと
- 主要な街道から外れていたこと
- 山間部にあり城下町が狭く、発展させられないこと
政宗は当初、「千代」、「榴岡(つつじがおか)」、「大年寺山」、「石巻日和山」を新しいお城の候補地と考えていました。そしてこれらの候補地の中から、家康の許可を得たのが「千代」だったのです。
仙台城が完成した時に、政宗は「千代」から「仙台」へと名を改めています。
仙台城に天守を建てなかった伊達政宗
家康の許可を得て、政宗が仙台にお城を築き始めたのは関ヶ原の戦いの直後1600年12月からでした。(関ヶ原の戦いは1600年9月)
本丸は青葉山の上に造られ、断崖絶壁と広瀬川によって守られた堅固なお城でした。本丸には5つの櫓や城門があり、桃山風書院建築の御殿も建てられています。
政宗は御殿を建てるために京都から有名な大工や絵師など優れた職人を呼び、桃山建築の粋を集めて建てさせていました。職人たちは瑞巌寺や大崎八幡神社の建設にも携わっています。
本丸には掛造で建てられた建物も。京都清水寺の舞台のように、本丸東側の崖からせり出すように建てられていました。書院造りの建物で、崖側には「浜縁(はまえん)」という眺望を楽しむための縁側も造られています。
伊達者の語源が伊達政宗と言われるように、政宗は派手好きな人だったと思います。けれど仙台城には天守を載せるための天守台石垣は築かれていますが、天守は建てられていません。これは家康や幕府に遠慮して、天守を建てなかったと言われています。
江戸時代の仙台城
平和な時代になって2代忠宗が築いた二の丸
政宗の子•忠宗の代になると、江戸幕府の世の中も安定しきて平和な時代になっていきます。
この頃になると合戦に備える必要性も薄れてきていたので、高所にある本丸と麓を行き来することの不便さが目立つようになっていきます。
忠宗はお城を改修して、本丸の北側の麓に新たに二の丸を築きます。現在、東北大学がある場所です。
二の丸には藩主の住居や、政治の場としての政庁や能舞台が作られました。藩主の公邸と私邸を両方兼ね備えていた場所でした。
明治時代の仙台城
仙台城は江戸時代に何度も火災や地震の被害にあい、その都度御殿などを再建してきました。
幕末から明治維新にかけて、仙台藩は会津藩や米沢藩などと奥羽越列藩同盟を結成。薩摩・長州を中心とする明治政府軍に対抗していきました。会津戦争では会津若松城がせんじょうになったけど、仙台城が戦場になることはなく、仙台藩は降伏しています。
仙台城は一度も戦闘を経験することなく、廃藩置県、廃城令を迎えます。
陸軍の管理下になった仙台城
廃城令によって、仙台城では本丸の建物は取り壊されたり、払い下げられました。
仙台城に東北鎮台という陸軍の施設が置かれたため、城内の建物を取り壊し石材や木材を兵舎建設のために流用されました。
二の丸御殿など、二の丸の建物は火災によってほとんどが焼失。
仙台城は取り壊しや火災によってほとんどの建物が失われていきました。
昭和・平成の仙台城
ほとんどの建物のが失われていった中で、現存していた大手門と大手門のとなりにある脇櫓が旧国宝にしていされています。
しかしこの大手門と脇櫓は、太平洋戦争中の仙台空襲によって焼失。わずかに残っていた門などが城外に移築されていきました。
再建された伊達政宗騎馬像
1935年に伊達政宗没後300年を記念して、騎馬像が建立されました。
しかしこの騎馬像は戦時中の金属不足から、取り壊されて回収されていきます。
戦後偶然にも騎馬像は、胸から頭まで溶かされずに残っていたところを発見。現在は仙台市博物館に展示されています。
戦後になって政宗像は一時コンクリート製で再建されました。このコンクリート製の政宗像は馬に乗っていいない、直立している像でした。なので市民からは騎馬像での要望が多く寄せられ、現在の伊達政宗騎馬像が再建されました。(コンクリート製の政宗像は城山公園(岩出山城跡)に移されています)
戦災によって失われていた大手門脇櫓の再建
仙台城は戦後には青葉山公園として整備されていきます。二の丸には東北大学川内キャンパスが、三の丸には仙台市博物館が置かれています。
明治の廃城令や戦災によってほとんどの建物が失われていた仙台城。1964年には民間の寄付によって大手門横の脇櫓が外観のみの復元で再建されました。
平成になると仙台城の本丸北壁石垣の崩落危険性が指摘され、1998〜2004年にかけて石垣の全面修復が実施されています。
東日本大震災では一部の石垣が崩れる被害がありました。
スポンサーリンク仙台城の歴史年表
鎌倉〜室町時代 | 島津氏が青葉山を居城とした |
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室町時代末期 | 国分氏が千代城を居城とする |
1596 | 政宗の叔父・国分盛重が逃亡して、廃城になる |
1600 | 伊達政宗が千代城跡で、築城に着手 |
1602 | 仙台城が完成。千代から仙台へ名を改める |
1610 | 本丸御殿の完成 |
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1616 | 地震によって、石垣や櫓が崩壊する |
1638 | 2代藩主・伊達忠宗が二の丸造営を開始し、39年に完成 |
1646 | 地震によって本丸の城壁や櫓が被害を受ける |
1668 | 地震によって城壁が崩れる |
1688〜1700 | 4代目藩主・伊達綱村のとき、二の丸の改造工事が行われる |
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1804 | 雷によって、二の丸が全焼 |
1871 | 仙台城に東北鎮台が置かれ、本丸の建物が取り壊される |
1882 | 火災によって二の丸御殿などほとんどの建物が焼失 |
1920 | 中門が取り壊され、現知事公館の正門として移築される |
1931 | 大手門と脇櫓が旧国宝に指定される |
---|---|
1945 | 仙台空襲によって大手門・脇櫓・巽門が焼失 |
1953 | 青葉山公園として開園 |
1964 | 再び伊達政宗騎馬像が本丸に置かれる |
1967 | 脇櫓が外観復元で再建される |
1998〜2004 | 本丸北壁石垣の全面修復工事が行われる |
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2003 | 仙台城跡が国の史跡に指定 |
2011 | 東日本大震災で石垣なとが被災する |
2015 | 石垣修復工事が終了 本丸大広間の遺構表示整備が完成 |
仙台城の歴史 まとめ
今回は仙台城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
全国にはたくさんのお城があります。それぞれのお城の歴史には築いた武将や城主になった人などの個性が表れています。歴史を知ることでより観光や歴史ドラマなどを楽しむことができます。
最後にもう一度ポイントを整理しておきます。
- 伊達政宗が岩出山城から千代城へ移り、仙台城とする
- 仙台城本丸には桃山風書院の大広間(御殿)が建てられていた
- 平和な時代になり、2代目忠宗が二の丸を築いて、住居と政治の中心にする
仙台城に限らずさまざまなお城の歴史を知って、楽しんでいきましょう!