今回は「和歌山城の歴史」を紹介します。
- 和歌山城の歴史をおおまかに知りたい人
- お城に興味を持ち始めた人
- 和歌山城へ行く前に予習しておきたい人
- 和歌山城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人
まずは和歌山城の歴史のポイントを3つ紹介します。
このポイントの所だけでもおさえておくと、歴史の要点はつかめます。
- 秀吉の弟・豊臣秀長が和歌山城を築城
- 幕府に疑惑を持たれた徳川頼宣による和歌山城大改修
- 太平洋戦争で天守をふくむ旧国宝11棟が失われる
背景の歴史を知っていると、お城めぐりや歴史ドラマ・小説ももっと楽しめるようになります。この記事で和歌山城の歴史に詳しくなってお城めぐりをもっと楽しんでいきましょう。
Contents
和歌山城ってどんなお城?
徳川御三家、紀州55万石のお城・和歌山城
和歌山県の県庁所在地・和歌山市の中心にある和歌山城。標高48.9mの虎伏山に築かれたことから別名「虎伏(とらふす)城」とも呼ばれています。
和歌山城は豊臣秀吉が天下統一の過程で紀州(和歌山県)を統治するために築城したのが始まりで、江戸時代では紀州徳川家へと引き継がれて大城郭へと発展していきました。
現在の和歌山城は、昭和に再建された連立式天守(天守や櫓を多門櫓でつないだ形)があり、そのほかにも紅葉渓(もみじたに)庭園や藩主の見渡ることができた御橋廊下が復元されています。
また江戸時代初期(1621年)に建てられた岡口門が国の重要文化財に指定されていて、豊臣秀長が築いた石垣も残されています。
また和歌山城は学術上価値の高いものとされ国の史跡にも指定されています。
和歌山城の歴史
ここからは和歌山城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順に紹介していきます。
戦国時代の和歌山城
秀吉の弟・豊臣秀長が和歌山城を築城
和歌山城の始まりは戦国時代末期。根来寺や雑賀衆といった紀州(和歌山県)の抵抗勢力を豊臣秀吉が平定した後、秀吉の命令で弟・豊臣秀長が築城しました。
秀吉自身が現地入りして1ヶ月間、お城の縄張り(設計)をしていってます。また、この時はまだ秀長の家臣だった藤堂高虎が築城工事を行っていました。
秀長はもともと奈良の大和郡山城を本拠地にしていたので、和歌山城へは城代として家臣の桑山重晴を入れて、お城の管理を任せていました。のちに秀長が亡くなった後も、桑山氏が和歌山城を引き継いでいます。
秀吉が亡くなって、石田三成と徳川家康が争った関ヶ原の戦いが起きました。桑山重晴の跡継ぎ・一晴は家康の東軍に味方して和歌山城を守っていました。戦後、一晴は和歌山に2万石を与えられています。(しばらくして、別の領地を与えられて移っていきました)
江戸時代の和歌山城
幕府から疑惑をもたれた徳川頼宣による和歌山城大改修
桑山一晴の後に城主になったのは関ヶ原での戦功が認められた浅野幸長。幸長は城主になると、和歌山城の内堀や石垣の改修を行っていました。また秀長時代の天守については詳しくはわかっていません。けれども幸長の時には天守があったことは確かで、幸長が初代天守を建てたことになっています。
徳川家康が大坂城の豊臣氏を滅ぼした大坂の陣のあと、浅野氏は広島城へと領地替え。代わって和歌山城城主になったのは家康10男の徳川頼宣でした。これで尾張藩・水戸藩とならぶ徳川御三家の一つとなる紀州藩が成立。
頼宣は城主になるとさっそく御三家にふさわしいお城にするために、和歌山城と城下町の改修を始めます。現在の和歌山城は頼宣が改修したあとの姿です。
しかしこの改修工事が大規模だったために、頼宣は幕府から謀反を疑われてしまうほどでした。
のちに由井正雪という人物が幕府転覆などを目論んで反乱を計画。この計画自体は事前に発覚して未遂に終わっています。しかし由井正雪の持ち物から頼宣の書状が見つかったことで、反乱計画に頼宣が関わっていたのではないかと幕府から疑われてしまいました。
結果としては書状は偽物とされたことや頼宣側からの弁明もあって、処分はありませんでした。しかし和歌山城の大規模なお城の改修が疑惑を生んだ可能性もあると思います。
徳川御三家のお城・和歌山城の天守と御殿
江戸時代、和歌山城には浅野幸長が建てた天守が建っていました。しかし幕末に天守への落雷によって、御殿を除く本丸の主要な建物(天守や小天守など)が焼失してしまいました。
江戸時代は武家諸法度によって天守の建設はきびしく制限されていました。けれども紀州藩は徳川御三家ということもあり、天守の再建が許されています。落雷から4年後の1850年に2代目天守が再建されました。
本丸御殿は虎伏山の山頂部に位置していたため、敷地面積が小さく手狭でした。このため本丸御殿を使用していたのは初代藩主・頼宣と14代目・茂承のみ。
江戸時代のほとんどの期間、紀州藩の中枢は二の丸に建てられた二の丸御殿でした。
和歌山城の二の丸御殿は、「表」「中奥」「大奥」に分けられ、なかでも「大奥」という呼び方は江戸城、名古屋城、和歌山城の奥御殿に対してのみ用いられていました。
また、西の丸にも御殿があり、この御殿は頼宣の隠居所として建てられていました。
御殿のほかに能舞台、茶室や庭園が作られています。
明治時代の和歌山城
地元の尽力によって保存された和歌山城の天守曲輪
明治時代になると和歌山城の多くの建物は取り壊されていきました。
そんな中でも一部の建物は保存されています。
二の丸御殿の「表」部分は、大阪城へと移築されて、紀州御殿と呼ばれて陸軍の司令部として使用されていきます。
天守と石垣は和歌山区長の長屋喜弥太という人の尽力によって、保存されることになりました。
1901年には本丸・二の丸一帯が和歌山公園として整備されて、一般に開放されています。
大正時代には城内に西洋式庭園や道路を建設する話がありました。しかし当時の知事や市民からの反対によって中止になっています。
昭和・平成の和歌山城
太平洋戦争で天守をふくむ旧国宝11棟が失われる
昭和になると和歌山城跡地は歴史・学術上価値の高いものとされて、国の史跡に指定されました。その後、天守などの建物11棟が旧国宝にしてされています。
それにもかかわらず、太平洋戦争の和歌山空襲で天守など旧国宝になっていた11棟すべてが焼失してしまいました。
また大阪城へ移築されていた紀州御殿は戦災こそ免れたものの、戦後に失火で焼失しています。
和歌山城天守と紀州御殿はともに徳川家のお城建築を伝えるものとして価値のあるものでした。なので失われてしまったことは残念です。
江戸時代の図面をもとに再建された和歌山城天守
戦後、1951年から和歌山城天守再建のために基金積立が開始され、7年後の1958年に天守曲輪が再建されました。
この再建に際して、幕末の天守再建に携わっていた大工棟梁・水島平次郎の子孫に伝わっていた天守図面を参考にしています。、ほかにも古写真や絵図など様々な資料をもとに天守外観を忠実に再現しました。
1973年には、徳川頼宣の隠居所だった西の丸の紅葉溪(もみじだに)庭園を復元。この庭園は江戸初期の遺構を残している庭園として、国の名勝に指定されています。
ちなみに園内にはパナソニック(松下電器)の創業者・松下幸之助が寄贈した茶室・紅松庵があります。
1982年、83年には大手門と一の橋が復元され、2006年には藩主と付き人のみが渡ることができた御橋廊下が復元されました。
和歌山市は幕末期の姿に和歌山城を整備する計画のもと、現在も調査や研究を進めています。将来的には二の丸の周囲を取り囲んでいた多門櫓や駿河櫓などの主要建物の復元整備を目指しています。
スポンサーリンク和歌山城の歴史年表
1585 | 豊臣秀吉の命令で、豊臣秀長が築城開始 |
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1586 | 秀長の城代として桑山重晴が入る |
1600 | 関ヶ原での戦功によって、浅野幸長が33万6000石で和歌山城主に |
1613 | 幸長が亡くなり、浅野長晟が跡を継いで和歌山城主に |
1619 | 家康10男の徳川頼宣が55万5000石で和歌山城主 |
1621 | 2代将軍・秀忠より銀2000貫を賜り、和歌山城の改修を開始 |
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1651 | 慶安の変で頼宣に謀反の疑いがかかる |
1655 | 家臣屋敷からの出火で、二の丸や西の丸が焼失する |
1705 | 徳川吉宗が城主になる |
1846 | 落雷によって天守・小天守などが焼失する |
1850 | 天守が再建される |
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1871 | 廃藩置県によって廃城に 和歌山城跡は兵部省の管轄に |
1901 | 和歌山公園として一般に開放される |
1909 | 大手門が倒壊する |
1915 | 南の丸に動物園が開園 |
1923 | 本丸御殿跡の「七福の庭」の石組を松の丸に移す |
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1924 | 南堀の埋め立てがはじまる |
1931 | 和歌山城跡が国の史跡に指定される |
1935 | 天守など11棟が旧国宝に指定される |
1937 | 砂の丸に招魂社(護国神社)を創建 |
1945 | 戦災によって天守など旧国宝11棟が焼失する |
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1958 | 天守曲輪がコンクリート造で外観復元される |
1957 | 岡口門が国の重要文化財にしていされる |
1973 | 西の丸の紅葉溪庭園が復元される |
1982 | 大手門が復元される |
1985 | 紅葉溪庭園が国の名勝にしてされる |
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2006 | 御橋廊下が復元される |
2019 | 和歌山公園の名称が和歌山城公園に変更される |
和歌山城の歴史 まとめ
今回は「和歌山城の歴史」を紹介しました。
もう一度歴史のポイントをおさらいしておきましょう。
- 秀吉の弟・豊臣秀長が和歌山城を築城
- 幕府に疑惑を持たれた徳川頼宣による和歌山城大改修
- 太平洋戦争で天守をふくむ旧国宝11棟が失われる
徳川御三家のお城にふさわしいお城にするべく、和歌山城は改修されました。現存する建物は少ないものの、天守曲輪や庭園・石垣など徳川家だからこそ築くことができたお城を楽しむことができます。
ぜひ和歌山城をお城めぐりするときは、この記事を参考にしてください。
和歌山城へのアクセス
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- 和歌山県和歌山市
- 電車+バスでの行き方:JR和歌山駅からバス(0系統、25系統)利用で公園前バス停下車
- 電車での行き方:南海和歌山市駅から徒歩10分
- クルマでの行き方:阪和自動車道「和歌山IC」から国道24号線・三年坂通り経由で約15分