お城の歴史

【二条城の歴史】まとめ|江戸時代の始まりと終わりのお城

二条城の歴史

今回は「二条城の歴史」を解説していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 二条城の歴史について簡単に知りたい
  • 二条城を観光するから、事前の予習として
  • 二条城を観光したけど、歴史についてもっと知りたくなった

次の4つのポイントを知っておくだけでも二条城の歴史に詳しくなって、観光も楽しめます。

  • 家康によって築かれ、将軍就任を祝う宴会が開かれた
  • 3代将軍・家光は天皇を二条城へ迎えるために、拡張・大改修
  • 15代将軍・慶喜によって二条城で出された大政奉還
  • 世界遺産・二条城、二の丸御殿は国宝、多くの建物や障壁画は重要文化財に指定

この記事で二条城に詳しくなり、より二条城を楽しんでいきましょう!

Contents

二条城はどんなお城?

二条城 東大手門二条城 東大手門

二条城とは京都市にあって、徳川家康によって京都における儀礼施設として築かれたお城。

二条城では、徳川家康の征夷大将軍就任を祝う宴会と、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還が行われました。江戸幕府の最初と最後を見届けたお城だったのです。

二条城の最大の見所は、国宝に指定されている二の丸御殿です。江戸時代の御殿が現存している例は少ない。なおかつ江戸城、大阪城、名古屋城の御殿は焼失などしてしまったので、徳川将軍家の御殿としては二条城二の丸御殿が唯一残っている。

二の丸御殿以外にも、本丸御殿や櫓、門の建物や障壁画が重要文化財に、二の丸庭園は特別名勝に指定されています。

二条城は歴史の節目で活躍し、現代まで残る多くの建物や障壁画を楽しむこともできるお城なのです。

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二条城の歴史

ここからは二条城の歴史を、戦国時代〜平成まで順をおって解説していきます。

織田信長によって作られた最初の二条城

旧二条城の場所旧二条城の場所

織田信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を連れて、京都へ進出していきました。

京都で義昭のために築いたお城が「旧二条城」でした。
信長の二条城はのちに家康が築いた現在の二条城とは別の場所にあり、家康の二条城と区別するために「旧二条城」と呼ばれています。

足利義昭は旧二条城の前は本圀寺という寺院を拠点にしていました。しかし信長がいない隙をついて、敵対する大名に本圀寺を襲われるという事件が発生。信長軍が急いで救援に駆けつけたので、義昭は無事でした。

この事件をきっかけに、より防御がしっかりしたお城が必要になり、築かれたのが「旧二条城」です。

義昭も次第に信長との仲が悪くなっていき、対立するようになっていきました。信長を討つと決意した義昭は挙兵するも、敗退。旧二条城を出ていきました。

義昭がいなくなった後の旧二条城は解体され、材木などは安土城築城に使われたとも言われています。

徳川家康によって築かれた二条城

徳川家康徳川家康

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は政治の実権を握るようになりました。

京都は天皇(朝廷)がいるので日本の中心でした。しかし家康は江戸を本拠地としていたので、京都での拠点となるお城が必要になり、「二条城」が築かれました。

1603年に家康が征夷大将軍(将軍)になり江戸幕府が開かれます。家康の将軍就任を祝う宴会が二条城で行われました。将軍就任を祝う宴会は2代・秀忠と3代・家光まで続くが、4代・家綱からは途絶えることに。そして将軍が京都へ来ることも幕末まで約230年間なくなります。

1611年に家康と豊臣秀吉の子・秀頼の会見が二条城で行われました。このとき家康は秀頼の成長に驚き、このままでは家康が死んだ後の徳川家が心配になり豊臣家を滅ぼそうと決意したとも。

大坂冬の陣が起こると、家康は二条城を拠点にして大坂城へと出陣していきました。

3代将軍家光が「天皇行幸」のために二条城を大改修

二条城の唐門二条城の唐門

家光が将軍に就任すると、すぐに二条城への後水尾天皇の行幸(ぎょうこう・天皇が外出すること)が計画される。このために家光は二条城を大改修しました。

家康が築いた時の二条城は現在の二の丸ほどの大きさしかなく、家光がお城を西へと拡張して現在の形に改修。

家光は本丸に天守台を作り、廃城になる伏見城から天守を移築してきました。

後水尾天皇の行幸は5日間行われ、二条城内で舞楽、能楽、蹴鞠や和歌の会を開催。行幸が終わった後の多くの建物が解体され、移築されていきました。

1634年に家光が江戸から30万人もの大軍を率いて二条城に入城。西日本に多い外様大名や朝廷へ向けた軍事パレードで、江戸幕府の実力を誇示していました。この時の家光以降、幕末まで将軍が京都を訪れることはなくなります。

過去2つの天守が建てられていた二条城

二条城の天守台石垣二条城の天守台石垣

現在の二条城には天守をのせる石垣(天守台)のみ残されています。二条城には過去2つの天守が建てられていて、最初の天守は家康が、2代目天守は家光が築きました。

家康が築いた天守は、二条城築城開始から5年後の1606年に完成。五重の望楼型天守で、1階には唐破風をのせた出窓、最上階には軒唐破風がありました。姫路城大天守とよく似た形をだったと思われます。

家光が築いた2代目天守は、後水尾天皇の行幸で二条城を改修した際に築かれました。この改修工事でお城の領域は大きく広がったので、天守の位置も家康の天守とは違っています。

現在残されている天守台には、家光が築いた天守が建てられていました。天守の高さは28mあり、石垣の高さ20mと合わせると48mになり、当時の京都随一の高層建築物だったのです。

2代目天守の部材は、廃城になっていた伏見城天守から流用したもの。伏見城天守とは形が違うので移築ではなく、部材を流用して新たな天守を築きました。

家光が築いた天守は、約125年後の1750年に落雷によって焼失。以降天守は再建されることはありませんでした。

徳川慶喜が二条城で大政奉還をし、江戸幕府を終わらせた

二条城 二の丸御殿二条城 二の丸御殿

3代将軍の家光を最後に、幕末まで将軍が京都を訪れることはありませんでした。幕末までの間に、天守は落雷で、本丸御殿や隅櫓は火事で焼失していました。

ペリーが日本へ来航して以来、日本の政治は混乱していました。そんな中に14代将軍・徳川家茂が、将軍としては229年ぶりに京都を訪れています。この時に家茂は天皇と賀茂神社を訪ねました。

15代将軍が徳川慶喜になると、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)は徳川幕府を武力で倒そうとしていました。この薩摩・長州の動きを抑えるために慶喜は朝廷(天皇)へ政権を返上する「大政奉還」を行い、江戸幕府を終わらせました。

慶喜が大政奉還を発表した場所が、二条城の二の丸御殿大広間でした。

家康の将軍就任を祝う宴会も、江戸幕府を終わらせる大政奉還を発表した場所も二条城だった。なので二条城は江戸幕府の始まりと終わりを見届けたお城と言われています。

大正天皇即位を祝う宴会場になった二条城

二条城 全景二条城 全景

幕末の混乱や戊辰戦争から二条城は戦火をまぬがれ、多くの建物が無事でした。

明治時代になると二条城は宮内省の管理になり、「二条離宮」として天皇家の別荘になります。京都御所内にあった旧桂宮御殿が二条城本丸に移築され、これが現在の本丸御殿となっています。

1915年に大正天皇が即位すると、即位を祝う宴会が二条城で開催されました。宴会のために南門や二の丸御殿の付属施設が増築されています。

二条城に皇室関係者、各国の要人や総理大臣が招かれ、大正天皇の即位がお祝いされました。

昭和になると二条城は宮内省より京都市へと管理がうつっています。そして「元離宮二条城」として一般公開が始まりました。

二条城の多くの建物、障壁画が国宝、重要文化財に!「古都京都の文化財」として世界遺産に!

重要文化財の二条城・東南隅櫓重要文化財の二条城・東南隅櫓

戦後1952年に文化財保護法によって、二の丸御殿6棟が国宝に、本丸御殿や櫓、門など22棟が重要文化財に指定されました。

翌53年になると二の丸庭園が特別名勝に指定。1982年には二の丸御殿の障壁画(ふすま絵)約3600面のうち1016面が重要文化財に指定された。

昭和になって二条城の一般公開が始まったことで、障壁画が長時間外気にさらされることで劣化や損傷が進んでしまわないか心配された。
1972年から京都市は障壁画を温度・湿度を保った保管庫で管理しながらも、多くの人に見てもらうために障壁画の模写をはじめました。

現在まで40年以上の年月をかけて模写が進められていて、さらに何十年もかかることが予想されています。

1994年になると、「古都京都の文化財」を構成する17の遺産の一つとして、世界遺産に登録されました。

2011年から約20年かけて行われている二条城の修復工事

二条城 本丸櫓門二条城 本丸櫓門

二条城も築城から400年以上経過しているので、2011年から20年計画で、城内にある28棟の文化財建造物をはじめ、すべての歴史的建造物の修理や整備を行なっています。
文化財としての価値を保存し、観覧者の安全を確保するために耐震補強を含む工事が進められています。

2011〜13年には唐門と築地塀が、2014〜17年の間に東大手門、番所が修復されました。

2019年現在は本丸御殿を修復中です。本丸御殿は阪神淡路大震災によって歪みが生じていて、耐震調査の結果より2007年から公開を中止。2021年の工事完了あと、一般公開が予定されています。

徳川家光の時代、後水尾天皇が二条城へ行幸されたとき、二の丸から本丸へ地上へ降りることなく堀を渡れるように設けられていた二階廊下と溜蔵がありました。この二つの建物は1930年まで存在していました。解体された後も部材は保管されているので復元は可能。2022〜2025年の間に復元工事を予定しています。

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二条城の歴史年表

1568 織田信長が足利義昭を連れて京都へ進出。足利義昭が室町幕府15代将軍になる
1569 信長によって旧二条城が築かれる。義昭が旧二条城へ入る
1573 義昭は信長と敵対し敗北。旧二条城を出る。旧二条城は廃城になる
1601 徳川家康が二条城の築城を始める
1603 天守を除いて二条城が完成。初めて家康が二条城に入る
1611 家康が豊臣秀頼と二条城で会見
1614 二条城内で大阪冬の陣の軍議を開く。二条城から出陣
1624 3代将軍・徳川家光が二条城の拡張工事を開始
1626 拡張工事が終了。本丸・二の丸・天守が整備され現在の形に。後水尾天皇が行幸で二条城を訪れる
1634 家光が30万人もの大軍を率いて二条城に入城
1788 京都市中の火事によって、本丸御殿も焼失
1863 14代将軍・家茂が将軍として229年ぶりに二条城に入城
1866 二条城内で徳川慶喜が将軍を継ぐ
1868 城内に太政官代(現在の内閣に相当)を置く
1871 二の丸御殿内に京都府庁を置く
1884 天皇家の別荘「二条離宮」になる
1893 京都御所内にあった旧桂宮御殿を本丸内に移築
1915 大正天皇の即位を祝って宴会が開かれる
1939 宮内省が京都市へ二条離宮を下賜
1940 恩賜元離宮二条城として一般公開が始まる
1952 二の丸御殿が国宝に、東大手門、本丸御殿など22棟が重要文化財に指定される
1953 二の丸庭園が特別名勝に指定される
1982 二の丸御殿の障壁画が重要文化財に指定される
1994 「古都京都の文化財」として世界遺産に登録される
2011 二条城の修理事業開始
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二条城の歴史 まとめ

今回は二条城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

今回紹介した二条城の歴史を知っておくと、観光する際や歴史ドラマ・歴史番組もより楽しむことができます。

最後にもう一度ポイントをまとめておきます。

  • 家康によって築かれ、将軍就任を祝う宴会が開かれた
  • 3代将軍・家光は天皇を二条城へ迎えるために、拡張・大改修
  • 15代将軍・慶喜によって二条城で出された大政奉還
  • 世界遺産・二条城、二の丸御殿は国宝、多くの建物や障壁画は重要文化財に指定

お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう!!

参考資料