お城の歴史

観光もドラマも楽しむための【大阪城の歴史】を総ざらい!

大阪城の歴史

今回は「大阪城の歴史」について解説していきます。

こんな人にオススメ
  • 大阪城の歴史について知りたい
  • これから大阪城を観光する人で予習として歴史を知っておきたい
  • すでに大阪城を観光したけど、もっと歴史を知りたくなった人

次の4つのポイントを知っておくだけでも、大阪城の歴史について詳しくなって、より大阪城を楽しむことができます。

  • 信長のあとを継いだ秀吉が15年以上かけて大阪城を完成させた
  • 秀吉の大阪城の2倍を目指して再建された徳川大阪城
  • 戊辰戦争の混乱のなか炎上した大阪城
  • 市民の寄付で再建された3代目大阪城天守

この記事で大阪城の歴史を知って、より大阪城を楽しんでいきましょう。

Contents

大阪城とはどんなお城?

まずは大阪城の歴史の前に、どんなお城なのかをまとめてみました。

来場者数日本一のお城

観光客が訪れる大阪城観光客が訪れる大阪城

実は大阪城は姫路城や首里城、二条城など世界遺産となっているお城を抑えて、日本で一番来場者が多いお城なんです。

2017年ー約275万人、2018年ー約255万人と数は減らしているものの日本一を続けています。

やっぱり大阪のど真ん中にあるので、日本人に限らず外国人も訪れるお城です。

引用サイト「全国のお城の入城者数(入場者数・観光客数)調査レポート【2019年版】」より

大阪城の石垣は日本一高い!

大阪城の石垣と水堀大阪城の石垣と水堀

大阪城の石垣は水堀のそこからの高さが約32m、水面からの高さは約24m。

これは日本一の石垣の高さです。

石垣の上には天守級の櫓が27基も建っていました。(現存しているのは4基)

掘の幅も広く、一番広いところで約83mもあります。この幅は敵の攻撃を防げますが、城内からの攻撃も相手に届かないほどの距離です。

大阪城周辺は古代から栄えていた重要な場所

大阪城周辺の地形大阪城周辺の地形

大阪城は上町台地の上に作られました。

大阪城周辺は以前は海の入江でした。上町台地だけは半島のように海上にありました。

大阪城の南に難波宮跡があるように、大阪城周辺(難波)は古代から栄えていた重要な場所でした。

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大阪城の歴史

ここからは大阪城の歴史を紹介していきます。

大阪城が作られる以前は石山本願寺というお寺があった!

大阪城にある石山本願寺跡大阪城にある石山本願寺跡

大阪城が作られる以前、この場所には浄土真宗の「石山本願寺」というお寺がありました。

お寺といっても普通の寺院じゃなく、堀と土塁で防御を固めた「お城」だったんです。

本願寺はもともと京都の山科を拠点にしていたのですが、管領:細川晴元と日蓮宗によってお寺が焼き討ちにあってしまいました。その後、大阪に移って石山本願寺を建立。

戦国時代をとおして、石山本願寺は宗教団体というより戦国大名として大阪を治め、各地で一向一揆を主導していました。

信長が岐阜から京都に進出してくると、次第に対立。「信長包囲網」の一角を担って、11年に及び信長と争っていました。

豊臣秀吉が築いた大阪城

大坂夏の陣図屏風に描かれている大阪城大坂夏の陣図屏風に描かれている大阪城

最後、石山本願寺は信長と講和しました。講和の条件として本願寺は大阪をさることに。

信長は安土城のあと、石山本願寺跡に新しいお城を築こうとしていたとも言われています。

本能寺の変で信長が死んだあと、後継者の地位を勝ち取っていった豊臣秀吉は石山本願寺跡に大阪城の築城を開始。
秀吉配下の大名とその家臣、約5万人を動員しての大工事でした。

大阪城の工事は3期にかけて行われいて、築城開始から約15年、秀吉が死ぬまで断続的に行われたました。

秀吉は大阪城にあまりいなかった!?

豊臣秀吉豊臣秀吉

秀吉自身が大阪城を居城としていた時期は実は短かったのです。

秀吉は大阪城を築いたあとは、京都に政治を行うための「聚楽第」(じゅらくてい)や朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前線基地の「名護屋城」、聚楽第のあとを継いだ「伏見城」と拠点とするお城を変えていました。

秀吉が大阪城を本拠地にしていた時期はおよそ3年ほどでした。

大阪城にいない間も大阪城の工事は続けられていました。なので、大阪城は捨てられた訳ではなく、秀吉政権の重要な拠点のひとつとして機能していました。

大阪城の城主は秀吉の妻・おねだった!

では秀吉が大阪城にいない間は誰が城主だったのか?

実は秀吉の妻・おね(ねね)が実質的な城主をつとめていました。

秀吉が信長の家臣で長浜城主だった頃、遠征で留守にしがちだった秀吉に代わり、おねが城主代行としてお城の管理を行っていました。

大阪城でのおねは、朝廷との交渉や、人質として集められた大名の妻子の監督を担っていました。

秀吉の死後、秀吉の子・秀頼と淀君(茶々)が大阪城に入ると、おねは京都へと移っていきました。

大阪城と関ヶ原の戦い・大坂冬の陣・夏の陣

合戦合戦

秀吉の死後、東軍と西軍に分かれて争った「関ヶ原の戦い」が起こります。

家康に対抗していた西軍総大将の毛利輝元は大阪城に入り、本拠地に。

関ヶ原本戦で西軍が敗れると、大阪城に籠城して東軍に対抗しようという意見もあるなか、毛利輝元は戦わずに大阪城を退去していきました。

関ヶ原の戦いから14年後、秀吉の子・秀頼と家康が争った「大坂冬の陣と夏の陣」がおこります。

秀頼は関ヶ原負け組の元大名や家臣を大阪城内へ集めていました。大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田信繁(幸村)もその一人。

秀吉が約15年かけて築いてきた大阪城だけあって、冬の陣では20万人で攻める徳川軍を誰一人として城内に入れることはありませんでした。冬の陣のあとの休戦交渉のなかで、二の丸と三の丸の堀を埋めることが決まりました。

堀を埋められ本丸のみとなった大阪城は、夏の陣で徳川軍に敗北。大阪城も炎上し落城しました。

徳川時代に再建された大阪城

大坂冬の陣・夏の陣のあと、大阪城は一時家康の孫・松平忠明に預けられました。

その後、大阪城は江戸幕府の直轄領となり、徳川将軍家が城主に。

江戸時代を通して、大阪城は江戸幕府の重要な拠点と位置付けられていて、西日本に多い外様大名の監視を担っていました。

豊臣の倍の大きさになった大阪城

大阪城大阪城

大坂夏の陣で大阪城が炎上したあと、2代将軍秀忠によって大阪城再建の工事が始められました。

豊臣大阪城の復興ではなく、同じ場所に新たなお城を築く方針。新たなお城といっても門や橋の名前、縄張(お城の構造)は豊臣大阪城を受け継いでいました。

幕府の命令で、西日本や北陸の大名が動員された天下普請で、3期間に分けて10年がかりで工事は行われました。

このときに秀忠は「豊臣大阪城より石垣の高さを2倍に、堀の深さを2倍にせよ」と指示していたと伝わっています。

大阪城の天守

徳川大阪城の再建工事で築かれた天守は、石垣も含めた高さが58m。秀吉の天守よりも20m以上大きい天守でした。

天守が再建されてから約40年後の1665年、天守最上階の屋根にあるシャチホコに雷が直撃。

最上階から炎上し、下層へと炎が広まっていきました。天守は1日かけて全焼。

その後、天守台は整備されたものの天守が再建されることはありませんでした。

大阪城は江戸幕府の出世コース

出世出世

江戸時代の大阪城では城主である将軍に代わって、城代が城主代行をつとめていました。城代には有力な譜代大名が任命されていました。

大坂城代は西日本の大名の監視と大阪城の警護を任された、大阪における幕府役職のトップで重要なポジション。

幕末までにのべ70人が城代に着任しています。

江戸中期以降、大坂城代というポジションは、幕府中枢の役職(若年寄、老中)につく前になっておく必要がある役職、出世コースの通過点としてみられるようになっていきました。

幕末の混乱で建物が焼失した大阪城、明治以降は陸軍の拠点に!

幕末を迎えて大阪城もただではすまされません。

戊辰戦争の混乱で炎上した大阪城

徳川将軍が大阪城を訪れた例はあまりなく、約200年間訪れていませんでした。

幕末になって、長州征討(1864年)を指揮するのために14代将軍・家茂(いえもち)が大阪城に入りました。その後、家茂は第2次長州征討のときに大阪城内で病死しています。

15代将軍・慶喜は在任中一度も江戸へ戻らず大阪や二条城で政務を行っていました。

1868年1月6日の「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍と明治新政府軍の間に戊辰戦争が始まると、慶喜は大阪城を密かに脱出。江戸へ向かっていました。

慶喜脱出後の大阪城は新政府軍へ渡されました。しかし混乱の中で大阪城は炎上。この時ほとんどの建物が焼失してしまいました。新政府軍へ大阪城が渡されるのを良しとしない幕府の家臣が放火したとも言われています。

明治以降、大阪城本丸に置かれた陸軍司令部

陸軍司令部だったMIRAIZA OSAKA -JO陸軍司令部だったMIRAIZA OSAKA -JO

明治時代になって、大阪城の本丸には大阪鎮台が置かれ、西日本における陸軍の中心地になりました。

陸軍は和歌山城二の丸御殿の一部を大阪城本丸に移して、「紀州御殿」として司令部庁舎として利用。

三の丸跡地に大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)が大村益次郎によって建設され、大阪城周辺は軍用地、軍需工場として利用されていきました。このことがのちに大阪城に悲劇をもたらします。

3代目の大阪城天守は市民によって再建された!

市民の寄付で再建された3代目大阪城天守

再建中の大阪城天守再建中の大阪城天守

大正時代になると、天守台は展望台として一般に開放されていて、売店もありました。

大阪市長だった「関一(せき・はじめ)」が昭和天皇の即位を記念して、市民の手による大阪城復興を提案。市民や法人から寄付を募って豊臣、徳川につづく3代目の天守を再建しました。

寄付によって当時の150万円(約600億円)が集められ、1930年から1年間で天守は完成しました。そして城内の一部を整備して、大阪城公園として公開されました。

戦争で焼失した大阪城の建物

大阪城の石垣に残る銃撃のあと大阪城の石垣に残る銃撃のあと

太平洋戦争末期、大阪大空襲で軍事施設が集まっていた大阪城周辺が攻撃目標として狙われました。

空襲で再建された天守は無事だったものの、戊辰戦争でも焼けずに残っていた2番櫓、3番櫓、坤櫓(ひつじさるやぐら)、伏見櫓、京橋門を焼失。

石垣に銃撃の痕が残るなどの被害を受けました。

大阪城天守、平成の大改修

3代目大阪城3代目大阪城

戦後の大阪城は公園として利用され、現在の姿になっていきました。

1953年には城跡が史跡(のちに特別史跡)に、大手門や千貫櫓など13棟の建物が重要文化財に指定。

昭和に築かれた3代目天守も平成になると老朽化が進み、1995年から1年半かけて改修工事行われた。耐震補強や壁の塗り替え、シャチホコや鬼瓦の金箔の押し直しを実施。

改修工事を終えた天守は、国の登録有形文化財に登録され、豊臣・徳川の天守よりも長命な天守として今も観光客を迎えています。

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大阪城の歴史 まとめ

今回は大阪城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

今回紹介した大阪城の歴史を知っておくと、観光する際や歴史ドラマや歴史番組もより楽しむことができます。

最後にもう一度大阪城の歴史をまとめておきましょう。

  • 信長のあとを継いだ秀吉が15年以上かけて大阪城を完成させた
  • 秀吉の大阪城の2倍を目指して再建された徳川大阪城
  • 戊辰戦争の混乱のなか炎上した大阪城
  • 市民の寄付で再建された3代目大阪城天守

お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう!!

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参考資料