お城の歴史

中国地方の名城【広島城の歴史】をまとめました

広島城の歴史

今回は「広島城の歴史」を紹介していきます。

こんな人にオススメの記事です
  • 広島城の歴史をおおまかに知りたい人
  • お城に興味を持ち始めた人
  • 広島城へ行く前に予習しておきたい人
  • 広島城へ観光してきたけど、歴史をもっと知りたくなった人

まずは広島城の歴史のポイントを4つ紹介します。このポイントを押さえておくだけでもよいでしょう。

  • 広島城の築城工事は「島普請」と言われるほど大規模だった
  • 福島正則は広島城を無断で修理して領地没収
  • 日清戦争中に広島城に明治天皇が滞在して、臨時首都になった
  • 旧国宝だった天守などすべての建物が原子爆弾で倒壊・焼失

この記事で広島城の歴史に詳しくなって観光や歴史ドラマも楽しんでいきましょう!

Contents

広島城とはどんなお城?

三大平城のひとつで、88基の櫓をもつ大城郭だった広島城

広島城のやぐら広島城の櫓

広島城は広島市を流れる太田川の河口に作られたお城。なので平城に分類され、名古屋城・岡山城などと一緒に日本三大平城になっています。

広島城のスゴイところはなんといっても、櫓の数!

広島城には88基の櫓が建てられていました。88基というのは全国有数で、伊達政宗の仙台城の7基と比べても、その数の多さにビックリです。

特に西日本のお城では東日本より多くの櫓を建てる傾向にありました。地域差はあったとしても広島城の櫓の数は群を抜いていました。

広島城の別名から生まれた広島カープ

鯉

広島城は江戸時代の終わり頃には別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれていたそうです。

なぜ鯉かというと、むかし広島城のあたりは「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていて、己斐から鯉へと変わっていきました。

広島カープは広島城の別名「鯉城」から、カープ(鯉の英語)と名付けました。

鯉は出世魚で縁起が良いというのも、カープと名付けた理由の一つです。

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広島城の歴史

ここからは戦国時代〜昭和・平成までの広島城の歴史を紹介していきます。

戦国時代の広島城

毛利元就の孫・輝元が広島城を築城する

広島城広島城

広島城を築いたのは毛利輝元。小さな領主から一代で中国地方全域を支配下に置いた毛利元就の孫にあたるのが輝元です。

毛利氏は代々吉田郡山城を居城としていました。しかし輝元は吉田郡山城を廃城にして、新たなお城を築くことを決定します。

この新しいお城というのが広島城。

吉田郡山城は山地にあって、交通の便が悪い上に、城下町の発展が見込めない場所でした。

なので広島湾沿岸で瀬戸内海の水運と、山陽道を利用できる現在の広島城の場所に輝元は築城しました。

広島城築城工事は「島普請」と言われるほど大規模だった

広島城の天守広島城の天守

水運や街道があるから広島湾沿岸にお城を、と言っても簡単な工事ではありませんでした。

広島城は中国山地から流れる太田川河口の三角州(デルタ)に築かれています。

川や海の近くにあってもともと地盤が軟弱な土地だったために、築城工事は「島普請」と呼ばれました。普請とは土木工事のことなので、島普請とは島を一つ作るほどの大規模な土木工事だったというわけです。

築城工事には100万人が動員されたと言われ、中州を堤防で囲んで土塁・堀などを造っていきました。

1589年に始まった築城工事は10年の歳月をかけて1599年に完成しました。

広島城は秀吉の聚楽第を手本に築かれた

広島城は秀吉が京都に築いた聚楽第(じゅらくだい)を手本に築かれています。

毛利輝元は秀吉の招きで京都を訪れた際に、聚楽第や大坂城を見て秀吉の新しい権力体制に感銘を受け、広島城を築く時に参考にしていました。

秀吉が朝鮮出兵を指揮するために九州の名護屋へ向かう途中に、広島城へ立ち寄っています。

このとき秀吉は広島城の御殿を見て「聚楽第にも劣らず」とその規模と豪華さを評価していました。

江戸時代の広島城

秀吉の死後、毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将として徳川家康と対立。

しかし輝元自身は戦うことなく家康に降伏します。そして西軍総大将の責任を問われて領地を没収されてしまいました。

周防・長門(山口県)の2カ国に領地を減らされた上に、完成したばかりの広島城も奪われることに。

福島正則は広島城の無断修理を問われて領地没収

天守から見た広島の街天守から見た広島の街

輝元のあと、広島城主となったのは福島正則。正則は秀吉の家臣で、秀吉が天下人になったことで出世し大名となった人物でした。家康は関ヶ原の戦いを最前線で戦っていた正則への恩賞として広島城と安芸・備後2カ国を与えました。

しかしその後の正則と家康・江戸幕府との関係は次第に悪化していきます。

正則はもともと秀吉に近い関係にあって恩を感じていました。なので大坂に残されていた秀吉の子・秀頼をたてることも正則は忘れていませんでした。このことから徳川へ権力を集中させようとしていた家康と幕府にとって正則は目ざわりな存在になっていきます。

そんな中、広島城は台風による水害で被害を受けてました。当時は武家諸法度によって新しくお城を造ることや壊れた部分を修理するには、幕府からの許可が必要になっていました。

正則は当初修理の届け出を出していました。けれど幕府は許可を出していませんでした。しびれを切らした正則は、許可を得ることなく広島城を修理してしまいます。

その結果、正則は武家諸法度違反を問われることになり、領地を没収されるハメになってしまいました。

幕末、2度の長州征討で広島城が本拠地になる

広島城天守と堀広島城天守と堀

福島正則が改易されると、浅野長晟(あさのながあきら)が新たに広島城主になります。そして幕末までの250年間、浅野氏が広島を治めていきました。

アメリカからペリーがやってきて幕末になると、広島藩のとなりの長州藩は攘夷(外国人を日本から追い出すこと)を掲げて江戸幕府と対立するようになっていきます。

長州藩は京都で挙兵して禁門の変を起こすなど、行動をエスカレートさせていきました。江戸幕府は長州藩を征討することを決定。軍隊を長州藩(山口県)へと向かわせました。

2度行われた長州征討にあたって、幕府軍は最前線の拠点として広島城を利用しています。

明治時代の広島城

江戸幕府が終わって明治時代になると廃藩置県によって全国の藩は解体されていきます。

広島藩から広島県に変わると、広島城本丸内に広島県庁が設置されました。そして陸軍の施設も城内に設置され、陸軍の施設が建てられていきました。

陸軍がお城を利用するために、小天守など多くの建物が取り壊されていきました。

それでも天守や本丸中御門、二の丸表御門、太鼓櫓などは撤去を免れていました。

日清戦争中、明治天皇が広島城に7ヶ月滞在する

広島城本丸の大本営跡広島城本丸の大本営跡

日本と当時の中国・清とのあいだで戦争が起こります(日清戦争)。

日清戦争が始まると、戦場になっている朝鮮半島により近い広島城に司令部(大本営)が置かれました。そして東京から明治天皇もやってきて、7ヶ月間滞在していました。

明治天皇が広島に滞在している間、国会(帝国議会)も広島で開催されています。

一時的に広島は臨時首都として機能していました。

昭和・平成の広島城

旧国宝天守など原子爆弾ですべての建物が倒壊・焼失

広島城天守は1931年に旧国宝に指定されています。戦前まで残されていた広島城と岡山城の天守は、関ヶ原の戦い(1600年)以前に建てられた天守として貴重な建築物でした。(現在残っている現存12天守はすべて関ヶ原後に建てられた天守)

太平洋戦争末期、1945年8月6日にアメリカ軍によって広島へ原子爆弾が投下されました。

広島城は爆心地から約1㎞離れていました。けれど天守は倒壊し、本丸中御門や二の丸表御門、太鼓櫓などは焼失してしまいます。

原子爆弾によって広島城の建物はすべて倒壊・焼失し、内堀と本丸・二の丸の石垣が残るのみとなってしまいました。

戦後、天守や櫓、門などが復元される広島城

復元された二の丸表御門や平櫓復元された二の丸表御門や平櫓

戦後、広島で国体が開催されることになりました。広島城では国体に合わせて、仮設の木造天守が建てられています。

この木造天守は国体終了後に解体されたけど、市民の天守再建を望む声は高まっていきました。

広島市制70周年を記念しての広島復興大博覧会が開催され、目玉として広島平和記念館と一緒に天守の再建が決まりました。

1958年に天守が外観復元されて、広島城郷土館(現在の博物館)として開館しています。

昭和から平成にかけて、築城400年・市制100周年の記念事業として、二の丸の復元と堀の浄化作業が行われました。

二の丸の復元では、二の丸表御門や平櫓、多門櫓、太鼓櫓、土塀が復元されています。復元に当たって、戦前の写真や図面、発掘調査を基に木造で再建しています。

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広島城の歴史年表

1589 毛利輝元が広島城の築城を開始
1591 毛利輝元、工事中の広島城に入る
1592 豊臣秀吉が広島城を訪れる
1599 広島城と城下町が完成する
1600 関ヶ原の戦いが起きる
西軍総大将だった輝元は敗れて、周防・長門へ移る
福島正則が広島城主になる
1617 洪水によって広島城が被害を受ける
1619 無断修理が原因で福島正則は領地を没収される
浅野長晟が広島城主になる
1620 庭園「縮景園(しゅっけいえん)」の整備が始められる
1758 城下町で大規模な火災が起き、城の一部へ延焼する
1782 三の丸に学問所が開設される
1864 第1次長州征討が始まる
広島城が幕府軍の拠点となる
1871 本丸内に広島県庁が置かれる
本丸内に鎮西鎮台第1分営が置かれたので、県庁は移転する
1873 本丸内に第5軍管区広島鎮台が設置される
1874 本丸御殿を焼失
1894 日清戦争が始まる
広島城に大本営が置かれ、明治天皇が滞在する
1911 外堀が埋められる
1931 天守が旧国宝に指定される
1945 原子爆弾によって、天守や櫓、門などがすべて倒壊・焼失する
1951 天守台に仮設天守が建てられる
1958 天守が外観復元される
1994 二の丸復元工事が完成
二の丸表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓などが復元される
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広島城の歴史 まとめ

今回は広島城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?

全国にはたくさんのお城があり、それぞれのお城の歴史には築いた武将や城主になった人などの個性が表れています。歴史を知ることでより観光や歴史ドラマなどを楽しむことができる。

最後にもう一度ポイントを整理しておきます。このポイントだけでも覚えていってもえらると良いと思います。

  • 広島城の築城工事は「島普請」と言われるほど大規模だった
  • 福島正則は広島城を無断で修理して領地没収
  • 日清戦争中に広島城に明治天皇が滞在して、臨時首都になった
  • 旧国宝だった天守などすべての建物が原子爆弾で倒壊・焼失

いろいろなお城の歴史を知って、お城観光や歴史ドラマを楽しんでいきましょう。

参考資料