今回は「大坂の陣が終わって、戦がなくなって以降のお城」について解説します。
1615年の大坂夏の陣の後は江戸幕府による支配も安定してきて、諸大名に対する規制を強めていく時代。
そんな時代にお城はどうなっていったのでしょうか?大名それぞれが自由にお城を立てることはできたのでしょうか?
ではさっそく見ていきましょう。
Contents
一国一城令とは?
1615年5月に大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、さっそく江戸幕府は6月に「一国一城令」を、7月に「武家諸法度」を公布しました。
一国一城令とは、「一つの国(土佐とか越後とか)にお城を一つだけ正式に認めるよ」という大名を取り締まる法律。
お城を一つだけ認めるかわりにその他のお城はすべて壊さなければいけませんでした。
そのため、それまで全国に約3000ものお城があったのが、約170にまで減少。
しかし、例外があって一国を複数の大名(藩)が領有していた場合は、一藩につき一城が認められます。
例えば伊予国(現在の愛媛県)は今治城・松山城・大洲城・宇和島城が残されていました。
次の例外が一藩で複数の国を領有していた場合。
この場合は一国につき一城が認められていました。なので一藩で二つ以上のお城を認められる藩もありました。
現在の三重県を治めていた津藩は伊勢と伊賀の二カ国を領有していたので、津城と伊賀上野城を認められていました。
津藩と同じように長門と周防の二カ国を領有していた長州藩は、それまで萩城と岩国城を持っていたけど江戸幕府に遠慮して岩国城を壊しています。(なので二カ国で一城になる)
さらに例外で外様大名の中でも特に大きな領地を持っていた伊達政宗の仙台藩と島津氏の薩摩藩はそれぞれ仙台城と鹿児島城以外にも複数のお城を持っていました。これらはお城といっても戦国時代から使われてきたもので石垣などは備えていませんでした。それらをお城とは呼ばずに「砦」や「要害」と呼んでいました。
一国一城令のよかったところ
一国一城令は各大名・藩の軍事力を制限するものだったけど、悪いことばかりでもありませんでした。
壊されたお城は大名の家臣が持っていたお城だったものもあり、お城を持つことは大名の特権となったのです。
そのため、大名と家臣との身分が明確に分かれ、家臣の統制がしやすくなりました。
お城の歴史 武家諸法度
歴史の授業でも習った武家諸法度は、250年間江戸幕府の基礎となった憲法のような法律で、この中にお城に関することが一つだけ書かれていました。
「諸国居城、修部を為すと雖も、必ず言上すべし、況や新儀の構営、堅く停止せしむる事」
これの意味は、大名が居城を修理するときは、事前に必ず届出を出し許可を取らなければいけなかった事、そして新規の築城は当然禁止で、すでにあるお城の修理以外の拡張などの工事も一切禁止という事です。
武家諸法度を破ると領地を取り上げられ別の領地へ飛ばされることもありました。
当時、広島を治めていた福島正則は台風で壊れた広島城の石垣を幕府に無断で修理してしまったために領地を取り上げられてしまいました。
また、幕府に目をつけられることを恐れてか、お城が台風や地震などで壊れていても直さずに放置しておく大名もいたほどです。
江戸から遠い九州や四国で、お城の壊れた部分をこっそり直してもバレないんじゃないかと思いますよね!?
けど幕府は隠密(スパイ)を日本中に送り込んでいて、各藩のお城の状況などを報告させていました。
(俳句で有名な松尾芭蕉も幕府のスパイだったんじゃないかって噂もあります。)
隠密とは別に正式な使者を送ることもあったので、隠れてこっそり直したり手を加えることはできませんでした。
では、武家諸法度が公布された時に未完成だったお城はどうなったんでしょうか?
公布された時に未完成だったお城は完成させることはできず、未完成のままでした。
徳川御三家・尾張藩の名古屋城も例外は許されず、未完成の状態で工事は終了しました。
そのため名古屋城の北側は石垣の上に櫓はなく、塀すらもありませんでした。
(そのため、農民が堀を泳いで渡って、城内に侵入するという事件も起きています)
武家諸法度以降の新しいお城
武家諸法度で新規築城は厳しく制限されていましたが、幕府の戦略上必要なお城の築城は許されていました。
例えば、明石城(兵庫県)や福山城(広島県)は西日本の大名を監視するために築城しました。
さらに福山城は大きな天守も備えたお城で山陽地方でも屈指の大きなお城でした。
また九州ではキリシタンへの取り締まり強化を期待して島原城(長崎県)も新たに築かれています。
武家諸法度は大名を取り締まっていたので当然江戸幕府には関係ありません。
なので諸大名に命令して江戸城や大坂城の改修・拡張工事が行われ、江戸・大坂は史上最大の天守となりました。
外様大名(関ヶ原の戦い以前に徳川の家臣じゃなかった大名)でも、領地替えの際に新しい領地にお城がなかったり、広い領地をもらったがそれに見合うだけのお城がなかった場合は新しいお城を築くことが許されました。
平和な時代を反映して、お城だけでなく天守の建築も少なくなっていきました。
幕府の江戸城・二条城や大坂城の天主も火事や、落雷によって焼失し以降再建されることはありませんでした。
そのほかの大名も天守を火事などで失った後に再建しなかった例はたくさんあります。
佐賀城(佐賀県)、小倉城(福岡県)、津和野城(島根県)、府内城(大分県)などがあります。
武家諸法度以降に建てられた明石城は天守をのせる石垣だけを築いて、天守は建てませんでした。
そのほかのお城も天守は建てずに、三重やぐらを天守の代わりとするのが一般的でした。
武家諸法度以降に建てられた天守のほとんどは焼失のための再建や、天守代用の三重やぐらがほとんどです。
新規で建てられた天守は福山城や島原城などごく僅かでした。
現存する天守の中にも江戸時代に再建されたものがあります。
- 宇和島城天守(1665年再建)
- 丸亀城天守(1644年頃再建)
- 備中松山城天守(1683年再建)
- 高知城天守(1747年再建)
- 伊予松山城天守(1850年再建)
まとめ
江戸幕府により出された一国一城令と武家諸法度によってお城の発展は途絶えてしまいます。
江戸幕府による支配も安定し、幕末まで外国による脅威もなかった時代ですから、発展が止まってしまうのは当然だと言えます。
江戸時代に建てられたお城の中には戦国時代を経験していない学者が机上の空論で建てた実戦では役に立たないお城もありました。(赤穂城)
幕末から明治にかけて会津若松城や熊本城で戦いがあり、武器や大砲が発達した明治になってもどちらのお城も防御力を発揮しました。
約250年間お城は発展しなかったとはいえ、江戸時代当初からかなりの防御力を持っていたんですね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
次のお城の歴史は幕末・明治について書こうと思います。
スポンサーリンク