お城のいろいろ

築城の名手・藤堂高虎|築城で徳川家康を支えた男の極意とは?

藤堂高虎築城の極意

今回は「藤堂高虎の築城術」を紹介していきます。

織田信長、豊臣秀吉や徳川家康のような権力者は各地で合戦をくり広げていました。そして彼らは新しく領地になった土地ではお城を築いていきます。その影には築城名人と言われる武将がいました。

その一人が藤堂高虎です。

藤堂高虎は徳川家康から信頼されていてもともと徳川の家臣ではなかったけれど、江戸時代初期の徳川のお城のほとんどは高虎による設計でした。

この記事の最後には高虎が関わったお城を紹介しておきます。この記事で築城術のポイントを知っておくと、高虎のお城をめぐる時に以前だったら気づかなかったような事にも注目できて、より楽しむことができます。

まずは高虎の築城術のポイントを紹介しておきます。

  • 築城術1:直線的で四角い曲輪
  • 築城術2:反りのない真っすぐな高石垣
  • 築城術3:コスト削減に繋がった層塔型天守
  • 築城術4:最強の出入り口「内枡形」
  • 築城術5:統一された防御方法

それでは高虎の築城術を見ていきましょう。

Contents

藤堂高虎ってどんな戦国武将?

生涯28城を築いた築城の名手・藤堂高虎

今治城にある藤堂高虎像今治城にある藤堂高虎像

藤堂高虎は現在の滋賀県犬上郡甲良町で1556年に生まれました。
1556年生まれには上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝がいて、徳川家康とは13歳差になります(家康は43年生まれ)。
また高虎が生まれた頃は織田信長は地元の尾張(愛知県西部)を統一するために戦っていた時期でした。

高虎は幼少期から体格に恵まれていて、一人の乳母の乳では足らずに複数の女性の乳を飲んでいたといいます。

高虎は7度主人を変えているよく言われ、浅井長政や阿閉貞征、織田信澄などに仕えていました。しかし最初の頃は主人や同僚家臣とうまく行かずに、同僚を殺害することもありました。

豊臣秀吉の弟・秀長の家臣となってからはメキメキと実力をつけていき、秀長の筆頭家臣へと成長していきます。
また秀長と各地を転戦する中でさまざまなお城・陣の築城に関わっていくことで築城術を身に付けていったと言われています。

秀長・秀吉が亡くなったあとは徳川家康と親しくしていて、江戸時代初期の徳川政権の安定化に高虎は築城術で支えていました。
江戸初期の徳川のお城のほとんどが高虎による設計で、古くからの家康家臣ではなかったけれど、高虎は家康より絶大な信頼を得ていました。

徳川のお城のほとんどを任されていたこともあって、高虎は生涯28城の築城に関わっています。この数字はほかの築城名人といわれる武将たちよりずっと多い。

では高虎の築城術を見ていきましょう。

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藤堂高虎の築城術

ここからは藤堂高虎の築城術を紹介していきます。

築城術1:直線的で四角い曲輪

今治城の本丸|直線的で四角い形をしている今治城の本丸|直線的で四角い形をしている

築城術の一つ目は「直線的で四角い曲輪」

曲輪とは本丸や二の丸といったお城の区画のことで、戦国時代のお城は曲輪のフチをクネクネ曲げることで側面攻撃(横矢)をねらったり、侵入経路を複雑にする目的がありました。

ところが高虎は曲輪の形を四角形で統一していきます。
そうすると四角い曲輪では側面攻撃がねらえなかったり本丸への通路が単純になって、防御面で不利になってしまいます。
しかし四角形の曲輪には不利を上回るメリットがありました。

四角い曲輪のメリット
  • 石垣や多門櫓が築きやすくなる
  • 多門櫓と水堀を利用することで防御での不利をカバーすることができる
  • 四角くすることで土地を有効に使うことができる
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メリット1:石垣や多門櫓が築きやすくなる

彦根城の多門櫓と水堀|藤堂高虎と彦根城には関わりはありませんでした彦根城の多門櫓と水堀|藤堂高虎と彦根城には関わりはありませんでした

1つ目、「石垣や多門櫓が築きやすくなる」とは、クネクネ曲がっている石垣より直線的な石垣のほうが築きやすいということ。
石垣はクネクネ曲がっていると複雑になって築く難易度が上がってしまします。そしてその上に建てられる多門櫓も同様。

そして高虎が家康から任されたお城は天下普請で築かれました。
天下普請では複数の大名家で分担して一つのお城を築いていきますが、なかには石垣や建築技術が未熟な大名家もいました。石垣をクネクネ曲げてしまうと難易度がアップして、築く技術を持つ大名が限られてしまいます。

なので直線的(角・隅が少ない)な石垣で築きやすくすることは、大名家同士で技術の差を小さくするメリットがありました。

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メリット2:多門櫓と水堀を利用することで防御での不利をカバーすることができる

2つ目のメリットは「多門櫓と水堀を利用することで防御での不利をカバーすることができる」です。

多門櫓とは1階建ての長屋のように長く続く櫓のことです。
多門櫓は鉄砲(火縄銃)を天候に関係なく使用でき、櫓内での兵の移動が敵に察知されないというメリットがあり、また中にいる兵は分厚い壁や瓦屋根に守られているので安全でした。

この多門櫓と水堀をあわせて利用することで、堀や石垣を越えて城内に侵入することはほとんど不可能になったと言えます。

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メリット3:四角くすることで土地を有効に使うことができる

二条城の曲輪は四角形に造られている|二条城の設計も高虎がおこなった二条城の曲輪は四角形に造られている|二条城の設計も高虎がおこなった

お城は軍事施設でもあるので防御を優先するのは当然です。
しかし高虎が家康から築城を任されていた時期は、徳川政権で世の中が安定へ向かっていました。

平和な時代になった後のことも考えると、御殿など政治を行う場所を確保しておく必要があります。

そのために曲輪を四角くすることで、無駄な土地がでないように配慮していました。

築城術2:反りのない真っすぐな高石垣

伊賀上野城の反りのない石垣伊賀上野城の反りのない石垣

石垣の高さNo.1のお城は大阪城で、No.2は伊賀上野城です。
そしてこれらの石垣はともに高虎が築いたモノ。

高虎の石垣の特徴は、石垣の下部から上部へかけて真っすぐで反りのないところ。

反りのある石垣というと加藤清正が築いた熊本城が有名。
しかし反りのある石垣を築くにはやはり技術力がひるようになってきます。
加藤清正だったからこそ、熊本城の石垣を築くことができたのです。

なぜ高虎は反りのない石垣を築いたのか?
反りをなくすことで石垣の構造が単純になって、より強固な石垣を築くことが可能。
そして強固になった分、より高い石垣を築くことができます。

ではなぜより高い石垣が必要なのでしょうか?

大坂の陣の後、大坂城は荒廃していました。高虎は2代目将軍・徳川秀忠から大坂城の修築を頼まれ、「秀吉の大坂城より堀の深さや石垣の高さを倍増」するよう命じられました。
大坂城は西日本での徳川の拠点となって、西日本の大名を監視・けん制する必要がありました。

そのため、高い石垣を築いて他の大名に見せつけることで、徳川の権力と財力を知らしめ逆らう気を起こさせないようにしていました。

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築城術3:コスト削減につながった層塔型天守

層塔型天守に分類される名古屋城大天守層塔型天守に分類される名古屋城大天守

層塔型天守とは、五重塔のように1階から最上階まで順に積み上げていく形の天守です。

天守の形には「望楼(ぼうろう)型天守」と「層塔型天守」の二つがあります。
形としては望楼型天守の方が古く、織田信長の安土城天守や秀吉の大坂城天守は望楼型天守でした。
これに対して層塔型天守は望楼型天守のあとに発展してきた天守の形でした。

層塔型天守は下の階から上の階へ規則正しく小さくなっていきます。
なので構造がカンタンで材木を規格化しておいて、前もって材木を加工しておくことができました。
このことから費用と時間をともに節約することができたのです。

なぜ時間の節約が必要だったのか?
高虎が家康から築城を任されていた時期は徳川政権で安定する方向へ向かっていました。それでもまだまだ政治的に不安定で、いつ合戦が起きるかわからない状況でした。
さらに高虎は複数の築城を同時に任されていました。

いつ合戦が起きるかわからない状況で複数のお城を同時に完成させていくためには、時間を無駄にすることはできません。
そこで高虎は層塔型天守を発案し築いていくことで、各地にすばやくお城を完成させていきました。

また層塔型天守はカンタンな構造のため、柱や梁のつなぎ目が少なく頑丈なつくりにすることができました。
それゆえに名古屋城天守のような大天守を築くことを可能にしました。

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築城術4:最強の出入り口「内枡形」

大阪城大手門の内枡形大阪城大手門の内枡形

「内枡形(うちますがた)」というのはお城の出入り口の形のひとつ。

枡形と呼ばれる四角形の空間を、城門や多門櫓、塀で囲んでいました。そしてここに侵入した敵兵を周囲から一斉に攻撃することが可能でした。

高虎のお城は曲輪が四角くて単純なので、戦闘は出入り口に集中していきます。
出入り口を内枡形にすることで、お城の構造は単純だけどカンタンに落ちないお城にすることができました。

高虎は江戸・名古屋・大坂城で主要出入り口はすべて内枡形にしています。
さらにこれらのお城の内枡形は他のお城より巨大で、より堅固にしていました。
おまけに出入り口の横に櫓を建てることで、さらなる防御力アップもはたしていました。

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築城術5:統一された防御方法

ここまで4つの築城術を紹介してきました。
高虎はこれら4つの築城術をすべての徳川のお城で採用してきました。

家康は関ヶ原の戦いのあとから大坂の陣で豊臣家を滅ぼすまでの15年間、西日本にいる豊臣派の大名と大坂城にいる秀吉の子・豊臣秀頼が協力して徳川を攻めてくることを想定していました。

その場合、大坂〜江戸の間で何度も合戦が起きます。
各地を転戦する徳川軍は不慣れなお城でも戦わなければいけない状況になるかもしれません。
そこで各お城のパーツや曲輪の形を統一しておくことで、違うお城でも同じように戦うことが可能になります。

例えば江戸城から名古屋城へ救援に来た兵士たちは、まったく名古屋城が初めてだったとしてもお城のパーツが統一されているおかげで不安もなく戦うことができます。

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藤堂高虎の築城術 まとめ

今回は「藤堂高虎の築城術」を紹介しました。

高虎はもともとは秀吉の家臣で、関ヶ原の戦いまでは徳川家康の家臣ではありませんでした。

このことから、外様大名である高虎が徳川のお城を設計するのはおかしい、もともと家康の家臣だった譜代大名に任せるべきと高虎は家康にいいました。
しかし家康は「高虎以外に適任者はいない」として高虎に築城を命じていました。

外様大名ながら家康から絶大な信頼を寄せられていた高虎は、今回紹介した築城術で家康の期待にこたえていきました。

高虎のお城を巡るときは、ぜひこの記事を参考にして高虎の築城術を楽しんでください。

最後にもう一度ポイントをおさらいしておきます。

  • 築城術1:直線的で四角い曲輪
  • 築城術2:反りのない真っすぐな高石垣
  • 築城術3:コスト削減に繋がった層塔型天守
  • 築城術4:最強の出入り口「内枡形」
  • 築城術5:統一された防御方法
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藤堂高虎が関わった主なお城

今治城

今治城今治城

愛媛県今治市にある今治城。

今治は高虎が関ヶ原の戦いの恩賞として家康からもらった領地で、宇和島城から新たな居城とするために今治城を築城しました。

今治城は三大海城にも数えられていて、三重に巡らされた堀には海水が引きこまれていました。

また初めての層塔型天守が建てられたのも今治城でした。
この時の天守は高虎が津城へ移っていく時に解体していて、もともと高虎は津城か伊賀上野城へ移築する予定でしたが、家康からの要請もあって丹波亀山城へと移築されています。

見どころの一つは海水を引き込んだ水堀で、幅60mにもなる広さには圧倒されます。
また高虎の築城術の一つでもある反りのない石垣を見ることもできます。

  • 愛媛県今治市
  • 電車での行き方:JR予讃線「今治駅」より、せとうちバス「今治営業所行き」で約9分「今治城前」下車
  • クルマでの行き方:瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)「今治北IC」から車で約15分
  • クルマでの行き方:松山自動車道 → 今治小松自動車道「今治湯ノ浦IC」から車で約20分
  • 詳しくはこちら:「今治城|今治市 文化振興課

伊賀上野城

伊賀上野城伊賀上野城

三重県伊賀市にある伊賀上野城。

今治城から伊勢、伊賀の領地へと高虎が移ってきた後に改修したお城です。

高虎は伊賀上野城を石垣や水堀を設けて、お城の範囲を3倍に広げました。
この大改修は大坂にいる豊臣秀頼にそなえて行われました。

また高虎は伊賀上野城の改修中に暴風雨にあって、建築途中だった天守が倒壊してしまいました。
またお城の完成より先に大坂の陣によって豊臣家が滅んだことから、築城工事はストップされ未完成のまま江戸時代を過ごしてきました。

伊賀上野城の見どころはなんと言っても高石垣。
本丸西面にの高石垣は約30mあり、石垣城から水堀を見下ろすと恐怖を感じるほどです。

  • 三重県伊賀市
  • 電車での行き方:伊賀鉄道「上野市駅」より徒歩8分
  • クルマでの行き方:名阪国道「中瀬IC」もしくは「上野IC」より約10分
  • 詳しくはこちら:「伊賀上野城|公式ホームページ

大阪城(大坂城)

大阪城大阪城

大阪府大阪市にある大阪城。

大坂城は豊臣秀吉のお城として有名で、日本有数の大きさ(広さ)を誇っています。

現在の大坂城の形は、大坂の陣で豊臣家が滅んだ後に高虎が改修した姿。
2代目将軍・徳川秀忠が高虎に命じて、秀吉の大坂城のうえに盛り土をして、堀の深さや石垣の高さを倍増させています。

大阪城の見どころはたくさんあるものの、二の丸南側の長大な石垣と広大な水堀は必ずみておいてほしいポイント。
また大手門・桜門・京橋門跡の巨石も見どころの一つです。

  • 電車での行き方:地下鉄大阪メトロ、谷町線「谷町4丁目駅」「天満橋駅」
  • 電車での行き方:JR大阪環状線「森ノ宮駅」「大阪城公園駅」
  • クルマでの行き方:阪神高速13号東大阪線「法円坂出口」または「森ノ宮出口」
  • 詳しくはこちら:「特別史跡 大阪城公園

 名古屋城

名古屋城名古屋城

愛知県名古屋市にある名古屋城。

名古屋城は徳川家康が1610年から西日本の大名たちに命じて築かせた天下普請のお城。

家康は高虎に名古屋城の設計(縄張り)を依頼しています。
現地でもらえるパンフレットを見てもらうと、高虎の築城術の一つ「四角い曲輪」がよくわかります。

また名古屋城には現存している櫓が3棟あり、2018年に復元が完成した本丸御殿が見どころのひとつです。

  • 愛知県名古屋市
  • 電車での行き方:地下鉄名城線「市役所駅」下車 7番出口より徒歩5分
  • 電車での行き方:名鉄瀬戸線「東大手駅」下車 徒歩15分
  • クルマでの行き方:名古屋高速1号楠線「黒川」出口より南へ約8分
  • クルマでの行き方:名古屋高速都心環状線「丸の内」出口より北へ約5分
  • 詳しくはこちら:「名古屋城公式ウェブサイト

 篠山城

篠山城篠山城

兵庫県篠山市にある篠山城。

篠山城は徳川家康が1609年から西日本の豊臣派の大名に備えて天下普請で築かせたお城。

篠山城は大坂や京都から山陽・山陰地方へと通じる交通の要衝として重要視されていました。
篠山城でも高虎が設計(縄張り)を担当していて、四角形の曲輪を用いていて今治城との共通点も見ることができます。

篠山城の見どころの一つは馬出で「南馬出」と「東馬出」がよく残されています。

  • 兵庫県丹波篠山市
  • 電車での行き方:JR福知山線「篠山口駅」より神姫グリーンバス篠山営業所行き「二階町」バス停下車 徒歩5分
  • 舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口IC」より東へ約10分
  • 詳しくはこちら:「ぐるり!丹波篠山|丹波篠山市観光情報サイト

参考資料+オススメ書籍