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土の城の王者
織田信長の安土城ができる以前のお城、群雄割拠の戦国のお城は基本的には土のお城でした。
それらは安土城、大坂城のような総石垣のお城と比べると防御力に劣り稚拙で原始的に思えます。しかしこれらのお城は戦国時代の実戦で培われたノウハウが詰まったお城です。
戦国時代の地方リーグを勝ち上がってきた戦国大名の中には独自の技術・築城術を持ち、進化させた大名もいました。
特に優れたお城を築いていたのが甲斐(山梨県)の武田氏と相模(神奈川県)の後北条氏です。そのお城は理論的で一時期は他の地域の戦国大名を圧倒するほどでした。
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関東各地に優れたお城を築いてきた後北条氏ですが、最初からその技術・ノウハウを持っているわけではありませんでした。後北条氏は神奈川県小田原市を拠点にして関東地方へと勢力を伸ばしていった戦国大名です。一部の例外を除いて小田原から遠ざかるほど発達した構造を持つお城があります。
なぜ小田原から遠ざかるほど発達した構造を持つお城が現れるのか?それは支配領域拡大していく最中で獲得していった技術・ノウハウは常に最前線のお城に投入されていったからです。また小田原城のような支配の拠点になるようなお城も改修されながら発展していきました。
当時、お城を築いたからといってずっと使い続けるということはしませんでした。特に最前線に築かれた純戦闘目的のためのお城は戦況の推移、政治情勢の変化などによって築城と廃城を繰り返していました。
後北条氏にとっての前線は関東地方を北上していったので小田原から遠ざかるほど発達した構造を持つお城が現れることになりました。
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南関東地方は戦国時代の早い時期から戦乱が絶えず起きていました。そのため築城に関する技術もある程度蓄積されていました。
後北条氏が主戦場とした関東地方は平地と低い丘陵が多いため、大規模な横堀が発達していました(第0段階)。お城を横堀と土を盛った土塁で囲むと出入口がないので味方の出入りもできなくなるので、どこかで堀と土塁を切って出入口(虎口)を設けなければいけません(第1段階)。
出入口を設けることでお城での戦闘は自然と出入口付近に集中することになります。そのため後北条氏は出入口を屈曲させることで敵の侵入を防ごうと考えました。戦闘が出入口に集中するため後北条氏では二つの技術を独自に進化させていきました。それは「桝形虎口」と「角馬出」です。まずは「角馬出」から見ていきましょう。
第1段階の虎口(出入口)では城内から反撃しようとしても、虎口が狭く一度に多くの兵を出すことができないばかりか、虎口を出てすぐに敵と戦闘しなければなりません。そのため虎口を出て橋を渡った先の対岸部分の確保が重要になってきます。そのため後北条氏は確保するために堀や土塁で囲った小区画を設けそれが角馬出へと進化していきました(第2段階)。
対岸部分のことを帯曲輪といいますが、第3段階になると帯曲輪を伴わない角馬出になります。第3段階の角馬出は横堀の対岸部分の確保と城兵の出入りの掩蔽だけにとどまらず、普及してきた火縄銃を用いることで射撃陣地としての性格も持たせました。
豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)の頃にはさらに火縄銃が普及していて、射撃戦の激化をうけてさらに射撃陣地としての機能を強化していきました(第4段階)。小田原攻めの戦場となった山中城(静岡県三島市)などでは敵の侵入経路を攻撃するための射撃陣地となっています。
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「角馬出」とともに虎口を強化するために進化させていった技術が「桝形虎口」です。
桝形虎口は出入口を屈曲させることで敵の侵入を防ぐ技法です。第1段階の桝形虎口は橋を渡って虎口に侵入して左右どちらかに折れるだけであったが、第2段階では2回折れる桝形虎口になっています。進入路を複数回屈曲させることで敵のスピードを殺すとともに視界を妨げました。
後北条氏は第2段階を経て桝形虎口をさらに進化させていきました。最末期の山中城や八王子城(東京都八王子市)では屈曲を繰り返す長大なスロープ・階段状の桝形虎口になり後北条氏の極めた桝形虎口です(第3段階、第4段階)。
関東地方の覇者となった後北条氏は戦国時代を通じて得ていった技術・ノウハウを用いて、虎口の攻撃機能を担った「角馬出」は外へと突出させ、「桝形虎口」は内へと伸ばしていきました。