今回は「松江城の歴史」について解説していきます。
- 松江城の歴史について知りたい
- 松江城を観光・見学する前に知っておきたい
- 松江城を観光・見学したけど、もっと知りたくなった
この記事で紹介する3つのポイントについて知っておくだけでも、松江城の歴史について人より詳しくなることができますよ。
- 関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴・忠氏が築くも、完成前後に相次いで死去
- 明治時代、お城の建物はすべて解体されることが決定するも、旧藩士の尽力によって天守は守られた
- 63年ぶり!天守として国宝に指定された松江城天守
この記事を読み終えたら、友達にガイドすることもでき、現地の解説板もより理解できるので、じっくり読んでみてください!
Contents
松江城とは?
島根県の県庁所在地・松江市にある松江城。
松江城は宍道湖畔にある標高28mの亀田山に築かれた平山城で、本丸には山陰地方で唯一の現存天守があります。
天守は極めて実戦的に作られていて、多数の狭間(さま・攻撃用の小窓)や石落としなど防御の仕掛けが設置。
2015年には重要文化財だった天守が国宝へと指定されたことでも話題を集めました。
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松江城を築いたのは堀尾吉晴・忠氏父子
1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方した堀尾吉晴・忠氏は、出雲・隠岐2カ国24万石の領主となりました。
堀尾吉晴とは豊臣秀吉に仕え、豊臣三中老のひとりとして活躍した武将。松江に来る前は浜松城を居城としていました。
堀尾吉晴は最初、月山富田(がっさんとだ)城へ入りました。月山富田城とは戦国時代を通して出雲で中心的なお城でした。しかし月山富田城は山城で交通の便が悪く、家臣団を住まわせるための大きな城下町を作れないなど不便なところでした。
そのために堀尾父子は新しいお城を築くことを決定。それが「松江城」でした。
なぜ松江が選ばれたのか?
松江城は1607〜11年の4年の歳月をかけて築かれました。
それ以前にお城の建設場所を探すことにも4年間かけていたとも言われています。
そして月山富田城から約20㎞離れた、亀田山に松江城が築かれることに決定。亀田山は南西を宍道湖に、南東を大橋川に守られた標高28mの丘でした。
当初、吉晴と忠氏との間でお城の建設場所を巡って意見が対立。しかし建設場所を決める前に忠氏が急死してしまい、吉晴は自分の希望を捨てて息子の遺志をついで亀田山にお城を築くことにしたと言われています。
松江城の人柱伝説と盆踊り
お城にまつわる怪談話として多いのは築城の際に人を生き埋めにする人柱伝説。松江城にも人柱伝説が残されています。
松江城が築かれた亀田山は、宍道湖畔だったために軟弱地盤だった。そのため石垣工事がうまく進んでいませんでした。
そこで考えた家臣は「盆踊り」を開催。そのなかで、美しく踊りの上手な娘を選ぶと、人柱として石垣の下に生き埋めにしてしまいました。
その後、松江城は無事完成。しかしお城の完成と前後して城主父子(吉晴と忠氏)はともに死去。城主を継いだのは当時6歳だった忠氏の子:忠晴。しかし忠晴も跡継ぎがいないまま1633年に死去してしまい、堀尾家は跡継ぎがなくお家取りつぶしとなってしまいました。
松江では人柱とされた娘のたたりを恐れて、盆踊りを踊らなくなりました。今でも松江市の一部地域では踊られていないと言われています。人柱は本当かどうかはわかりませんが、築城が困難だったということを伝えるエピソードだと思います。
松江城周辺の治水に貢献した京極忠高
堀尾氏のあと、松江城の城主となったのは京極忠高。忠高は堀尾氏が持っていた領地に加えて世界遺産にもなった石見銀山も与えられました。
しかし忠高は城主となった4年後の1638年に、跡継ぎがないままに死去。わずか1代で再び松江城主は後退することになってしまいます。
忠高はわずか4年間の間にも実績を残していて、松江周辺の治水工事に力を入れていました。
斐伊川や伯太川がたびたび氾濫。住民を苦しめていました。そこで忠高は土手を築くことで氾濫に対処。
土手の完成は忠高の死後になったものの、住民はこの土手を「若狭土手」(忠高は松江の前は若狭・小浜城城主だったことから「若狭」がつけられている)と名付けました。
現在でも住民の間で「若狭土手」と呼ばれています。
松江城を幕末まで治めた松平氏
京極氏のあと松江城主となったのが、松平直政。直政の父は結城秀康といって、家康の次男でした。なので直政は家康の孫にあたる人物。
松江城は直政以降、松平氏が10代にわたって治め、幕末まで続いていきます。
なかでも松平氏7代目治郷(はるさと)は文化面でも松江の発展に大きく関与。
治郷は茶道が得意で「不昧(ふまい)」と名乗り、茶道石州流不昧派の元祖となり、今も「不昧公」と親しまれています。
松江城もまきこまれた!明治の廃城令
幕末の頃の松江藩は、幕府側と明治新政府(薩摩・長州)側とどっちつかずの態度をとっていた。結局は明治新政府側に味方することになり、1868年に起こった戊辰戦争のときには京都の守備を任されていました。
新政府側だったために、幕末の動乱に松江城は巻き込まれることはありませんでした。
存城が決まるも建物は壊されることに
明治時代になり1871年の廃藩置県により松江藩は消滅。1873年の廃城令によって松江城は陸軍の所有となりお城は残されることになりました。
しかし陸軍の兵舎や訓練場のためにお城の建物はすべて取り壊されることに。
天守も当時の180円(米俵約60俵分)で売却。
このとき松江藩の元藩士や地元の有志が同額のお金を国に納めることで天守を買い戻し、天守だけは解体の危機から守られました。
島根県知事によって天守が修理された
1890年、松江城は旧藩主の松平家に払い下げられることになり、その後「千鳥遊園」として一般に開放されました。
この頃、築城から約280年以上たっていた天守は傷みが激しい状態になっていました。
そこで島根県知事:籠手田安定(こてだやすさだ)の呼びかけにより「松江城天守閣旧観維持会」が発足。
1894年には天守の大規模な修繕が行われました。
このときに徳川家康と藩主だった松平直政を祀っている松江神社が二の丸へ移されました。
戦後に修理と復元が進んだ松江城。ついに国宝へ!
1927年には、松平家から松江市に松江城を寄付され、本丸と二の丸は城山公園として整備。
1934年には城跡が国の史跡にしていされ、翌35年には天守が旧国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されました。
天守は戦争での被害もなく、終戦を迎えます。
戦後の修理と、復元
戦後の松江城は修理と復元が行われていきます。
1950年には文化財保護法によって天守が重要文化財に。そしてこの年から5年間かけて天守の解体修理も行われました。古く、傷みのある材木を新しいものに交換するなど、古図面や写真などをもとに当時のままに復元されました。
1960年には本丸一の門、南多門の一部が復元。
94年には三の丸と二の丸を結ぶ廊下橋(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋(旧眼鏡橋)が復元。
2000〜01年にかけては二の丸にあった3基の櫓(やぐら)、南櫓・中櫓・太鼓櫓が復元されています。これらは明治時代に解体されてから125年ぶりの復元でした。
松江市は大手門の復元に向けて動いていて、懸賞金をかけて古い図面や写真などを探しているそうです。
63年ぶりに天守が国宝に指定された
2015年7月8日、松江城天守は国宝に指定されました。
現存天守の国宝指定は、松本・犬山・彦根城天守が国宝になった1952年以来63年ぶりのでき事でした。
なぜ最近になって松江城天守が国宝になったのか?それには2つの理由がありました。
- 「慶長十六年」と書かれた祈祷札(きとうふだ)2枚が松江神社より再発見され、天守の完成時期が1611年(慶長16年)であることが判明したこと
- 2階分の通し柱や包板の技法を用いた特徴的な柱構造が解明され、江戸時代初期の天守建築に優れた技法を用いた事例であることが判明したこと
上記2つのポイントが認められたことで、松江城天守は国宝に指定されました。
スポンサーリンク松江城の歴史 まとめ
今回は松江城の歴史を紹介しました。いかがでしたか?
今回紹介した松江城の歴史に関する事がらを覚えておくだけで、実際に観光したときの手助けになります。
最後にポイントをおさらいしておきましょう。
- 関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴・忠氏が築くも、完成前後に相次いで死去
- 明治時代、お城の建物はすべて解体されることが決定するも、旧藩士の尽力によって天守は守られた
- 63年ぶり!天守として国宝に指定された松江城天守
お城にはそれぞれ個性のある歴史を持っています。それらを知ることでよりお城を楽しんでいきましょう!!
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