今回は松本城の歴史を解説していきます。
松本城(長野県)は国宝天守のうち2基のみとなっている五重天守で有名です。
(もう一つは姫路城の大天守)
黒い天守とアルプスの山々とのコントラストが美しいことでも有名な松本城。
では松本城にはどんな歴史があったのでしょうか?
今回の記事は、これから松本城へ観光される人、観光してきたけれどもっと松本城について詳しく知りたい人にオススメです。
- 武田信玄の信濃支配の拠点だった
- 現在の松本城は石川氏時代に築かれた
- 明治に地元の有志によって守られた松本城天守
では松本城の歴史を見ていきましょう。
Contents
松本城は武田信玄の信濃支配の拠点だった
松本城が築かれたのは、1504〜21年の間に、信濃守護をつとめていた小笠原氏によって築かれました。(信濃(しなの)とは長野県の旧国名)
築城された当初は松本城とは呼ばれていなくて、「深志(ふかし)城」と呼ばれていました。
小笠原氏は松本平の中心に位置する「井川城(いがわじょう)」を本拠地としていたが、戦国時代となって戦さが多くなってくると、より守りやすいお城として井川城より東の山地にある「林城」を築いて移りました。
小笠原氏は守りをより強くするために林城のまわりにいくつもの支城を築いていきました。その一つが「深志城」でした。
深志城は林城の北面を守るために築かれました。
その後、小笠原氏と深志城には危機が訪れます。
その危機とは「武田信玄」です。
武田信玄は年々信濃への攻撃を強めていました。
1548年、小笠原氏の当主・長時は信玄と塩尻峠で戦いました。しかしこの戦いには敗北してしまいます。
そして1550年には信玄は小笠原氏側のお城を攻撃。林城を守る支城を落としていきます。これに耐えられなかった小笠原長時は林城や深志城を放棄して、信濃北部へと逃げていきました。
林城や深志城を手に入れた信玄は、これまでこの地域の中心として機能していた林城ではなく深志城をこの地域を治める拠点としました。
武田氏の次に深志城を手に入れたのは徳川家康。
1582年3月に武田氏が滅亡、そして6月には本能寺の変が起こり、武田氏から織田氏へと支配者が変わって間もなかった信濃は大混乱になります。
そんな大混乱の信濃を治めたのが徳川家康。
そして深志城も徳川家のお城となりました。
徳川時代の深志城の城主となったのは、武田信玄に攻められ逃げていった小笠原氏の子孫・小笠原貞慶でした。逃げのびていったあと徳川家康の家臣となっていたのです。
家康のおかげで小笠原氏はもともとの領地を再び手に入れることができました。
そしてこの時、深志城から「松本城」へと名前を変えました。
しかし松本城城主となった小笠原氏の時代も長くは続きませんでした。
1590年、豊臣秀吉による北条氏を滅亡させた小田原攻め後の領地配分の結果、家康は旧北条領である関東へと移ることに。家康家臣だった小笠原氏も家康に従って関東へ移らなくてはいけませんでした。小笠原氏にとって再び手に入れた領地は約5年で手放さなければなりませんでした。
スポンサーリンク現在の松本城は石川氏が築いた
家康が関東へと移ったあと、松本城城主となったのは石川数正・康長親子です。
この石川数正はもともと家康につかえる武将でした。しかし秀吉によって引き抜かれ、この時は独立した大名として秀吉の配下になっていました。
石川氏親子が松本へ来たあと、お城と城下町の大改修を始めます。そしてこのときに現在の松本城の基礎ができあがる。のちの時代にもさまざまな改修が行われますが、ほとんどはこの石川氏によって築かれ形作られました。
数正の子・康長の代になると、御殿・太鼓門・黒門・櫓(やぐら)・塀などが造られ、本丸・二の丸・三の丸が整備されました。
1600年の関ヶ原の戦いの時には、石川氏は徳川家康の東軍に味方しました。そして東軍が勝利をしたので、石川氏の領地はそのまま保証され、ひきつづき松本城の城主を務めました。
しかし1613年に石川康長は豊後(大分県)・佐伯へ流罪になってしまいました。
流罪とされた原因は、江戸幕府の外様大名外しにまきこまれた、大規模なお城の工事が目に余ったなど、いろいろな理由が考えられています。
石川氏が去ったあと、再び小笠原氏が松本城の城主として復帰しました。
残念ながら3度目の小笠原氏時代も長くは続かなかった。
1615年、徳川家康が豊臣氏を滅亡させた大坂夏の陣がおこりました。この戦いに小笠原父子も参加。しかし父子ともに戦死してしまったのです。
小笠原氏は父子ともに戦死してしまったので、その後は別の大名が松本城城主となっていきます。
しばらくは城主がひんぱんに入れ替わる時代が続き、1726年に松平(戸田)光慈(みつちか)が城主となりました。
(1617年松平康長、1633年松平直政、1638年堀田正盛、1642年水野忠清が城主となっている)
以降、戸田氏が明治維新まで松本を治めました。
スポンサーリンク廃城令、老朽化を乗り越えた松本城天守、その裏で尽力した人がいた
1871年、廃城令によって松本城の取り壊しも決定されました。
二の丸御殿を除いて、天守などの建物は競売に。そして天守は235両で民間人へ売却されてしまいました。(幕末の1両を現在の価値に直すと、19〜22万円だそうです。なので235両=4465〜5170万円になります)(二の丸御殿は当時の筑摩県の県庁として利用されていた)
美しい天守が解体されてしまうことにを残念に思った「市川量造(いちかわりょうぞう)」は天守を買い戻すことを決意。そして東京・大阪で募金を募り、松本城内で博覧会を開き観覧料を資金にあてていました。
廃城令の結果、松本城の建物は天守群を除いて解体されてしまいました。
明治の中頃になると天守に2度目の危機が訪れます。
天守の老朽化が進み、傾くまでになってきていました。
この時二の丸には長野県中学校松本支校が建てられていました。初代校長の「小林有也(こばやしうなり)」は荒れた天守を保存するために「松本天守閣保存会」を設立。
寄付を募って資金を作り、1903〜13年までの約10年間にわたって天守の大修理が行われました。
その後の松本城は、1930年に城跡が国の指定史跡に、1936年には大天守をはじめ乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓が旧国宝に指定されました。
明治の大修理から30年以上たった終戦時には、再び天守の傷みが著しくなってきていた。
松本市長や市民の働きかけによって、国宝保存工事の第1号として1950〜55年にかけて解体修理が行われました。
戦後の松本城では廃城令によって解体されてしまった建物の復元が進んでいます。
1960年には本丸の黒門・一の門が復元。
79年からは二の丸御殿跡の発掘調査が行われ、堀・土塁などの一部を復元。そして史跡公園として整備されました。
89年には黒門・二の門と土塀の復元、99年には二の丸太鼓門が復元されました。
スポンサーリンク松本城の歴史 まとめ
松本城の歴史はいかがでしたか?
現在の松本城に国宝天守が残っていて観ることができるのは、明治に天守を守ろうとした人々のおかげでした。
下記に松本城の歴史のポイントをまとめました。
- 松本城はもともと深志城という名前だった
- 深志城を築いた小笠原氏、何度も城主になるが長くは続かなかった
- 武田信玄の信濃支配の拠点だった
- 松本城の基礎を築いたのは石川数正・康長父子
- 明治、市川量造・小林有也が尽力し天守を守る
- 戦後、廃城令によって解体された建物の復元が進んでいる