今回は「環濠集落」について解説していきます。
環濠集落は学校の歴史の授業で習うので誰もが聞いたことあると思います。
しかしその実態はどういうものだったのか、よくわからないままだったのではないでしょうか?
環濠集落の代表「吉野ヶ里遺跡(佐賀県)」は日本100名城にも選ばれるなど、集落でありながらお城でもあるとされています。
そこで今回はみんな聞いたことあるけど詳しくは知らない、「環濠集落」について解説していきます。
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環濠集落の「分布」と「規模」
環濠集落は九州から関東・北陸まで全国で600ヶ所以上あるといわれています。
大きさもさまざまで、3000平方メートル以下の小規模なものから、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)は27万平方メートルまであります。
小型 | 3000平方メートル以下 |
中型 | 3000〜1万平方メートル |
大型 | 1万〜3万平方メートル |
巨大型 | 10万平方メートル |
吉野ヶ里遺跡 | 27万平方メートル |
標準的な環濠集落は、中型5000〜大型2万平方メートル。
大型集落で20〜30棟の建物があり、人口100人程度だといわれています。ちなみに吉野ヶ里遺跡では1200人が住んでいました。
環濠集落がそれぞれ1つで存在していたわけではなく、大型・巨大型の集落を中心に周囲に小さな村がありました。それら全体をさして「クニ」と呼んでいます。
中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「クニ」も、こうした大型の環濠集落と周囲の村々で構成される「クニ」だと考えられています。
環濠集落の「防御力」
環濠集落は“集落”とはいっても、濠や柵など防御のための設備を持っていました。
環濠集落ではそれらの設備でどうやって守っていたのか見ていきましょう。
まずは「濠」
濠の標準的な大きさは「幅2m」「深さ1.5〜2m」でした。大きなものだと「幅3〜4m」のものもありました。
環濠集落の特徴は、濠が柵や土塁の内側にあることです。
戦国・江戸時代のお城の堀は土塁や石垣の外側に堀がありますが、環濠集落では土塁の内側に濠が作られているのが特徴の1つです。
そして「逆茂木(さかもぎ)」とは、刈ってきた木々を枝を残したまま、柵の外側などに並べてバリケードにしたものです。木をほとんど加工しなまま使えるので、便利。
お城の緊急時に逆茂木はすぎに用意ができるので戦国時代でも使われていました。
「乱杭(らんぐい)」とは、ランダムに地面に立てた木の丸太のこと。
柵や濠を越えてきた敵が乱杭に手こずっているところを、槍などで攻撃していました。
環濠集落では、逆茂木や乱杭など手間がかからないけど、守りに大きな効果がえられるものが使われていました。
まだまだ木材や金属の加工技術が未発達なので、カンタンなもので集落を防御していました。
「高地性集落」とは?
環濠集落と同時期に出現した集落の一つで「高地性集落」というものがあります。
「高地性集落」とはそのまま字のとおり、高いところにある集落。
平地から比高100メートル以上の山にも築かれるなど、農耕に適していない場所にありました。
山の尾根や中腹など、まわりがよく見渡せる場所にあることが特徴です。
以前、山という立地に高地性集落があることから、中国の歴史書「魏志倭人伝」のなかの「倭国大乱」と関係があるのではないかと言われていました。
しかし、高地性集落の遺跡から出土する遺物の年代と、倭国大乱が起きていたであろう年代がズレているので、現在では関係ないとされています。
ではなぜ農耕に適していない山に集落をつくったのでしょうか?
下記のような理由が考えられています。
- 洪水から逃れるため
- 焼畑など山住みの集落
- 西から来る人・物の見張り・監視のための施設
まとめ
今回は「環濠集落」について解説しました。
環濠集落はただの集落ではなく、周囲の村々を従え、守りを固めたお城・拠点だったということがわかりましたね。
九州から関東・北陸にかけて600ヶ所の環濠集落があると言われています。
環濠集落に興味を持たれたなら、ぜひ近くの遺跡へ行って体感してみてください。
そのときにはぜひこの記事を参考にしてみてください。