今回は「庭園」について解説していきます。
日本三大庭園・名園といわれる庭園があります。水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」、岡山の「後楽園」です。
これらの庭園は四季折々の美しい景色をわたしたちに見せてくれます。
みなさん、知っていましたか?
これらの庭園はすべてお城に付属した施設だったことを。
お城というと戦うための軍事施設であり、政治をするための政庁というイメージがあると思います。
しかし江戸時代にはお城と庭園はセットで築かれていました。
- 室町幕府の花の御所をマネして、全国へ広まっていった!
- 近世城郭ではじめて庭園をつくったのは秀吉!
- 庭園のつくり
では庭園について解説していきます。
Contents
室町幕府の花の御所をマネして、全国へ広まっていった!
武士が庭園を築くことが一般的になったのは室町時代からでした。
室町幕府の3代将軍足利義満は、京都に「花の御所」を築くことで自分の権力を見せつけていました。
花の御所には庭園があり、鴨川から水をひいていて、全国の武士から献上されたさまざまな草木が植えられていたと伝わります。(ゆえに花の御所とよばれました)
足利将軍の花の御所を見ていた武士(守護)たちは自分の領地でもマネして館を築くようになりました。
館の面積の大小はありますが、基本的な庭園・会所・常御殿・対屋・台所などの建物の配置などは同じでした。
なぜみなが花の御所をマネしていったのかというと、武士(守護)たちがそれぞれの領地を円滑に支配していくために、花の御所をマネした館を築くことで室町幕府がバックについている(後ろ盾がある)ということをアピールすることが狙いでした。
そして「会所」といわれる建物に客人をまねき、庭園を眺めながらもてなしていました。
- 一乗谷朝倉氏館(福井県)
- 北畠氏館(三重県)
- 吉川元春館(広島県)
- 京極氏館(滋賀県)
近世城郭ではじめて庭園をつくったのは秀吉!
室町幕府の花の御所やそれをマネした守護館の庭園は、兼六園などの三大庭園と比べると大きさも小さく、ずいぶん違うものでした。
では兼六園や偕楽園などにつながる庭園をはじめて築いたのは誰でしょうか?
それは秀吉であり、大阪城でした!
秀吉は大坂城に庭園をつくり、山里曲輪とよんでいました。
山里曲輪には庭園のほかに、御殿・茶室などが設けられ、秀吉自身の遊興のためや家臣・大名たちとの交流のために使われていました。
山里曲輪とよばれる曲輪は大坂城だけではなく、いろいろなお城にもありました。
- 姫路城(兵庫県)
- 明石城(兵庫県)
- 伏見城(京都府)
- 肥前名護屋城(佐賀県)
など
御殿と庭園はセットで築かれた!
近世城郭において、庭園と御殿はセットで築かれていました。
例えば二条城(京都府)、二条城には「本丸御殿」と「二の丸御殿」の2つの御殿があります。
それにともなって、庭園も「本丸庭園」と「二の丸庭園」の2つが造営されました。
御殿へ来た客人をもてなすため(庭園を眺めながら茶の湯など)に、御殿と庭園をセットで築く必要がありました。
城外に築かれた庭園は防御施設でもある
ここまで見てきた、「大坂城」「二条城」はお城のなかに庭園がありました。
反対に、城外に庭園を築いた例もあります。
「岡山城(岡山県)」と「金沢城(石川県)」がその代表例です。
下の画像をそれぞれ見てください。
岡山城も金沢城もお城の外に築かれています。
庭園といってもお城の施設です。なので、庭園を城外につくることでお城の防御を固めていました。そのまま、「お城を増築する」と言えば、武家諸法度で禁じられているので幕府には認められませんでした。しかし「庭園をつくる」と言えば幕府も何も文句は言えませんでした。
後楽園を岡山城の川の対岸につくることで、お城の裏口(搦手)を守る役目もありました。
スポンサーリンク庭園のつくり
庭園といっても、ただ適当に池や木々を配置しただけでは美しい景色にはなりません。
大名それぞれの腕の見せ所です。
庭園は、大きな池を海にみたて、その周りに大きな石や起伏のある地形を使って山や平地を表現していました。
そして眺めるための茶室や東屋などが置かれていました。
まとめ
- 室町時代の武士の館には庭園が必ずあった
- 秀吉の大坂城ではじめて近世城郭に庭園ができた
- 御殿と庭園はセットで築かれた
- 城外に築かれた庭園には防御の役割もあった