今回は、「街道と港」について解説していきます。
現代でも戦国時代でも街道や港をおさえることは軍事・経済的にも重要なことでした。
戦国時代では道の整備が不十分なので、1000人や2000人など軍勢を移動させるためには街道を通るしかありません。なので、街道のそばや監視できる場所にお城を築いて、敵の進軍を妨げていました。
江戸時代には徴収した年貢米を大坂や江戸で売るために、船で運んでいました。一度にたくさんのモノを運ぶためには水運の利用が不可欠で、そのために城下町には舟入(ふないり、港のこと)が整備されていきました。
- 信長が行なった安土を発展させるための街道政策とは?
- 城下町での街道のとおし方
- 東海道をふさぐように築かれた山中城
- 城下町に港をつくるには?
それでは解説していきます。
Contents
織田信長が行なった安土を発展させるための街道政策とは?
さきほどもの述べたようにいつの時代も交通の要衝をおさえることは経済面、軍事面ともに重要でした。
そのため、街道の付近や見下ろせる場所にお城を築いていました。さらに経済発展のために新しい街道を設けたり、付け替えて城下町を通すなどの工夫をしていますた。
織田信長も安土城(滋賀県)を築く際に新しい街道をつくり、安土の城下町を通るようにしていました。
安土城が築かれた安土山は東山道(中山道)から離れた場所にあったため、信長は安土を発展させるために新しい街道を設けました。
当時の安土城は琵琶湖に面した水城でもあり、水運を利用することも考えて築かれていました。そのためもともとの東山道からは離れてしまったので、信長は新しく「下街道」をつくりました。(江戸時代に朝鮮通信使が下街道を通ったため、「朝鮮人街道」ともよばれました)
しかし、もともと東山道を利用していた商人たちは新しい街道ができたからといって使ってはくれませんでした。このままでは安土を発展させることはできません。
そこで、信長は「安土山下町中掟書」という掟をだし、下記のように定めました。
- 商人は東山道ではなく、下街道を通ること。
- 商人は安土で宿泊すること。
- 近江国での馬の売買は安土でのみ行うこと。
など13か条
信長はこの掟で、商人には安土へ寄り、宿泊することを強制しています。そうすることで、安土への人の流れをつくり、城下町の発展へとつなげていきました。
スポンサーリンク城下町での街道のとおし方
信長は城下町を発展させるために、わざわざ新しい街道をつくり、城下町へと人の流れをつくっていました。
しかし、敵の軍勢は原っぱや沼地など道無き道を通ってくるわけではなく、街道を通ってきます。
お城へとつづく街道を整備することは、敵を城下へと侵入させやすくしてしまうので工夫が必要になってきます。
小田原城(神奈川県)では城下町を東海道が通っていました。東西にある出入り口には「木戸、木門」とよばれる門が設けられていて、そこに門番が置かれ厳重に管理されていました。
この「木戸、木門」は24時間開けられていたわけではなく、開閉時間は日の出と日の入りと決まっていました。なので、夜は完全に閉められており、城下町へと入ることはできませんでした。
上の「相模国小田原城絵図」では門と緑色の土手(土塁)が描かれていますが、もっと警備が厳重なお城では石垣と堀で出入り口を強固にし「総門(そうもん)」とよばれる門を設けていました。
また街道をお城の表と裏どちらを通すかというと、必ず表(大手)側を通していました。
そして街道から天守がよく見えるように計算されていたり、駿府城(静岡県)では天守と富士山が一番キレイに見えるように街道が付け替えられたとも言われています。
スポンサーリンク東海道をふさぐように築かれた山中城
山中城(静岡県)は後北条氏のお城として有名で、石垣を持たず、土塁と空堀で築かれたお城としては屈指の防御力を誇ります。
山中城の特徴の1つに、城内に東海道が通っていることです。
山中城は城下町を持たず、軍事目的のみの砦として築かれたお城だったので、城内に街道を通すことに経済的なメリットは考えられていませんでした。
山中城は小田原城の背後、箱根峠を守る要として築かれ、西から箱根を越えようとする敵に対して守りを固めていました。
山中城は天正年間(1573〜1593)のあいだに改修され、現在のように城内に東海道を通す姿になったとされています。
お城を見るときには、築かれたり改修された当時の政治情勢などと一緒に見ることで、より理解が深まります。
山中城が改修されていた頃の後北条氏はピンチな状況でした。それは西日本を制圧し、東日本を制圧することで天下統一を成しとげようとする豊臣秀吉との対立が表面化していたためです。
後北条氏は西から秀吉が攻めてくることを想定して、「岱崎出丸(たいさきでまる)」を増築することで、東海道をふさぎ、本拠地である小田原城への足止めとしました。
スポンサーリンク城下町に港をつくるには?
江戸時代の物流は水運がメインでした。江戸時代の主要街道(東海道、中山道)などでも整備がいき届いていたわけではなく、狭いところでは2mほどの幅しかないところもあったり、橋のない川や河川の氾濫で渡れなくなるなど不便でした。
そのため、水運を利用することでスムーズな移動・運搬ができました。
織田信長は琵琶湖を利用することで、岐阜ー安土ー京都間の移動をスムーズにしていました。(当時の陸上での移動手段は徒歩か馬だったので、船を利用する方が速く移動できた)
物流や移動のためには城下町に港をつくることは重要で、海に面した領地を持つ大名は海城、水城が好まれました(今治城、宇和島城(ともに愛媛県)、高松城(香川県)など瀬戸内海に多い)。
また海のない領地をもつ大名でも、利根川、木曽川、淀川など大河川を利用していました。
では城下町にはどのように港がつくられていたのでしょうか?
当時の船着き場は「舟入(ふないり)」とよばれていました。「舟入」は現代のように船が直接着岸することができませんでした。
なので、舟入には「雁木(がんぎ)」という石造りの階段をつくり、小舟に荷物を載せかえて「雁木」まで運んでいました。
舟入は城下町のはしっこに設けられることが多く、近辺には船乗り(水主(かこ))の住む町がつくられました。
海に面している海城では、やぐらを海側にも建てていました。
海側に建てても意味ないじゃないか、と思われるかもしれませんが、海側のやぐらには「海の監視」と「舟入の警護」という役割がありました。
長崎で1808年に「フェートン号事件」というものが起こりました。
この事件はオランダ商船に偽装したイギリス軍艦に長崎に来ていたオランダ人を人質にされたうえ、物資・食料を要求されたというものです。
結果、長崎奉行所はイギリス軍艦の要求を飲み、物資・食料を提供し、人質を解放してもらいました。しかし、港の警護を怠ったとして、長崎奉行所の責任者や警護を担当していた佐賀藩の家老などが切腹、佐賀藩主・鍋島斉直は100日間の謹慎となりました。
なので、やぐらを海側にも建て、「海の監視」「舟入の警護」も重要なことでした。
現存している萩藩の御舟倉
萩市(山口県)には萩藩(毛利家)の藩主が乗るための御座船や軍船を格納するための「御舟倉」が現存しています。