今回は天守の「壁」について解説していきます。
みんなは天守と聞いたらどんな色をイメージしますか??
真っ白な姫路城天守ですか?それとも、黒くて渋い熊本城や松本城の天守ですか?
白い天守か黒い天守か、好みは人それぞれ分かれると思います。
(ちなみに私は黒い天守が好きです。だって渋くてカッコいいじゃないですか)
では、白い壁と黒い壁、それぞれどんな特徴があるのでしょう??
- 白い壁の天守 塗籠・白漆喰
- 黒い壁の天守 下見板張り
- そのほかの壁 海鼠(なまこ)壁、銅板張
- 火縄銃から大砲へ 天守の壁は防弾壁!
- 黒い天守は秀吉派?白い天守は家康派?
Contents
白い天守 塗籠(ぬりごめ)・白漆喰(しろしっくい)
天守に使われている壁は土壁でできています。
土壁は竹を格子状にして、その周りに粘土状の土を塗っています。土壁は現代の一般住宅でも使われていますが、お城の場合は竹が太くなっています。
土壁のままだと柱もむき出しのままになってしまって、風雨に弱くて壁も崩れやすくなり柱も腐りやすくなってしまいます。
なので、土壁の上に漆喰を塗るか、板を張ることで壁の耐久性を高めているわけです。
土壁に白漆喰(石灰)を塗ることを塗籠(ぬりごめ)と言います。
塗籠は真っ白な優雅な姿へと天守を変身させ、姫路城天守は塗籠の代表的な天守で「白鷺(しらさぎ)城」の別名を持つほどです。
塗籠は風雨にさらされると、しだいに溶けだし最後ははがれ落ちてしまいます。
そのため、約10年ごとに塗り替えなくてはいけませんでした。
大名からすると真っ白な天守は美しいですが、10年ごとに塗り替えが必要なのでお金とも相談しながら美しさを保っていかなくてはなりませんでした。
美しさを維持するためにお金がかかるということを逆手に利用して、白亜の大天守を建てることは幕府の威厳を見せつけることに効果的でした。なので江戸城・名古屋城・大坂城はすべて塗籠で白い天守でした。(「幕府はこんなにお金持ってるんだぞ」といばるために)
スポンサーリンク黒い天守 下見板張(したみいたばり)
下見板張(したみいたばり)は土壁の上に板を貼り付けたものです。
板は風雨に強く、耐久性は約50年で、塗籠と比べるととても経済的な壁になります。
織田信長の安土城天主や豊臣秀吉の大坂城、あと岡山城と広島城などの初期の天守では板に「漆(うるし)塗り」をしていました。
しかし漆は黒く輝き威厳があるのですが、紫外線に弱いので2,30年ごとに塗り直さなくてはいけませんでした。
漆塗りはお金がかかるので下見板張のほとんどは長持ちさせるために「墨」を塗っていました。
墨塗りは塗り直しも必要なく経済的だったため広く普及していきます。
そのほかの壁 海鼠(なまこ)壁、銅板張り
海鼠(なまこ)壁は江戸時代により耐久性のある壁として登場しました。
海鼠壁とは土壁の上に瓦を貼り、瓦同士の隙間を漆喰(しっくい)を盛り上がるように塗っていったものです。
当時の人は盛り上がった漆喰がナマコに見えたから、海鼠(なまこ)壁と呼ぶようになりました。
塗籠や漆塗りより高級な材料を壁に使った例として3代将軍家光の時代の江戸城天守に銅板が貼られていたといわれています。
銅は貨幣として使う材料で、そんな高価な銅を天守の壁面に使うことは当時の人びとを驚かせたでしょう。
スポンサーリンク火縄銃から大砲へ 天守の壁は防弾壁!
一般的な天守や櫓の土壁の厚さは約30センチから60センチほど。
戦国時代の火縄銃の弾丸は約22.5グラムの鉛玉で、厚い土壁は火縄銃に対して十分な防御力を持っていた。
しかし戦国時代後半から江戸時代になってくると、城攻めには火縄銃だけでなく大砲も使用されるようになってきます。
大砲はヨーロッパからすでに輸入されていたし、国産の大砲も生産されるようになっていました。
日本で最初の大砲による城攻めは1600年の関ヶ原の戦いに関連しておきた「大津城の戦い」です。
東軍が守る大津城(滋賀県)を西軍が1万5千の兵で攻めかこんでいました。
西軍は大津城から約1キロ離れた山の上に大砲を持ち込み、城へ向かって砲弾を浴びせかけました。
当時の大砲の命中率は非常に低かったけど、運良く天守にあたり城主の妹が気絶したと伝わっています。
次に大砲が合戦に登場したのは大坂冬の陣です。
大坂冬の陣で徳川家康はイギリスなどから輸入した大量の大砲を用意し目印となる大坂城天守めがけて砲撃しました。
大坂城天守への直撃はありませんでしたが、本丸御殿に命中したと言われています。
戦国時代の大砲は、重さ約4キロの鉄球で、天守へ直撃したとしても柱を1本へし折るくらいの威力しかありませんでした
(砲丸投で中学生男子が5キロの鉄球を投げてます)
関ヶ原以降、天守や櫓などは、鉄砲や大砲に対する防弾性を高めるためにいろいろな壁が登場してきます。
もっとも簡単な壁の防弾性UPの方法は、土壁の中に石や瓦の破片を埋め込むという方法です。
この壁は「太鼓(たいこ)壁」とよばれました。
太鼓壁は少しすき間を開けた土壁を2つ作り、そのすき間に石や瓦のガレキを詰め込んでいきました。
厚さ30センチほどのガレキの層を作るだけで当時の大砲は十分に防ぐことができました。
そのほかの例として、名古屋城天守は壁の中に厚さ12センチの欅(けやき)の板を埋め込むというものでした。
もっとも厳重な天守の壁は福山城天守(広島県)でした。
福山城天守の北側の壁は厚い土壁の上から鉄板を貼り付けていました。
福山城は城の北側からの攻撃が想定されていたので北面だけを鉄板張りにして大砲攻撃に備えていました。
黒い天守は秀吉派?白い天守は家康派?
黒い天守は秀吉派で、白い天守は家康派ということはよく言われますが実は関係ありません。
ただ秀吉の大坂城は黒漆塗りの黒い天守で、家康の江戸城・名古屋城・大坂城は塗籠の白い天守だったことから、こう言われるようになったのかもしれません。
秀吉派といわれる毛利家の萩城は白いですし、徳川家康が生まれた岡崎城は黒いです。
なので黒い天守にするか、白い天守にするかは大名がそれぞれの感性やお金と相談しながら決めていったようです。